ビザンティン聖堂紀行:カッパドキアの岩窟聖堂(1)ーエレウサの眼差し

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文化遺産(海外)

ビザンティン聖堂紀行:カッパドキアの岩窟聖堂(1)ーエレウサの眼差し

菅原 裕文 / Hirofumi SUGAWARA

金沢大学人文学類准教授

まずは自己紹介を。筆者はビザンティン美術の研究を生業としている。カルチャーセンターで話す機会があると「美術の研究とは優雅でいいですね」とのコメントを頂戴する。きっとセーヌ河畔でワイングラスを片手にする筆者の姿を思い浮かべているにちがいないが、実際には酷寒酷暑の中10数キロの機材を背負って青息吐息で歩いている。学生にも「天下御免のバックパッカー」と自嘲気味に自己紹介するのが常である。日本でビザンティン研究者は多く見積もって50人、その美術の研究者は10人ほどであることに鑑みれば絶滅危惧種と言えよう。「ビザンティン?」と思う読者もいるかもしれないので、少し説明が必要だろう。3世紀後半、ローマ帝国は四つに分割され、内乱状態に陥っていた。それを収束したのが、かのコンスタンティヌス大帝である。彼は313年にキリスト教を公認し、330年に首都をビザンティオン(現イスタンブール)に定めた。西ローマ帝国が滅んだ後(476年)も、ローマ帝国の東半分は1453年まで生き延びた。キリスト教化した東ローマ、これを研究者は旧名に基づき、ビザンティン帝国と呼んでいる。その最大版図は地中海のほぼ全域、バルカン諸国、西アジアに及ぶ。この度『文化遺産の世界』編集部のご厚意により自身のフィールドを紹介する機会をいただいた。そこで初回は生まれて初めてフィールド・ワークを行ったカッパドキアから紹介したい。

カッパドキアはトルコ、アナトリア高原の中央に位置する(図1)。トルコ周遊ツアーの宣伝等でお馴染みの読者も多いだろう。カッパドキアは町の名ではなく、ネヴシェヒル県、カイセリ県、ニーデ県、アクサライ県と四つの行政区にまたがる、東京都ほどの広がりをもつ土地である(図2)。宣伝で見かけるカッパドキアとは「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」としてUNESCO世界遺産に登録されている地域を指す(図3)。カッパドキアは奇岩が織りなす幻想的な風景ゆえに世界中の観光客を惹きつけてやまない(図4)。

Fig_01図1.カッパドキアの位置(破線四角内)

Fig_02図2.カッパドキア全域

Fig_03図3.ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群

Fig_04s図4.パシャバー地区の「妖精の煙突」(撮影:著者)

Fig_05s図5.ウラジーミルの聖母(1100年頃 モスクワ・トレチャコフ美術館蔵)

では、なぜカッパドキアなのか。筆者がある聖母子像に恋をしたからだ、と言えば格好がつくかもしれない。12年前の筆者は博士課程の学生としてキリスト教美術における人間的な感情表現の創出という問題に取り組んでいた。そしてビザンティンの聖母子像に辿り着いたというのが真相である。その原点とも言える図像がエレウサ型聖母子像である(図5)1)。ビザンティン美術をはじめ、キリスト教美術にはある場面や人物はどのように描かねばならないという約束事や型がある。これを専門的には図像学(イコノグラフィー)と呼ぶ。エレウサとはマリアに捧げられた「慈悲深き者」を意味するギリシア語の尊称で、その名のごとく聖なる母子が頬を寄せ合う図像である。フランスのニコール・ティエリーによりカッパドキアにはこのエレウサ型聖母子像が他の地域よりも多く残存することが既に報告されていた2)

もう一つ動機があった。ビザンティン帝国は826年から約1世紀に及ぶ聖像破壊論争(イコノクラスム)以後、ローマ美術や初期キリスト教美術の影響を脱し、独自の美術を形成していく。カッパドキア以外の土地では中期ビザンティン(9〜12世紀)の作例はごく限られてしまうが、この地には優に250を上回る岩窟聖堂が残存する。とりわけイコノクラスム直後の9〜10世紀にまで遡る作例が多く、ビザンティン様式の形成過程をつぶさに観察できるのはこの地をおいて他にない。この時期のビザンティン帝国はヨーロッパに冠たる先進国であり、その美術が後にイタリア・ルネサンスの胎動を促すのである。イタリア・ルネサンスの遠因となった「マケドニア朝ルネサンス」の美術がいかなるものであったのか。当時の筆者はそれをこの目で見たかった。

