考古学
大便器のはなし
沖縄県北谷(ちゃたん)町にある平安山原(はんざんばる)A遺跡で、「信楽焼の和風大便器」の破片が出土しました。近代の地層から出土したその破片は、白地に青や緑の色があしらわれたカラフルなものでした。これまでの私の発掘人生において、遺物として便器を手にとったこともなければ、便器が出土するといった発想すら抱いたこともありませんでしたが、じっくりと向き合ってみた結果、沖縄ならではともいえる、なかなか面白いことが分かりました。
大便器の形状
江戸時代の大便器は木製で、開口部は「木枠」でしたので、その上面観は長方形になります。木製便器は腐食しやすいこともあって、明治に入ると陶器製のものが作られるようになりますが、初期のものは木製と同じく長方形でした。表面には絵柄が施され、高級品だったそうです。その後、さらに品質を高めるために高温で焼成されるようになると、ゆがみの出にくい現在の小判形に変わっていきます。したがって、便器は長方形木製→長方形陶製→小判形陶製と移り変わったのです。
遺跡から出土した破片には「直角の隅」と「辺」があるので、陶製としては古手の長方形タイプである、ということになります。そもそも高級品であったことに加え、当時の沖縄に流入する物資は全て船で運ばれたことを併せると、この所有者に相当な財力があったことをうかがわせる遺物である、とも言えるでしょう。
出土した信楽焼の大便器
遺跡の別な場所からは、和式風便器の痕跡が遺構として見つかっています。コンクリート板に小判形の穴が刳り貫かれた状態でした。大便器自体はそこにはありませんでしたが、これから陶製大便器を設置しようとしていたのかとも感じられます。穴が小判形ということは、比較的新しい時期のものと想像できます。
沖縄の伝統的便所と風俗改良運動
検出された和風便所(矢印)
高級大便器の話はともかく、トイレから便器の穴が出てきたから何だ、と思われるかもしれませんが、ここまで力説しているのには訳があります。ご存知の方もおられるとは思いますが、沖縄の伝統的なトイレは「ウヮーフール」と呼ばれるものです。「ウヮー」は豚のこと、「フール」は便所のこと、すなわち「豚便所」です。人間が用を足し、その排泄物が行く先には豚がいて、そのままエサとなるのです。人間の食物からの栄養吸収率は、実は非常に低いのだそうで、他の動物からすると人間の排泄物にはまだまだたくさんの栄養が残っているのだとか。実に効率が良く、結果として衛生的だったのではないか、と私は思うのですが、ここに近代化の波が押し寄せます。
廃藩置県の後、沖縄では風俗改良運動が推し進められます。沖縄独特の風習・慣習を改め、本土と同じ生活スタイルを目指そうというものです。この1つに「便所の改良」がありました。「ウヮーフール」は衛生上よろしくない、という「近代的感覚」によるものです。しかし、実際問題としてはなかなか改まることはなく、戦前のほとんどの家は「ウヮーフール」のままであったようです。現在ではこの「ウヮーフール」は「文化財」として、復元古民家などで見ることができます。
和風便所があるということは、風俗改良運動に応じることができたということであり、それには恐らく相応の財力があったのだと推察されます。では上記2例がみつかったところにあった家は、それぞれどんな家柄だったのでしょうか。
北谷町では、米軍接収前の集落の様子(屋敷の場所・名字・屋号・家族数・戦死者数など)がかなり詳しく調べられ、記録として残されています。これによると、古い長方形タイプが見つかったのは屋号「ノロ殿内小」、新しい小判形の穴が見つかったのは屋号「ノロ殿内」という家でした。
ノロのこと
「ノロ」とは琉球王府から任命された、地域における巫女のような立場を指し、「ノロ殿内」とは「ノロを輩出する家」を意味します。廃藩置県とともに「ノロ」の公的性は失われますが、それでも周辺地域での伝統的な「拝み」をつかさどることには変わりありませんでした。また、前者屋号に接尾している「小」は「グヮー」と読み、この場合は分家であることを意味していると思われます。
この「ノロ」については、琉球王府時代には俸禄が支給されていましたが、近代に入るとその特権がなくなります。しかしながら、それまで公的にあてがわれていた土地は、「ノロ」である者が私有財産として引き継ぐことになりました。したがって、近代に入っても「ノロ」を輩出する家は比較的裕福であったことが考えられます。
本家と分家
大便器の話に戻りますと、古いタイプが分家から、新しいタイプが本家から見つかったわけです。本家が大便器を作り変えたというなら別ですが、見つかったものだけで考えると、分家の方が早くから便所の改良を行うことができた、つまり分家の方が裕福であった、とも言えるのです。
調べてみると、意外なことが分かりました。終戦当時の「ノロ」は、実は「分家」から輩出されており、それ以前の「ノロ」は途絶えていたんだとか。彼女の年齢なども考慮すると、「ノロ」の土地を引き継いだのは、実は「分家」だった可能性が高いのです。もっと調べてみると、大正ごろの「本家」は困窮を極めており、他家から夫婦養子をとったのだといいます。それでもこの夫婦は家勢を盛り返し、昭和20年ごろまでに便所の改良に応じることができるまでになった、という風に想像できます。
大便器の破片や便所の穴の形から、ここまでのストーリーを類推(妄想?)することができました。それが真実であったかは分かりませんが、このようにいろんな事実をつなぎ合わせてあれこれ考えることも、「考古学」の醍醐味ではないでしょうか?
【参考文献・webサイト】
平川宗隆(2000)『沖縄トイレ世替わり』ボーダーインク
(有)「トイレ博物館」
http://www.woodssite.net/remodel/HAKUBUTUKAN.html
北谷町教委(2016)『平安山原A遺跡』
北谷町役場(1992)『北谷町史 第五巻(上)(下) 資料編4 北谷の戦時体験記録』
北谷町教委(1997)『北谷町のノロ』
北谷町教委(2006)『北谷町の地名』
【協力機関】
沖縄県北谷町教育委員会
公開日:2016年11月4日最終更新日:2016年11月9日