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考古学

カメの中には

土岐 耕司 / Koji TOKI

国際文化財株式会社 埋蔵文化財調査士

地面に掘られた穴の中から

沖縄県北谷(ちゃたん)町の遺跡にて、地面に掘られた穴の中から甕(カメ)が出てきました。この穴は土圧で押し潰されてはいましたが、周囲を木材で補強した「隠し穴」のようでした(写真1)。

同じ穴の中には、衣類・地下足袋・食器・漆器・セルロイドのビーズなどが見つかり(写真2~5)、これらの観察からこの穴は戦前のものであることは想像できました。

写真1 平安山原A遺跡で見つかった「甕(カメ)」(提供:北谷町教育委員会)

写真2 お椀(提供:北谷町教育委員会)

写真3 重箱(提供:北谷町教育委員会)

写真4 重ねられた漆器(提供:北谷町教育委員会)

写真5 セルロイドのビーズ(提供:北谷町教育委員会)

調べてみると

この穴は、戦前に存在していたあるお屋敷の裏庭に掘られていたようで、『町史』にはこの家の記録が残っていました。戦況が進み、この家でも成人の男兄弟は兵隊にとられ、戸主(父)と幼い兄弟は、嫁いだ姉を頼って九州に疎開。戦時中にこの屋敷に残っていたのは、母と未婚の娘だけだったそうです。そしてこのころ、日本軍が沖縄での駐留を開始します。しかし兵隊の駐留施設が足りず、北谷の一般家庭にもたくさんの兵隊が寄宿したそうで、この屋敷にもそれがあったことも分かりました。

このころの国民は、物資不足を助けるためにさまざまなものを供出することが義務となっていました。ある非富裕家庭の女性は「衣類まで供出して、どうやって生きていけば良いのか!」と抗議していた証言もあるくらいなので、かなりギリギリのところまで供出が求められていたのでしょう。

この「隠し穴」が見つかった家は、比較的裕福な家柄だったと推察されますが、やはり家族の思い出の品なんかは、供出したくなかったのだと思います。戸主が疎開の前に、「大切なモノ」の供出を免れるため、穴を掘ったのではないかと想像できました。

調査員の好奇心

そんな切ないエピソードをしのびつつも、やはり当然、中に何が入っているかは気になります。ここは沖縄。私を含め、酒呑み(サキヌマー)の調査員は全員、すでになぜか「泡盛(あわもり)」だと確信しています。しかもそうであれば、それは70年モノの「古酒(クースー)」であり、寝かせたら寝かせただけ美味しいはず。屋主にはほんとうに申し訳ないのですが、そのような不純な気持ちを半分以上もちながら、現場にてフタを開けることになりました。

カメにはヒビひとつなく、口には木栓がしてあります。木栓は少し劣化して縮んでいますが、まあまあフタの役割は果たしているように見えます。

調査担当者(この方もサキヌマー)が、満を持して70年ぶりにフタを開けました。まずは香りを。

「・・・・・・ん?ん?ん~~~・・・。」もちろんこんなに古い「古酒」を、一度も嗅いだことがなかったせいか、かなり微妙な反応。それでも、サキヌマー全員がこれは「古酒」であることには微塵の疑いもないまま、遺物の整理室に運びこんだのでした。

カメ内の調査

後日、再度このフタを開け、私と同僚のカズキが中身を調査(?)するチャンスに恵まれました。慎重に外へと運び、まずはそれをのぞき込む。

とりあえず、透明な「液体」が見えます。すぐにアルコール感知計で、カメの中の値を測ります。結果は「ゼロ」。何度やっても変化なし。この計器が壊れているのでは?と思いながらも、この液体の臭いを確認します。「う~ん、かなり優しいドブの臭い。」

液体を別の容器に移し、再度カメ内を確認すると、カメの半分ほどまで白っぽいなにかが溜まっていました。表面は汚れていて、棒でつつくと、かなり固い。「なんだこりゃ!?」

このことを上司のハルミさんに報告し、指示を仰いだところ、「カメの中でタテに半分割って、断面を観察して!」でした。今度は手にナイフを持ち、この白くて固いものを「グサッ!」とやったつもりが、全然刺さりません。が、何回も何回もナイフを刺すと、なんとか突破口が開けました。しかし、カメの狭い口に手を入れて、中が見えないままの作業の結果、タテに半分割るという使命はどこへやら・・・。割るのに必死ではめていた手袋にも穴が開き、もはや内容物を半割するだとか手袋の意味だとか、そんなのはなんにもなくなっていました。

