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コラム

KOKUSAI BUNKAZAI CO.,LTD.

入れ歯の考古学

土岐 耕司 / Koji TOKI

国際文化財株式会社 埋蔵文化財調査士

入れ歯と出会う

沖縄県北谷町(ちゃたんちょう)にて、戦前までの近代遺物を仕分けしていたとき、出会ったのが「入れ歯」。予想外のできごとに驚き、「ヒャッ!」と変な声が出てしまいました。

発掘調査でヒトの骨を見ても特にビックリすることはないのですが、入れ歯には何か苦手意識があることに、このとき気づきました。小さいころ、祖母がおもむろに口からそれを取り出したとき以来の戦慄。

平A・4471a写真1 平安山原A遺跡出土の「入れ歯」(提供:北谷町教育委員会)

入れ歯について考えてみる

気を取り直して、どうしてこれが遺跡から出てきたのか、思いを馳せてみました。人は普通に生活していれば、そうそう入れ歯をなくすことはないだろう。でも、死んで火葬するときは外すなー。うちのばあちゃんのときもそうだった。あ、このころの沖縄は火葬しないなー。でも、死んだらやっぱり外すよなー。外したらどうなる?形見にする?しないよなー。結局は燃えないゴミ?どの段階で?

よくよく考えてみると、この遺跡があった一帯は、1945年3月に米軍による空襲を受けています。必死に逃げ惑うオジイ(オバアかも)が、ぽろっと口から落としたのかもしれない。もしかすると、そのとき命を落としたかもしれない・・・。もしそうなら、怖がっている場合じゃない。真剣に向き合ってみようと思いました。

入れ歯を観察してみる

ポリグリップをつけるところの形からすると、これは下顎用。少し小さい感じがするので、持ち主は女性だったかも。歯は14本あるから、標準的な大人の数と同じ。その形はかなりリアル。歯ぐきのところは割と硬いけど、なんとなくの弾力感もある。全体の色はオレンジだけど、前歯の下だけは肌色に塗られている。笑ったときナチュラルにみえるように気配りされているようだ。それ以外は・・・、右側の磨り減り方がやや強い・・・。

入れ歯を手にしてそれを観察すること自体、生まれて初めてのこと。これ以上観察しても、何も出てきそうにありません。入れ歯を語るには、私は若すぎるのか。入れ歯を使っていそうな先輩方に任せてしまおうか。いや、縁があってせっかく出会ったのに、それもなにか悔しい気がする。こうなったらその道の権威に訊いてみよう、ということで日本歯科医史学会に問い合わせたのでした。

入れ歯の歴史

同学会の渋谷先生からたくさんの情報を提供していただきました。

【義歯の床部分】

日本での義歯(入れ歯)の歴史は室町時代に始まり、「木床義歯」とよばれるものが作られていました。ただし、とても高価なモノで、一般庶民の手に届くようなものではなかったそうです。

明治に入ると、アメリカを中心とした諸外国の歯科医師の来日により、近代歯科医学の導入が始まりました。1852年、タイヤメーカーであるアメリカのグッドイヤー社が、高温・高圧で固めた蒸和ゴムの開発に成功、それが義歯の「床」に利用されるようになります。日本への輸入開始は1880(明治13)年ごろといわれ、それ以降、「木床義歯(別名:皇国入れ歯)」はこの「ゴム床義歯(西洋入れ歯)」にとって代わられます。

第二次大戦後は、現在のレジン床に変わります。

【義歯の人工歯部分】

「木床義歯」における人工歯には、蝋石・象牙などが使用され、特に奥歯の咬合面(噛む面)には鋲などが利用されています。

「ゴム床義歯」になると、人工歯は精巧な陶材になります。最初に開発(1845年?)したのはアメリカのS.S.White社です。

【先生のコメント】

・当時は健康保険がなく全部自費診療の時代ですので、かなり高額の診療代であったと思います。

・いずれにしても、しっかりした形で残っている点で、貴重な資料です。

真田幸村の娘の入れ歯

「木床義歯」について、宮城県の「河北新報 オンラインニュース」に記事がありました(2016年8月22日)。以下、抜粋です。

「NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公真田信繁(幸村)の娘で、2代白石城主・片倉小十郎重長の後妻となった阿梅(おうめ)の木床(もくしょう)義歯が23日、阿梅の墓がある宮城県白石市本町の当信寺で初公開される。加齢で歯の本数が減るに従い、三つの時期に作られた計5点。7月に調査した檀家(だんか)の歯科医、清原敏明さん(50)=白石市=は「3期にわたって同一人物の木床義歯が現存する例は珍しい」と説明する。

