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コラム

文化遺産(国内)

佐渡金銀山の世界遺産登録を目指して

新潟県教育庁文化行政課世界遺産登録推進室
佐渡市世界遺産推進課

pic_column01_01相川金銀山「道遊の割戸」
慶長6(1601)年に発見された、鉱脈を人力で掘り割った跡(ひ追い掘り)で、相川金銀山のシンボルである。[国史跡]  撮影:佐渡市

1.世界遺産登録に向けた経緯

佐渡島では、20年ほど前からわが国最大の金銀鉱山である相川金銀山を世界文化遺産に登録しようとする動きが始まっていた。しかし、10の市町村から成る佐渡が足並みを揃えるには、2004年の市町村合併を待たなければならなかった。同年、佐渡市教育委員会に佐渡金銀山室が設置され、2006年には県の文化行政課に専任職員を1名配置。翌年、世界遺産登録推進室を設置して、ようやく県、市がそろって登録運動を推進していくこととなった。

 

当時、世界遺産の登録に当たっては、暫定一覧表への登録も含め、全て国主導で候補の選定、登録を行っていたが、2006年に新たな試みとして、公募が行われることとなった。新潟県もこれに応じて提案書を提出。一時文化庁側から石見銀山との拡大統合などの案も出されたものの、最終的には2010年の世界遺産特別委員会で「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」という名称で世界遺産暫定一覧表に記載することが決定した。

 

その後、推薦書案の作成を本格化し、現時点では佐渡を代表する鉱山である西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山を中心に7つを構成資産として登録を目指している。なお、登録に必要な保存への法的措置については、構成資産候補の全てが国重要文化財、史跡、重要文化的景観に指定、選定されている。

pic_column01_02図1 佐渡金銀山の構成資産位置

pic_column01_03図2 佐渡金銀山の歴史

2.佐渡金銀山とは

(1)佐渡金銀山の歴史

 

歴史的には、平安時代末期に既に産金についての記録があり、佐渡へ流罪になった世阿弥もその著書『金島書』の中で「金(こがね)ノ島」として触れているが、これは西三川地区で採取された砂金のことであると考えられている。

 

1542(天文11)年には越後国の商人によって鶴子銀山が発見されたと伝えられ、鉱脈の表面を採取する「露頭掘り」、鉱脈に沿って鉱脈だけを掘る「ひ追い掘り」、鉱脈に向かってトンネルを掘る「坑道掘り」などの技術が導入された。さらに、そうした技術の一つの到達点として、1596(慶長元)年には相川金銀山が発見され、以後400年にわたる長期のしかも大量の金の産出の時代が始まった。最終的には、1989(平成元)年の閉山までの間に78トンに及ぶ金と銀2,330トンを産出した、国内最大の金銀山である。

 

(2)西三川砂金山

 

西三川砂金山は佐渡島の南西部に位置し、堆積砂金鉱床という国内でも珍しい砂金山である。西三川砂金山に由来する西三川の河口付近では、平安時代末頃には砂金の採取が始まっていたと思われるが、中心となる時代は16世紀末以降と考えられている。

 

ここでは1872(明治5)年まで、砂金山では「大流し」という特徴的な砂金採取技術が用いられていた。これは砂金を包含する山の斜面を掘り崩し、上流の堤に溜めた水を一気に流して不要な土砂を取り除いた後、砂金を採取する技術である。

 

西三川砂金山には、「大流し」による大規模な遺構群と関連する遺跡、施設が良好な状態で保存されている。砂金採取システムを示す水路、堤、砂金採掘跡が一体となって遺存する五社屋山などの砂金山跡、砂金採取に携わった鉱夫達の集住によって形成され現在に続く笹川集落、江戸時代の砂金山名主として集落を統括していた金子勘三郎家住宅、宗教施設としての大山祗神社などさまざまな遺跡がある。

pic_column01_04西三川砂金山(虎丸山)
砂金山最大の採掘地。砂金を採るために掘り崩された山の斜面が、現在も赤色の山肌を見せている。[国史跡・国重要文化的景観]  撮影:佐渡市

(3)鶴子銀山

 