白いモノ

私とカズキの2人は、おびえながら作業を継続。 この白いモノはいったいなんなのか? 今私たちはなにを触っているのか? 人として、手で触っても良いものなのか? とりあえず泡盛の中で溶けて白くなるものってなんだ? 金田一少年が、死体ってたまに蝋(ろう)になるとか言ってたぞ? ってことは、もしかしてハブ酒の中でハブが腐ったヤツ? それなら高価だから、穴に大事に隠していたのは分かる。 いや待てよ、さっきの液体がそもそも泡盛じゃなかったら? 先祖の骨ツボ!? 骨ツボをふつう隠すか? でも葬儀の日取りが合わなかったとか、なにかけっこうな事情があったなら、そりゃ大事にしまうかもしれない。

小一時間ほどずっとビビり続ける反面、なんだかどうでもよくなってきたとき、自分の「手」に変化が起こっていることに気づきました。「あれ、スベスベしてきていいカンジ。」

もはや、白いモノを半分の割るとか、そういうことは無理になったので、カメの中にある白いモノをどんどん出してみました。白いブロックを見ていると、そこに1本の太い毛が混じっていました。「ん?この毛、なんかどっかで見たことあるぞ?」

計算式

けっこうな剛毛。この毛って、ヒトではなくケモノの毛だ。イノシシとかこんな感じだった。

 

「ケモノ」+「スベスベになる」+「沖縄のカメ」=?

 

答えは、「ラード(豚からとった脂)」でした。ということは、この容器は「油甕(アンダガーミ)」です。

みごとな計算式になりましたが、答えに行きつくまでの私たちのダメっぷりは・・・。結局、カメの中からは、約1.5キロものラードが出てきました(写真6)。

写真6 回収された70年前のラード(提供:北谷町教育委員会)

沖縄におけるラード(豚脂)

戦前の沖縄では、たいていの家でブタを飼育していました。お正月になるとブタをつぶし、この時期はブタ肉のご馳走が食べられるということで、大人もこどもも楽しみにしていたそうです。余った豚肉は塩漬け(スーチカー)にし、ラード(脂)も大量にとって、油甕(アンダガーミ)に貯蔵したとのこと。通常であれば、このカメは4箇所に紐を通す耳があり、台所に吊るしておくそうなのですが、これが耳なしのカメに入って隠していたものですから、「サキヌマー」どもは勝手に「泡盛」だと勘違いしたわけです。

戦争末期、北谷に寄宿していた日本兵、特に末端の兵隊たちは、相当にひもじい思いをしていたことが伝わっています。ある屋敷に植樹されている木に実っていた果物は、おなかをすかせた兵隊に全部食べられてしまったとか、見るに見かねた北谷の人が隠れて豆腐を分けてあげたとか、そういう話も残っています。だから、「ラード」もそうとう美味しく感じられたものであっただろうし、その存在がバレてしまうと、供出せざるを得なかったかもしれません。

北谷に駐留した兵隊には、遠く離れた北海道・東北から来た人も多かったとのこと。私も青森県出身なので、なんともいえぬ複雑な気持ちになってしまいます。

遺跡から70年ぶりに出てきたカメ

戦時中にこの屋敷の人が、どういう思いでこのカメを穴の中に入れたのか。それは現代の私たちには分かりませんし、今の感覚で勝手に想像するしかありません。その時その瞬間その場所にいなければ絶対に分からないことではありますが、このカメに入っていたラードはとてつもなく尊いモノであったことは想像できます。

いつ終わるか分からない戦争の中、兵隊に行った息子や九州に行った夫・息子たちが帰ってきたとき、このラードを使って美味しい「ジューシー」(沖縄の伝統料理で混ぜご飯のようなもの、ラードを入れるとコクが出る)を食べさせてあげたいと思ったお母さんの思いを、今になって私たちが掘り当てたのかもしれませんね。

【追記】

このご一家がその後どうなったのか、調べてみました。兵隊にとられた男兄弟3人のうち、お1人の方は残念ながら沖縄戦で命を落とされました。しかし、あとの皆さんは昭和21年に無事再会されたそうです。

参考文献
『平安山原A遺跡』北谷町教委(2016)
『北谷町史』第五巻 北谷町役場(1992)

協力者・協力機関
沖縄県北谷町教育委員会
ハルミさん
ウシノハマさん
カズキ
パリノ・サーヴェイ株式会社

公開日:2017年3月8日最終更新日:2019年3月13日