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Vol.27

特集3

沖縄の墓について

田名 真之 / Masayuki Dana
沖縄県立博物館・美術館長

pic27_03_01伊是名殿内墓 撮影:著者

はじめに

沖縄の墓の特徴は、その形と大きさであろう。形は家の形をしており、大きさもちょっとした家と同じくらい大きい。石づくりの文字通り「死者の家」である。

沖縄戦の際には、墓室内のご先祖様の厨子甕ずしがめに青空の下、墓庭はかなーに出てもらい、生きている子孫たちが墓室内に畳を敷いて、避難していたケースも多かったという。

沖縄の墓には、国、県、市町村の指定文化財となっているものが多い。王家の墓である「玉御殿たまうどぅん」。浦添の「ようどれ」や「伊是名玉御殿いぜなたまうどぅん」、尚王家の分家筋から成る王子家の「伊江御殿墓いえうどぅんばか」、新都心地区の「伊是名殿内墓いぜなどぅんちばか」、糸満の「幸地腹門中墓こうちばらむんちゅうのはか」は敷地面積5,400㎡を誇っている。さらに宮古の「仲宗根豊見親なかそねとぅゆみゃのミヤーカ」など、枚挙に暇がないほどである。

沖縄の墓の形と大きさについて、墓の歴史やその背景などを以下に述べていくが、それとともに、現在の墓をめぐる問題についても取り上げる。

pic27_03_02伊是名玉御殿 撮影:著者

1.墓の外観

古墓の最もポピュラーな形態をしたものが「亀甲墓かーみなくーばか」である。墓の上に亀の甲羅を乗せたような墓である。それに先行するのが、王家の墓で用いられる「破風墓はふーばか」で、士族層はそれを崩した形の「平葺墓ひらふちばー」を用いていた。「亀甲墓」は、中国の土饅頭型の墓がモデルとされている。17世紀の後半に中国の漂流民であった曾得魯そうとくろが造営した「伊江御殿墓」が最古だとされ、建造は1690年前後である。その後、「亀甲墓」ブームが到来したようで、「向姓辺土名家墓しょうせいへんとなけばか」などは、「平葺墓」を「亀甲墓」に改修したとされている。

ただし、似ているのは外観のみで、構造や機能などは全く異なっている。沖縄の墓の原型は、崖の中腹の隙間、穴を利用して棺を収め、前面を石で覆う崖葬墓である。それが丘陵の斜面に横穴を掘って前面と上部を加工する形式の「平葺墓」や「波風墓」に発展したのである。

pic27_03_04伊祖の高御墓。英祖の父親「ゑその世の主」の墓と伝わる。 撮影:著者

2.墓の大きさ

墓は、墓本体と袖石垣で囲まれた墓庭からなっている。王府時代の墓地敷地の規定では、庶民は六間角、士族は十二間角までとなっていた。この規定から庶民は36坪(118.8㎡)で士族は144坪(475.2㎡)が上限だったことになる。

 

さて、墓が大きい理由は三つある。一つ目は葬法の所為で、火葬ではなく風葬であり、遺体を収めた棺桶を墓室に安置するため、棺桶を入れるだけのスペースが必要だからである。二つ目も葬法の関連で、3~5年目に棺桶の遺骸を取り出し、洗い清めて(洗骨)、厨子甕に収めるのであるが、全身の骨格を収めるため、厨子甕や石棺などの蔵骨器が相応の大きさをしているからである。三つ目は、墓が個人墓ではなく、家族や一族など集団の墓だからで、何代にもわたって使用され、多くの人々の厨子甕を収納する必要があるからである。

pic27_03_03伊是名玉御殿東室内部 撮影:著者

3.墓の所有のアラカルト

沖縄の墓は所有の有り様で、「門中墓」や「家族墓」などと分類される。「門中墓」は、いわば一族の墓である。何代にもわたって使用し続けると、いずれ満杯になってしまう。こうした事態への対処は、「七代経つと神を生ず(死後七代目には神になる)」と信じられていたので、「神御墓」と称して墓を閉じてしまい、新たな墓(当世墓)を仕立てる。これは、首里や那覇での士族階層を中心にした対処法である。

 

さらに士族の男子は、分家して「分家墓」を仕立てるという観念も、「神御墓」の成立とほぼ同時期に生まれたようである。本家も分家もそれぞれの家族で墓を営むことになるが、「門中墓」に対して「家族墓」と呼んでいる。

 

一方で、南部地域では、庶民層が「門中墓」を継続して用いた。洗骨して厨子甕に収めても、三十三年忌を済ませると、厨子甕の骨を墓室内の「池」と呼ばれる区画にこぼして、厨子甕は処分する。こうして墓室内に厨子甕が大量に存在する状況を作らない、という方法である。

 

首里、那覇、中部地区の墓は「神御墓」であれ、「家族墓」であれ、厨子甕に「銘書」が書き入れられ、名前や肩書き、洗骨年月日が記され、個人が特定される。仏壇の位牌は没年月日であるが、厨子甕の銘書は洗骨年月日である。

4.墓をめぐる今日の課題

沖縄は1972年の日本復帰まで、「墓地埋葬法」が適用されておらず、個人で墓を造り、開発業者も墓団地を造営していた。小規模の墓が山の斜面に整然と配された光景が、南部地区を中心に沖縄中に広がっている。もともと駐車スペースや周りの環境への配慮が足りないといった問題を抱えていたが、半世紀を超える中で、コンクリート造りの墓の劣化が深刻な状況を迎えている。

 

「門中墓」から「家族墓」への移行や、次々生み出される「分家墓」への対応。また、墓の建設の許認可について、県から市町村へ事務が委譲され、各自治体では、墓地整備計画を作成して、墓地建築禁止地区の設定、市営納骨堂の建設などが検討されている。文化行政として、古琉球、近世墓の指定への継続的な取り組みなどが求められるが、同時に、戦後の老朽化した墓団地への対応など、墓をめぐる課題は山積している。

pic27_03_05墓の団地 撮影:著者

公開日:2016年10月3日最終更新日:2016年10月3日

田名 真之だな・まさゆき沖縄県立博物館・美術館長

1950年沖縄県那覇市生まれ。神戸大学文学部史学科卒業。那覇市市民文化部歴史資料室室長、沖縄県立芸術大学教授、沖縄国際大学総合文化学部教授を経て現職。主な著書に『沖縄近世史の諸相』(ひるぎ社、1992)、『図説 琉球王国』(共編、河出書房新社、1993)、『沖縄県の歴史』(共著、山川出版社、第2版、2010)、『大学的 沖縄ガイド――こだわりの歩き方』(共著、昭和堂、2016)などがある。沖縄文化協会比嘉春潮賞、沖縄研究奨励賞、窪徳忠賞など受賞。

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