鶴子銀山は、相川金銀山の約1.2㎞南方に立地している鉱山遺跡である。鉱脈は銀が主体で、資産範囲には露頭掘り跡556基、間歩跡(坑道)108基の採掘跡とともに、鉱山の管理施設や選鉱・製錬遺構、鉱山集落跡が良好に保存されている。

 

鶴子銀山の開発は、1542(天文11)年のこととされ、ここは佐渡で本格的な鉱山開発が最初に行われた鉱山で、相川金銀山が発見されるまで、佐渡最大の銀山であった。1589(天正17)年には、越後の戦国大名・上杉景勝が佐渡を攻略し、鶴子銀山に管理施設を建て、代官を置いて銀山経営を統括させた。

 

上杉氏の佐渡支配によって、鉱山開発は大規模化し、石見銀山からの技術導入もあり、採掘・選鉱・製錬等が分業で行われるようになった。この分業化によって、作業効率も高められ、多くの鉱山労働者が各地から集まり、鶴子千軒と呼ばれる繁栄期が出現した。

 

近年の発掘調査によって、上杉時代の鉱山経営の拠点であったと考えられる「鶴子銀山代官屋敷跡」と隣接する鉱山集落遺跡「鶴子荒町遺跡」の状況が明らかになっている。鶴子荒町遺跡は、標高約90〜134mの斜面地を造成した大小の不整形な平坦面群で構成されている。この平坦面群は、計画的に造成が行われたわけではなく、銀山の繁栄によって多くの鉱夫が流入し急速に拡大していった状況を示している。また、隣接する代官屋敷跡は、丘陵の張出部の三方向を沢に囲まれた要害の地に営まれ、土塁で囲まれた内部には、管理施設が設けられている。こうした不整形な平坦面群の拡大や隣接する管理施設の存在は、大規模な鉱山開発に伴って、計画的なまちづくりが行われた相川へ展開する前段階の集落形態を示している。

 

鶴子銀山の山師が付近の鉱脈を探査し、相川に優良な鉱脈を発見したことが、相川金銀山の発見につながったとされ、鶴子銀山の発展が相川における金銀山開発の先駆けとなったという点において重要な資産である。

 

鶴子銀山はその後も小規模な採掘は続けられたが、1946(昭和21)年に鉱石枯渇により閉山となった。

pic_column01_05鶴子銀山(大滝間歩)
江戸時代の絵図にも記録されているもので、鶴子銀山を代表する坑道の一つ。ロボットによる探査により、遺構の状況が絵図とほぼ一致していることが判明した。[国史跡]  撮影:佐渡市

(4)相川金銀山

16世紀末から20世紀末までわが国最大の金産出量を誇った鉱山で、江戸時代から明治時代半ばにかけては、国が管理し、産出された金は全て貨幣製造に使われた。国の財政を支えた鉱山として、常に設備投資や技術改良が行われ、手厚く保護されていたため、400年間に及ぶ長期の金生産が可能となり、金生産技術システムの変遷を示す多くの資産を残すこととなった。さらに、金生産技術システムの発展に対応し、金生産を支えた人々の暮らした鉱山集落・鉱山町の変遷過程を見ることができる痕跡を今も多く残している。

 

【安土・桃山時代~江戸時代】

相川金銀山発見は、安土・桃山時代末期の16世紀末ごろに、鶴子銀山の山師により優良な鉱脈が発見されたことによる。

 

稼ぎ場に近い丘陵部(上相川地区)に大規模な鉱山町が形成され、鉱山の神を祀った大山祗神社を基点とし、平行する何本かの道沿いに階段状に短冊形の地割りを配し、周囲の丘陵部には寺院が建立された。上相川地区は、鶴子荒町遺跡に比べより計画性を持って発展した鉱山町としての形態を備えている。

 

1603(慶長8)年、佐渡は徳川幕府の直轄地として支配下に置かれ、初代の代官である大久保長安によって整備されることとなった。幕府は国内各地から山師を集め、最先端の測量、採掘、製錬技術などを導入した。相川金銀山の繁栄によって移住者が増加したことから、海成段丘上に奉行所を中心とした新たな鉱山町(上町地区)が造られた。その後、段丘下の海岸部の埋め立て(下町地区)により町はさらに拡大していき、金鉱石の採掘から選鉱・製錬までの作業工程をシステマチックに行う完結した鉱山町が誕生した。