ティエリーの報告によれば、エレウサ型聖母子像は亜種も含めてギョレメ地区に6例、ソアンル地区に2例の計8例が残存する。ギョレメの6例は全てギョレメ屋外博物館にあるので、お運びの際には是非確認してほしい。今回はトカル・キリセ(留め金の聖堂)に残る世界最古のエレウサ型聖母子像を紹介したい。トカル・キリセはカッパドキアの至宝であり、ギョレメまで来てここを見ずに帰るのは、兼好法師の言う「山までは見ず」の愚行に等しい。トカル・キリセはギョレメ地区を統括する中央修道院の役割を担っていたらしい。10世紀初頭に単廊式バシリカの聖堂が開削され、収容人員の増加に伴い10世紀中葉に横断ヴォールトを備える聖堂に拡張された。前者は旧聖堂、後者は新聖堂と呼ばれ、それぞれに様式の異なる壁画がほぼ完全な形で残存する(図6-7)。つまりトカル・キリセは一つの聖堂でビザンティン美術の展開を観察できる稀有な聖堂なのだ。

Fig_06s図6.洗礼(10世紀初頭 トカル・キリセ旧聖堂 撮影:筆者)

Fig_07s図7.洗礼(10世紀中葉 トカル・キリセ新聖堂 撮影:筆者)

件のエレウサ型聖母子像は新聖堂に描かれている(図8)。新聖堂は献堂銘によりコンスタンティノスとレオンなる親子が帝都コンスタンティノポリスからニキフォロスなる画家を呼び寄せて描かせたことが知られている。新聖堂に足を踏み入れて息を飲むのはその青の美しさである。当時、青の顔料は非常に高価であった。ダ・ヴィンチの残したレシピに基づいて作った青い絵の具は3グラムで10万円ほどするらしい。たった3グラムでどの程度の壁面が塗れるものかは絵心のない筆者には不明だが、目が飛び出るほどの費えがかかったことは容易に想像がつく。

Fig_08s図8.エレウサ型聖母子像(10世紀中葉 トカル・キリセ新聖堂 撮影:筆者)

新聖堂のエレウサは画家ニキフォロスが特段腕を奮って描いたにちがいない。聖母マリアはかすかに頭を垂れ、幼子イエスに頬を寄せる。母の右腕はイエスの背に添えられている。幼子は母の抱擁に応じるように頬を寄せ、左腕を母の襟元に伸ばしている。二人は母親と赤ん坊が口づけを交わしているかに見える。このエレウサは美術史業界でもファンが多く、私見だがビザンティン文化圏広しといえども三指に入る別嬪さんだと信じている。ちなみに後の二人はイスタンブールのアギア・ソフィア聖堂にいて、一人は深窓の令嬢風の、もう一人は憂いを秘めた眼差しのしっとりとしたマリアである。トカルのエレウサはさしずめ「ギョレメ小町」といったところか。ここまで書いて、かつて我が師に「君はマリアと本物の女性はどちらが好きなの」とからかわれたことを思い出したので、思いの丈を吐露するのはここらでやめておこう。

Fig_09s図9.ソアンル風景(撮影:筆者)

他方、ソアンル地区のエレウサ型聖母子像については、どうぞ見に行ってくださいとおいそれとお勧めすることはできない。ソアンルはギョレメの南方40kmにある人口200人にも満たない寒村で(図9)、この村に行く公共交通機関は皆無だからだ。筆者が初めてソアンルを訪れた時にはギョレメ村でCD屋を営む青年に連れて行ってもらった。どこにでも気のいい青年はいるもので、少し仲良くなってからお願いすると、店番を弟に押し付けて同行してくれた。この「玉葱村」という奇妙な名の寒村には意外にもコンスタンティノポリスの影響が色濃い11世紀の優品が隠されている。一つはアギア・バルバラ聖堂(1006年もしくは1021年)、もう一つはカラバシュ・キリセ(黒い頭の聖堂、1060/61年)である。いずれも献堂銘から制作年代が分かるため、ビザンティン美術の様式的発展を推し量る基準作例となっている。

修復済みのギョレメのエレウサとは異なり、ソアンルの作例はひどく損傷している。カラバシュ・キリセのエレウサは顔が失われている(図10)。石礫の的にでもされたのだろう。それにも増して落書きが痛々しい。無論、落書きには重要な情報をもたらす史料的な価値のあるグラフィティーも少なくないが、ソアンルの落書きは「何某参上」という類の心無いものが圧倒的多数を占め、それは年々増えている。他方、アギア・バルバラ聖堂のエレウサは扉口上で日光に晒されているため褪色が著しい(図11)。数年前にこのエレウサはスプレーでWと大書されてしまった。双方とも日本で言えば平安時代の作例である。これが日本ならばたちどころにニュースになろうが、ここトルコでは口の端にも上がらない。ソアンルは村自体が一種の博物館となっているが、入村料を入口で徴収するばかりで、聖堂には警備員もいなければ、困ったことに村人に文化財を保護しようという意識はどうも希薄である。

Fig_10s図10.エレウサ型聖母子像(1060/61年 ソアンル カラバシュ・キリセ 撮影:筆者)

