シンボリズムで読み解く三内丸山遺跡の価値        

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文化遺産(国内)

シンボリズムで読み解く三内丸山遺跡の価値        

大島 直行 / Naoyuki OHSHIMA

札幌医科大学客員教授

縄文研究の現在

日本の考古学は、遺跡から発掘された遺物や遺構を分類し、それを地域的、年代的に整理することに力を注いできた。なかでも縄文土器は、世界に類をみないほど細かな「型式」に分けられ、さらにこの土器の区分を利用することで、他の遺物や住居、墓、ストーンサークル、貝塚などの遺構、さらには遺跡の整理も大いに進んだ。

 

しかし、分類された遺跡や遺構、遺物の形を、縄文人がどのように決めたのか、なぜ形や模様が変化するのかといった疑問については、だれも説得力のある答えを出してはいない。それは考古学が、発掘や分類は得意なのだが、資料の解釈については苦手な学問であることを端的に物語っている。

 

たとえば、竪穴はなぜ「住居」だと言えるのか、土器はなぜ「鍋」と判断できるのか、土偶はなぜ「女神」と考えられるのか、という問題もそうだ。読み解くための科学的方法がないので、なんとなく経験則や民族例だけでお茶を濁してきたのではないだろうか。

縄文の普遍的価値と世界遺産

ところで、青森県の三内丸山遺跡を中核とした北海道・北東北縄文遺跡群の世界遺産登録がなかなか進まない。私はこの現状を見るにつけ、イコモスやユネスコが要求する縄文文化の普遍的な価値を、単に資料の多さや広がり、そして根拠のない想像だけで説明するのは難しいと考える。

三内丸山遺跡の全景写真写真1 三内丸山遺跡の全景写真(撮影:著者)

普遍的な価値を読み解くには、縄文文化の本質を見極めるための確固とした理論が必要ではないかと考えるからだ。考古学がこれまで後生大事に守ってきた型式論や編年論は、あくまでも資料の分類・整理のための手法であって、それをいくら精緻にしたところで、縄文文化の社会的な位置づけや精神的な意味などの読み解きはむずかしい。

 

これまでの研究が示すように、縄文文化の本質が経済的・社会的な発展に価値があるのだとしたら、形式論の果たす役割も少しはあるのかもしれない。現に、戦後の縄文研究の王道であった型式論は、唯物史観や発展史観の後ろ盾になってきたのである。しかし、唯物・発展史観を用いてはきたが、果たして縄文の道具や生業、社会が「発展」したと断言できただろうか。私は、そこに縄文文化の本質はないと考える。むしろ「唯物」や「発展」とは無縁の思考・世界観こそが、世界に類をみない縄文文化の本質を形作っているのだと考えるからだ。

 

私の提唱するシンボリズ論は、縄文文化の本質や普遍的価値と考えられる世界観を読み解くための科学的な理論である。あの奇妙奇天烈で摩訶不思議な造形の土器や土偶、大地に手を加えたストーンサークルや墓などは、彼らのシンボル(象徴)が表現されたものである。だとしたら、縄文人の世界観を読み解くためには、シンボリズムの解明が不可欠なのではないだろうか。

 

普遍的価値としての「無意識」

深層心理学者のカール・ユングは、シグムント・フロイトの「無意識」の研究に刺激されて、「普遍的無意識」という人類が生得的に持っている心性の存在を提起した。それは、「元型」と呼ばれる思考の基盤から構成されているという。人は、無意識のうちに母性を求めたり再生あるいは誕生を願うが、そうした心性は、生まれつき大脳に「元型」として備わっているからだ。

 

また、宗教学者のミルチャ・エリアーデは、欧米の哲学者が長い間研究してきたシンボル(象徴)という観念が、信仰や宗教の基盤をなすものと考え、世界中の民族誌や神話の中にそれを見出した。

 

さらに近年は、心理学や脳科学の発達が目覚ましく、「心の理論」(ディビッド・プレマックとアン・プレマック)や、「適応的錯覚的」(ジェシー・べリング)という心性の発見が、人の心を読み解く上で、欠かせない情報を提供してくれる。

 

縄文人の遺構や遺物も、単に形や模様の分類や分布を整理し、発展史観で読み解くだけではなく、形や模様の背景に作り手のどのような考えがあるのかといった精神的観点からの読み解きを行わなければ、縄文文化の本質的な価値を明らかにすることは難しい。縄文世界遺産の中核をなす三内丸山遺跡の価値も、改めて考え直す段階にきたように思える。

三内丸山遺跡のクリ

三内丸山遺跡の特徴のひとつはクリの多さだ。花粉分析に基づいた東京大学の辻誠一郎の研究によれば、ここにムラのあった1500年間、ムラとその周辺にはクリの木が繁茂していたという。辻は、「縄文里山」という概念をつくり、クリの栽培を核とした生業システムを考えた。

 

三内丸山ムラでは、里山からだけでなく、海や川からも食料や生活物資が調達されていたらしい。早稲田大学の樋泉岳二は、こうした資源の多様性から通年定住の可能性を主張する。つまり三内丸山遺跡の構造は、クリ栽培と里山を経済基盤とした、円筒土器文化圏の拠点的な定住集落(ムラ)と位置付けられるようである。

 

話をクリに戻したい。調査や分析の結果からわかるのは、クリの評価が経済的な価値に偏っていることだ。80%にもおよぶ花粉の割合も、積極的な食料獲得戦略として考えられ、クリの木も建築用材としての解釈がもっぱらである。