 

その後も、鉱山の生産量を維持するため、新たな施策を次々に実施し、1696(元禄9)年には排水のための南沢疎水道を掘削、1759(宝暦9)年には奉行所内に選鉱・製錬施設を集約した寄勝場を設置した。しかし、18世紀の半ばからは、鉱石の品位の低下や坑道の水没などにより金銀の産出量が低下し、盛衰を繰り返しながら幕末を迎えた。

pic_column01_06相川金銀山(京町通り)
大久保長安(初代代官)によって17世紀初頭に整備された鉱山町のメインストリートで、現在でも短冊形の地割も含め鉱山町の雰囲気を保っている。[国重要文化的景観]  撮影:佐渡市

【近・現代】

明治政府は、1869(明治2)年に相川金銀山を「佐渡鉱山」として官営化し、御雇外国人(技術者)を招聘するとともに、欧米からさまざまな技術や機器を導入して近代化を図った。技術の多くが国内初のものであり、国内の他鉱山における近代化・技術発展に貢献した。また、明治時代中期(19世紀後半)以降の日本人技術者による研究・開発や国内技術者の育成においても、「模範鉱山」として中心的な役割を担っていた。各帝国大学の実習の場としても活用され、多くの実習報告が残されている。これらは、佐渡鉱山が鉱山技術の「実験場」としての役割を担っていたことを示している。

 

その後、1896(明治29)年に民間会社(三菱合資会社)に払い下げられたが、官営時代と同様に重要な鉱山という位置付けは変わらなかった。昭和初期(1912~1918年)には、国策として金の大増産が図られ、さまざまな施設の新設、増築が行われ産金量は過去最大となったが、戦局の悪化で金から銅生産への転換が図られ、1943(昭和18)年の「金鉱山整備令」により金生産は休止された。戦後は1952(昭和27)年に操業が大規模に縮小され、1989(平成元)年に佐渡鉱山は休山となり長い歴史に終止符が打たれた。

 

佐渡鉱山の近代遺跡では、採鉱(大立竪坑)、選鉱(高任粗砕場、高任貯鉱舎、北沢浮遊選鉱場)、製錬(間ノ山搗鉱場、北沢青化製錬所)の各工程において稼働した中心的な施設のほか、運搬施設としての大間港、北沢火力発電所、戸地川第二発電所などの動力供給施設など、金生産システムを構成する要素が建造物や遺跡として現存している。

pic_column01_07相川金銀山(南沢疎水道)
坑内の湧水処理のための排水坑道(延長約1km)で、1691(元禄4)年から5年間で掘削した。6カ所から同時に掘り進め、誤差1m以内という高い測量技術が使われた。[国史跡]  撮影:佐渡市

pic_column01_08相川金銀山(上相川遺跡)
戦国時代末に相川金銀山の開発に伴って計画的に形成された鉱山集落跡で、斜面に造成された短冊形の平坦地が道に沿って連なっている。東西800m、南北300m、総面積は約20haに及ぶ。[国史跡]  撮影:佐渡市

pic_column01_09相川金銀山(大立竪坑櫓)
貴金属鉱山では日本最初の洋式竪坑で、1877(明治10)年に完成。背後の岩盤内にケージの巻上機室がある。最深部は352mに達し、鉱石・物資・人員の運搬に使われた。[国史跡・国重要文化財]  撮影:佐渡市

pic_column01_10相川金銀山(北沢浮遊選鉱場)
1938(昭和13)年に完成した選鉱場で、月間5万tの鉱石処理能力があり、東洋一の規模と言われていた。右端には、1908(明治41)年に建てられたレンガ造りの火力発電所の建物が見える。[国史跡]  撮影:佐渡市

3.世界遺産としての価値

世界遺産への登録に際しては、「世界遺産条約履行のための作業指針」にある文化遺産に関する6つの価値基準のいずれかに当てはまる必要があるが、佐渡は基準(ⅲ)と(ⅳ)に該当すると考えている。

 

基準(ⅲ):「文化的伝統の存在を伝承する物証として無二(少なくとも希有)の存在」

 

