ミャンマーの独立記念日

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文化遺産(海外)

ミャンマーの独立記念日

徳澤 啓一 / Kei-ichi TOKUSAWA

岡山理科大学総合情報学部教授

2018年1月4日

筆者は、ミャンマー東部のシャン州における「地下式窖窯を用いた焼き締め陶器製作の窯業民族誌」の調査のため、バンコク、ヤンゴンを経由し、ヘホ空港に降り立った。機中、ミャンマー国営航空の機内誌を見ながら、奇しくもこの日、1月4日がミャンマー、すなわち、かつてのビルマ連邦の独立記念日であったことを思い出した(写真1)。

 

ちなみに、ヘホ空港は、第2次世界大戦中、日本軍航空隊司令部が置かれたシャン高原の要衝である(写真2)。

写真1 ミャンマー国営航空機内誌(Inflight Magazine of Myanmar National Airlines)掲載記事写真1 ミャンマー国営航空機内誌(Inflight Magazine of Myanmar National Airlines)掲載記事

写真2 ヘホ空港写真2 ヘホ空港 撮影:著者(以下同)

ミャンマーの植民地化と独立

ミャンマーは、60年以上にわたる英緬戦争によって、コンバウン朝が滅亡し、1883年、英領インド帝国に併合されることになる。1937年には、バー・モウが初代首相となり、イギリス連邦内の自治領、英領ビルマとなる。

 

その後、1942年、ボージョー・アウンサン率いるビルマ独立義勇軍は、日本軍とともに、イギリス軍を駆逐し、翌年、モウを国家元首とするビルマを建国した。

 

しかしながら、戦局が変わり、日本軍が劣勢となると、1945年、アウンサンは、イギリスと手を組み、ビルマ政府と日本軍を打倒する。しかしながら、日本軍撤退後、ビルマは、再度英領となる。

 

アウンサンは、ビルマの完全な独立を目指し、1947年、英国首相クレメント・アトリーと1年以内にビルマの独立を約束する「アウンサン=アトリー協定」の調印に漕ぎ着ける。そして、各民族とともに、統一国家ビルマとしての独立に向けて連携・協力する「パンロン(シャン語の地名、ビルマ語ではピンロン)協定」を締結する。残念ながら、アウンサンは、1947年、6人の仲間とともに暗殺されるものの、「アウンサン=アトリー協定」に遵って、今から70年前の1978年1月4日、ビルマ連邦として独立が果たされることになる(1989年現在の「ミャンマー連邦」に変更される)。

ニャウンシュエの独立記念日

写真3 2018年1月4日のニャウンシュエの独立記念公園(写真右が独立記念碑、写真左がアウンサンの立像)写真3 2018年1月4日のニャウンシュエの独立記念公園(写真右が独立記念碑、写真左がアウンサンの立像)

今年は、独立70周年記念日であり、ティンチョー(Htin Kyaw)大統領は、国民に向けて祝賀メッセージを発し、ロヒンギャ問題などで大きく揺れる国内外の世論の中で、国民の団結を呼び掛けた。ヤンゴン市内では、各種スポーツの競技大会やコンサート、ゲームなどが催され、祝賀ムード一色であったという。

 

しかしながら、独立記念日当日のニャウンシュエは、市内のどこを歩いても記念日らしい式典や催事を見ることができなかった。記念碑とアウンサンの立像が建立してある独立記念公園でさえ、日常と変わらない光景が広がるばかりであった(写真3)。

 

実は、このニャウンシュエは、ミャンマー独立に大きな役割を果たしたサオシュエタイ(Sao Shwe Thaik)の故地である。サオシュエタイは、シャン族の中で最大の勢力を誇ったニャウンシュエ公国(世襲的封建領主)の最後の王でもあった。

 

サオシュエタイは、ビルマ連邦の独立にあたり、建国の父と称されるアウンサンと比肩する役割を果たした英雄である。「パンロン会議」では、ビルマ・プロパーのアウンサンに対して、サオシュエタイは、シャン族の代表として、そして、少数民族プロパーとして、各民族の権利を守り、独立後の政体などにかかわることになる。そして、1948年の独立に際しては、ビルマ連邦初代大統領に指名されたのである。