 

一般的には、こうした解釈に異を唱える研究者はいないが、私はいくつかの点で再考を望む。まずは、定住集落の根拠になっている竪穴住居が、ほんとうに「住居」なのかどうかだ。

 

シンボリズムの観点から分析する私は、竪穴住居は、あくまでも命の再生(誕生)を願って、「母の子宮」をレトリカルに表現した施設であり、死者を安置する「墓」としての意味の方が強かったと考える。

 

竪穴住居が住居でないのであれば、集落・村という解釈にはならないし、当然、定住などという概念も当てはまらない。では、竪穴が住居でもなく定住集落でなければ、いったい三内丸山遺跡は何なのだろうか。

トポフィリア理論

三内丸山遺跡の性格は、現在は巨大な拠点集落=村、交易の拠点=商業経済圏といった視点から解釈されている。解釈の基盤にあるのは、あくまでも進歩であり発展である。しかし残念ながら、出土した食料や住居の数は、1500年という長さを担保するだけの質・量とは言えないことも認めざるを得ない。

 

冒頭でも述べたように、私は、縄文文化をシンボリズムという観点から見直そうと考えている。これまでの縄文社会の解釈は、あくまでも竪穴が「住居」であるという前提で進められており、家族も村あるいは集落も墓地も、そうした前提の上に成り立っているのであって、もしこの前提が成り立たなければ別の解釈も必要となってくるのは言うまでもない。

 

私は、トポフィリアという概念の必要性を考えている。これは、アメリカの地理学者であるイーフー・トウァン(段 義孚)が考え出した概念である。ギリシャ語の「トポフィリ」が語源で、「愛すべき場所」という意味だ。

 

つまり、私たちがこれまで集落や貝塚、環状列石、盛土遺構などと考えてきたいわゆる「遺跡」は、その多くが縄文人の愛すべき土地であるトポフィリアと考えられるのである。

 

そこでは、再生あるいは誕生を希求する心性が、さまざまな施設として表現されていたのであり、遺物と呼ばれる土器や土偶や各種の石器のほとんども、基本的には施設やそこで繰り広げられるイベントに伴うグッズに過ぎないのだ。日常生活との関わりの中で考えられてきた解釈は、そろそろ再考する時期にきているように思える。

トポフィリアとしての三内丸山遺跡

クリのオシベの写真写真2 クリのオシベの写真(撮影:著者)

東北大学大学院生の佐藤亜美(宗教人類学)は、辻誠一郎のクリ花粉分析の結果を色彩のシンボリズムによって解釈する。佐藤は、縄文人が、クリの葉の緑とオシベの白を再生のシンボルにしていたと言う。

 

緑と白の色彩のシンボリズムは、ヒスイにも見出すことができる。神話学者の大林太良は、『万葉集』では赤ん坊を「緑児(みどりこ)」と表現していることに着目し、緑の葉が再生をシンボライズするからだと考えた。

 

つまり三内丸山の丘全体が、初夏になるとクリのオシベで真っ白くなることに、縄文人の世界観が刺激されたのだ。おそらく日本中探しても、これほど見事に緑と白のシンボリズムを体感できる場所はなかったのではと佐藤は力説する。

 

カリフォルニア大学の羽生淳子が指摘するように、三内丸山の土偶の80%が、他地域から持ち込まれたことを考えるならば、クリのシンボリズムにあやかろうと、遠方の縄文人が土偶や縄文土器、ヒスイや黒曜石などを持ち寄ったとも考えられよう。

 

クリが再生のシンボリズムを担うのであれば、有名な「六本柱」や竪穴の柱材になぜクリが使われるかも合点がいく。竪穴の床面積に似合わないほど大きな柱穴を穿つのも、それは単なる構造上の問題ではなく、再生のシンボルとしての意味が付与されていたからだ。であれば竪穴は、「住居」であるよりも、死者の再生を願ってつくられた「子宮」のレトリックである可能性も考慮すべきだろう。

 

おそらく今から5500年ほど前、クリを栽培によって増やし、三内丸山の丘一面を緑と白の色で染め上げた景観の、いわば再生の場としてのシンボリックな意味が、列島全域に〝うわさ〟として広がったに違いない。全国から、この地に縄文人が押し寄せたことをイメージするのは難しいことではない。土偶やヒスイの数の多さに比べ、貝塚を欠くなど、「生活臭」よりも「祭祀臭」が強いのも合点がいく。現代の伊勢神宮や諏訪大社を詣でる人の数を考えれば、推して知るべしであろう。

 

三内丸山遺跡の普遍的価値は、まさに、こうした他に例のない再生シンボリズムという世界観を表現した「トポフィリアとしての場所」にこそあるのではないだろうか。であれば、盛土や墓、大形建物そして土偶など、他のさまざまな再生シンボルも合わせもつ三内丸山遺跡は、縄文文化の本質を余すところなく顕現した、「北海道・北東北縄文遺跡群」の中核にふさわしい遺跡として理解されよう。

 

公開日:2017年12月22日最終更新日:2017年12月22日

大島 直行札幌医科大学客員教授

1950年北海道標茶町出身。札幌医科大学客員教授、日本考古学協会理事、日本人類学会評議員、前北海道考古学会会長、医学博士。近著に、『月と蛇と縄文人』寿郎社、『縄文人の世界観』国書刊行会、『縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか-墓と子宮の考古学-』国書刊行会。

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