各鉱山の開発に伴って成立・展開した鉱山集落や町並み、墓地などの痕跡は、400年以上の長期にわたる社会の変遷過程を知ることができる世界でも希な例である。

 

基準(ⅳ):「科学技術の集合体を代表する顕著な見本」

 

鉱床の状況に適応した採鉱から選鉱、製錬という金生産技術(システム)の変遷を示す遺跡や建造物が良好に残り、アジアを代表する鉱山遺跡として顕著な見本である。

4.佐渡金銀山の世界遺産化の意義

(1)世界遺産条約成立直後の動き

 

1960年代のエジプトのヌビア遺跡の救出にかかる国際的な遺産保存の動きの集大成として、1972年に世界遺産条約が可決された。その後のほぼ20年間にわたって、いわゆる一見して世界遺産らしいものを世界遺産にしていくという暗黙の了解が、1年に7件から最大1年に45件に至るまで、世界遺産の数を増加させていった。具体的には、規模の大きなもの、費用のかかったもの、石造、ヨーロッパの中世といったものから選出されるという傾向が顕著であった。しかしこの動きは、世界遺産として価値があるとはどういうことか、遺産としての見方に偏りはなかったのかという疑問を呈することとなり、是正の動きへとつながっていった。

 

(2)登録の不均衡の是正

 

こうした動きに連動して、世界遺産センターとユネスコ諮問機関「イコモス(国際記念物遺跡会議)」では、1994年10月にそれまでの世界遺産登録の動きを分析し、ヨーロッパ地域の遺産、歴史的な都市と宗教上の建造物、キリスト教関連、近現代を除く有史時代の遺産、著名な芸術家の手になる建造物の5分野で過度の評価が行われていたことを反省し、他の分野にもっと光を当てるように提言がなされた。具体的には、産業遺産、文化的景観、20世紀の建築である。

 

こうして、従来では対象になりにくかった佐渡金銀山のような遺産にも、登録への道が少しずつ開かれていくことになった。

 

(3)「イコモス――ティッキ勧告」

 

「イコモス」と「ティッキ(TICCIH、国際産業遺産保存委員会)」では、2014年に両組織の会長覚書という形で、産業遺産を世界遺産として登録を進めることに理解を示した。「世界には、いわゆるイギリス型の産業革命によって生み出された産業遺産の他にも、文化や地域によって異なるタイプの産業遺産が存在すること、産業というものをマクロの目で見て、その成り立ちから産業衰退後までもが産業遺産の一部であることに留意しなければならない」といった警告であった。

 

すなわち産業遺産とは、産業革命の痕跡に限らず、それ以前の数世紀に及ぶ先駆けとなった伝統を指すものであり、それは技術の専門化の深化、生産能力の強化、限定された地域の市場を越えた流通や消費、産業化の進展を示す特徴といった形で表れてくるものであり、産業の衰退に伴う遺跡の保存管理に必要な計画、政策決定、修復も含まれる。

 

佐渡金銀山は、こうした産業遺産の定義に関するほぼあらゆるものを包含する新しいタイプの世界遺産になり得るものである。

 

(4)佐渡金銀山が世界遺産になることの意義

 

佐渡の金銀山は、当初の世界遺産の概念からは決して登録されることのないタイプの遺産であった。しかし、将来の人類に残すべき優れた価値ある遺産とはどのようなものであるべきかといった検討の結果、評価されるべき遺産として考慮されることになった。

 

400年にわたる産金活動の跡がそのまま残る、世界でも珍しいタイプの産業遺産であるだけではなく、それに伴う生活の痕跡も、時代によって変遷しつつ残されてきた貴重な遺産である。

 

いわば、産業遺産と歴史型(主として技術史)遺産の複合型と言うべきもので、重層的にこうした痕跡が残っている鉱山は世界的に見ても非常に貴重なものであり、その登録は産業遺産の面からも大いに意義があるものと考える。

 

佐渡金銀山が世界遺産として評価される日を待ち望んで、今も地道に調査研究・情報発信を続けている。

文責:吉田 博
新潟県世界遺産登録推進室参与

公開日:2016年1月13日最終更新日:2016年1月13日

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