Fig_11s図11.エレウサ型聖母子像(1006年もしくは1021年 ソアンル カラバシュ・キリセ 撮影:筆者)

さて、ビザンティン美術には型があることは冒頭で触れた。ビザンティン人は変化を恐れるように1100年もの間その型を墨守した。聖母マリアも例外ではなく、マリアには5種類の型がある。エレウサ型は先に述べたイコノクラスム(826〜943年)以後に流行した最も新しいマリアの形であり、その成立には当時の神学論争が深く関わっている。ビザンティン人は「神は描けるか」という問題をラディカルに問うた史上稀な人々である。彼らの下した結論はYESであり、そのおかげで筆者は三度の食事にありついている。

ビザンティン人曰く、神は人となってこの世に現れた(これを神学的には「受肉」と言う)。人となった神は人々と共に暮らし、人々に見られた。ゆえにイコンを描くことは神の受肉を証しする行為である。つまり、イコノクラスムで俎上にあったのは神人両本姓を併せ持つキリストの人間性だったのである。そのため、イコンを支持する神学者は人像表現の根拠となるキリストの人間性を擁護するため新たなイメージを創出した。それは「愛息の死を嘆く聖母マリア」というイメージである。イコノクラスム期に書かれた説教を雛形とした10世紀の説教を見てみよう。そこでは聖母の嘆きがモノローグの形で痛切に語られている。

…この両の腕はこの間まで喜ばしく幼子のあなたを抱いていました。かつて私の手は子育てしていたのに、今は弔いに扱き使われています。なんと辛い弔いでしょう。かつて産着を気づかっていたのに、今は帷子に苦しんでいます。かつて産湯で洗ったのに、今は熱い涙で濡らしています。かつて母の腕に抱こうとしても、あなたは子供のように飛び跳ねていました。今、この腕に抱こうとしても、あなたは息もせず死んだように横たわっています…。あなたは幾度となく私の胸で子供のように眠っていたのに、今はそこで死人のように眠りに落ちてしまいました。(シメオン・メタフラスティス『聖母の嘆きと主の亡骸について』)

Fig_12s図12.ピエタ(部分)(1164年 マケドニア ネレヅィ スヴェティ・パンテレイモン修道院 撮影:筆者)

福音書には聖母マリアが息子イエスの埋葬に立ち会ったという記述はない(少なくとも、ビザンティン神学の伝統に則って読めば)。磔刑をクライマックスとする受難はキリストが死すべき人間でもあったことを証す最良の主題であり、キリストの人間性はその母マリアに由来する。「愛息の死を嘆く聖母」というイメージはキリストの人間性を擁護する護教的なイメージとして急速に普及し、「ピエタ」をはじめ「十字架降架」といった受難伝図像として結実する(図12)。他方、引用した説教等を媒介にしてエレウサ型聖母子像は幼子イエスが将来受難することを予見させる図像として流行する。こうして「ピエタ」とエレウサは互いに補いながら、キリスト教美術に人間的な感情表現という新たな地平を切り拓いていった3)

ここまでお付き合いいただいた読者には、なぜ筆者がカッパドキアを最初のフィールドに選んだのか、そして今もカッパドキアに通いつめるのか、ご理解いただけたのではないかと思う。カッパドキアに残るのは、ビザンティン人が宗教的絵画の是非を起点に人間性とは何かを考え抜いた痕跡である。そして、それはキリスト教美術がヒューマニスティックな表現へと大きく舵を切った革命的な瞬間の記録でもある。過去に生きた人々のイマジネーションやメンタリティーのあり方が歴史の表舞台に出てくることは極めて稀である。しかし、トカルのエレウサの眼差しはそれを静かに語りかけてくるようでもある。

参考文献
(1)    M. Vassilaki (ed.), Mother of God: Representation of the Virgin in Byzantine Art, exh. cat., Athens, Milan, Benaki Museum, 2000, p. 55, fig. 24.
(2)    N. Thierry, “La Vierge de tendress à l’époque macédonienne,” Zograf 10 (1979), pp. 59-70.
(3)    詳しくは、拙稿「エレウサ型聖母子像における受難の含意」『美術史研究』第42冊(2004年)130-135頁を参照されたい。

公開日:2017年11月27日

菅原 裕文金沢大学人文学類准教授

1974年横浜市生まれ。文学博士。早稲田大学文化構想学部助手、日本学術振興会特別研究員PDを経て現職。専門はビザンティン美術史、キリスト教図像学。最近の業績には、益田朋幸編『聖堂の小宇宙』(竹林舎、2016年)所収の「象徴的プログラムの多義性 — カッパドキア、クズル・チュクル、アギオス・ニキタス・スティリティス聖堂」(73-92頁)や「図像・空間・儀式 — カッパドキア、ギョレメ、チャルクル・キリセ」(115-136頁)がある。

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