ニャウンシュエ文化博物館

写真4 ニャウンシュエ文化博物館写真4 ニャウンシュエ文化博物館

ニャウンシュエは、もう一人の独立の英雄サオシュエタイを輩出した土地であるにもかかわらず、私の見た独立70周年記念日は、膨らむ期待を裏切り、何とも寂しい限りの街の光景であった。

 

サオシュエタイの足跡を知ろうと、現在、シャン州文化局が所管している「ニャウンシュエ文化博物館(Nyaung Shwe Cultural Museum)」に向かった。名称変更が頻繁であることの理由は定かではないが、1964〜1999年「ニャウンシュエ・ハウナン博物館(Nyaung Shwe Haw Nang Museum)」、2000〜2005年「シャン族長博物館(Shan Chiefs Museum)」、2005〜2007年「ニャウンシュエ文化博物館」、2007〜2013年「ブッダ博物館(Buddha Museum)」という遷移を辿り、現在の名称と展示の内容に至っている。

 

建物は、ニャウンシュエ公国の最後の王としてのサオシュエタイ(Sao Shwe Thaik)の宮殿であり、ミャンマー中部のアマラプラ(Amarapura)とマンダレー(Mandalay)の様式に基づくものの、ビルマとシャンの伝統的な建築様式が融合された美しい宮殿である(写真4)。

 

展示室は4室からなる。

 

第Ⅰ室及び第Ⅱ室は「シャン族の文化」であり、第Ⅰ室では、サオシュエタイ一族の王宮の生活として、玉座などのしつらえや王族の衣装など、第Ⅱ室では、筆者が調査対象とする焼き締め陶器や美術工芸品などのシャン族の生活文化に関する遺物が陳列されていた。

 

そして、第Ⅲ室は、「独立に関する歴史的な記録とそれに関する絵画など」であり、パンロン協定の合意文書の写しや調印式の様子を写した絵画(写真5)、そして、独立当日の式典の写真などが展示されていた。

 

このうち「国の指導者アウンサン将軍と少数民族の代表者によるパンロン協定の調印」と題する絵画を見ると、1947年2月12日のパンロン会議の様子を窺うことができる。議場の最前列中央にサオシュエタイ(メガネ姿)が描かれ、その左横に当時反ファシスト人民自由連盟総裁のアウンサン(丸刈りに軍服)の姿が見えるとおり、独立に果たしたサオシュエタイの役割が小さくないことは明らかである。

 

現在のミャンマーの政体は、国軍が支えている。主体的な民族であるビルマ族を中心とする国軍と各民族との武力闘争の歴史が証するとおり、独立後の政体や憲法の制定などは、シャン族をはじめとする各民族にとって、とてもうまくいったといえるような独立後の政治プロセスではなかった。

 

昨年、アウンサンの娘スーチーが70年前の「パンロン会議」にならって、各民族との和平を目指す「21世紀パンロン会議」が呼びかけられ、各民族との融和が図られようとしている。残念ながら、ミャンマーにおける民族融和は、これまでの民主化の道のりよりもより一層困難であるといわれている。

 

どうやらこのあたりの事情がニャウンシュエの寂しい独立記念日の理由にありそうである。

 

ちなみに、第Ⅳ室は、「仏教文化」であり、インレー湖から運び込まれた竹で編み上げられた大きな仏像の美しさがとりわけ目を引いた。残念ながら、館内では写真撮影が禁止されており、その姿をお見せすることができない。この稀有な仏像は、実際にニャウンシュエに足を運んでご覧いただきたい。

写真5 「国の指導者アウンサン将軍と少数民族の代表者によるパンロン協定の調印」 ニャウンシュエ文化博物館のリーフレットから(ミャンマー連邦文化省文化局・シャン州文化局)写真5 「国の指導者アウンサン将軍と少数民族の代表者によるパンロン協定の調印」ニャウンシュエ文化博物館のリーフレットから(ミャンマー連邦文化省文化局・シャン州文化局)

公開日:2018年1月24日最終更新日:2018年1月24日

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