1615年の大坂夏の陣。伊達政宗の家臣として徳川方についた重長は豊臣方の幸村と激闘を演じた後、阿梅ら幸村の子女を引き取り、白石でひそかに養育した。阿梅は81年、78歳で亡くなったと伝わる。

3期の義歯のうち、「前期」は上顎のみの部分入れ歯。「中期」は上顎が本人の歯1本分をくり抜いた部分入れ歯、下顎が総入れ歯の1組で、「後期」が上顎、下顎とも総入れ歯。1951(昭和26)年に阿梅の墓を改葬した際、副葬品として見つかり、寺が保管してきた。

清原さんによると、材質は堅くて弾力があるツゲの可能性が高く、歯の造形は材に溝を彫ってこしらえた。中期と後期の奥歯には、金属のびょうが何本も打ち込まれ、極度の摩耗で抜けた痕もある。前歯には、お歯黒が塗られた痕跡、キセルでたばこを吸う習慣で生じたとみられるへこみが確認された。

木床義歯の国内最古の出土例は1538年で、市教委によると、県内では少ない。阿梅が生きた江戸時代には、仏師から派生した入れ歯師が蜜ろうで口の型を取って原型を彫り、微調整を重ねて仕上げたという。

清原さんは、阿梅の身長が140センチ程度で、50歳前後に前期の義歯を使い始めたと推測する。「奥歯でしっかりよくかんで食べられたことが、長寿につながったのではないか」と分析し、「入れ歯師の卓越した技術と並々ならぬ情熱を感じる」と舌を巻く。」

この記事、幸村の娘が入れ歯を使っていたという事実にも驚きますが、それよりもこの清原さんの観察眼には感服してしまいます。

宜野座村の入れ歯

沖縄県北部にある宜野座村の資料館で、戦争遺跡の企画展がありました。戦争直後に設置された共同墓地から出土したものとして、複数の「ゴム床義歯」が展示されておりました。こちらでは上顎用・下顎用がどちらもあり、形もさまざま。つまり量産品ではなく、すべてオーダーメイドなのでしょう。だいぶ使い込まれていたためか、金具で補強されたものもありました。保険が利かず高額であったことが、ここでも感じられました。

写真2:宜野座の展示写真2 宜野座村で展示されていた入れ歯(筆者撮影)

入れ歯の作成・メンテナンス

型をとって入れ歯を作ったり、金具で補強したり、このような技術をもった人は誰だったのでしょうか。常識的に考えると、その人は沖縄の島内にいたはずです。

戦前の北谷町域には2軒の「ハーヤー」があったことは分かっています。「ハーヤー」とは「歯屋」、すなわち「歯医者」だと思われます。入れ歯の作成やメンテナンスには、彼らが何らかの形で大きく関わっていたのではないでしょうか。

桑江ハーヤー写真3 戦前北谷の屋号地図(下方18が「ハーヤー」、『北谷町の地名』より)

考古学上の入れ歯

現在の「レジン床義歯」は、アメリカでは昭和のはじめごろ使われていたようですが、日本での普及は戦後なのだそうです。ということは、「ゴム床義歯」は明治13年から昭和20年までに作られたことになります。

考古遺物としてはかなりの「珍品」にはなりますが、作成された年代がとてもはっきりした「モノ言う遺物」と言えるのではないでしょうか?

【追記】

本コラムへの反響(?)として、某氏から以下のエピソードをいただきました。

そのむかし、某発掘現場の排土のなかから「入れ歯」を拾ったとのこと。この「入れ歯」は「遺物」ではなく、なんと作業員さんの「落しもの」だったそうです。ご本人はいたって冷静だったそうなので、初犯ではなかった可能性もあります。

本コラムにおいて、私は「普通に生活している分には、そうそう入れ歯をなくすことはないだろう。」としましたが、必ずしもそうとはいえない事例があることを追記しておきます。

参考文献
『平安山原A遺跡』北谷町教委(2016)
『北谷町の地名』北谷町教委(2006)
河北新報 ONLINE NEWS「幸村の娘の義歯を初公開 異なる時期の5点」
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201608/20160822_15023.html
吉田製作所1906年からの歩み 会社の歴史
http://www.yoshida-net.co.jp/jp/company/100years_foundation.html

協力者・協力機関
日本歯科医史学会 渋谷 鑛氏
沖縄県北谷町教育委員会
沖縄県宜野座村教育委員会

公開日:2017年2月23日最終更新日:2017年3月29日

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