ヒッタイトの鉄をめぐって①

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文化遺産

ヒッタイトの鉄をめぐって①

増渕 麻里耶 / Mariya MASUBUCHI

東京文化財研究所
アソシエイトフェロー

ヒッタイトの登場-伝説から史実へ-

文明の十字路トルコ

トルコは紀元前の昔より、ヒッタイト、ギリシア・ローマ文明、ビザンツ帝国、セルジューク朝、オスマン帝国などの様々な国家・文明が興亡を繰り返してきた場所です。ボスポラス海峡を境にヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、「東西文明の十字路」として発展を遂げたこの地域の歴史は、様々な社会・文化を取り込む寛容さと豊かさを備えた独特の個性を放ち、今なお世界中の人々の心を惹きつけています(図1、図2)。

6世紀ビザンツ建築の最高傑作と評されるアヤソフィアは、15世紀オスマン帝国によりコンスタンティノープルが征服された際、イスラム教のモスクとして改修された。20世紀にトルコ共和国が成立すると、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの命により無宗教の博物館となった。図1:イスタンブール市内、アヤソフィア内部の様子(2012年執筆者撮影) 6世紀ビザンツ建築の最高傑作と評されるアヤソフィアは、15世紀オスマン帝国によりコンスタンティノープルが征服された際、イスラム教のモスクとして改修された。20世紀にトルコ共和国が成立すると、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの命により無宗教の博物館となった。

アナトリア高原の東端に位置するアンカラは、20世紀ムスタファ・ケマル・アタテュルクが先導した独立戦争の際にその戦略的な立地条件から基地がおかれ、トルコ共和国成立後は首都となった。独立戦争博物館近くのウルスの市場では、色とりどりの農産物、魚介類、衣類、雑貨等の商店が軒を連ね、人々の生活の一端を垣間見ることが出来る。図2:アンカラ市内、ウルス市場の様子(2012年執筆者撮影) アナトリア高原の東端に位置するアンカラは、20世紀ムスタファ・ケマル・アタテュルクが先導した独立戦争の際にその戦略的な立地条件から基地がおかれ、トルコ共和国成立後は首都となった。独立戦争博物館近くのウルスの市場では、色とりどりの農産物、魚介類、衣類、雑貨等の商店が軒を連ね、人々の生活の一端を垣間見ることが出来る。

中央アナトリアとヒッタイト

現代のトルコ共和国の国土の大部分は、アジア大陸の西の端アナトリア半島にあります(図3)。なかでもその中心部「中央アナトリア」は、紀元前17世紀~紀元前12世紀頃ヒッタイト文明の中心として栄えた地域です。

 

日本人にはあまり馴染みのない「ヒッタイト」ですが、旧約聖書の中には「ヘテ人」として度々登場し、約束の地カナンの原住民族のひとつとして知られていました(1。しかし、聖書の歴史的記述の史実性を実証する聖書考古学が19世紀ヨーロッパでおこり、イスラエルを中心とした西アジア各地で発掘調査が行われるようになっても、ヒッタイトが実在したことを示す物証はなかなか発見されませんでした(Matthews 2011:39)。

図3 トルコの位置図3 トルコの位置

ヒッタイトの出現

19世紀のアナトリアは、ちょうどオスマン帝国が斜陽の時を迎えた頃にあたります。そしてやはりこのアナトリアにも、聖書や古代文明に憧れを抱く多くのヨーロッパ人旅行者が押し寄せていました。この流れは、ハインリヒ・シュリーマンによるトロイの発掘に代表されるように、アナトリアにおける考古学、発掘調査の発展を後押しすることになりました(Matthews 2011:36-7)。

当初、特に中央アナトリアは考古学的に未開の地でしたが、1834年にフランス人チャールズ・テキサーがボアズキョイ近郊で古代遺跡を発見。これがきっかけとなり、ようやく考古学者たちの興味を引き寄せるようになります。テキサーが帰国後出版した旅行記に、ボアズキョイ近くのヤズルカヤの岩壁に刻まれたレリーフ(図4)の模写が収められていたのですが、その中にあった象形文字がさらに学術的関心を刺激し、その後アナトリアから北シリアにかけての様々な場所で、同様の文字の刻まれた石碑が次々と発見されるようになります(Collins 2007)。そして最終的に1876年、聖書考古学協会のアーチボルド・H・セイスにより、これらが伝説の民ヒッタイトに関係する碑文であると発表されました。実際のところ、ヤズルカヤ以外の石碑の多くはヒッタイト帝国の後の時代、つまり、帝国崩壊とともに王族の一部が現在のトルコ―シリア国境付近に逃れ、その後数百年間存続した後期ヒッタイト時代のものでしたが、いずれにせよ「ヒッタイト」という伝説の民がその痕跡を現実世界に示し始めたのです。

図4:ヤズルカヤの神々のレリーフ(2003年執筆者撮影)図4:ヤズルカヤの神々のレリーフ(2003年執筆者撮影)

文字資料から考古遺物による実証へ

続く19世紀末~20世紀初頭にかけて、ついにボアズキョイ(図5)でヒッタイト特有の楔形文字の刻まれた粘土板が大量に出土します。特に1906年から1912年まで、ドイツ人フーゴー・ウィンクラーを中心に進められた発掘調査では、実に一万点以上の粘土板文書の出土に加え、複数の城門を備えた巨大な城壁址や、大型建築遺構、アクロポリスなどが次々と発見され、この地がヒッタイト帝国の首都ハトゥッサだったことが文献学・考古学の両面から明らかになりました(Matthews 2011:40)。

図5:ボアズキョイの遺構群(2010年執筆者撮影)図5:ボアズキョイの遺構群(2010年執筆者撮影)

それから後、今日まで続くボアズキョイでの発見は、既にエジプトやアッシリアの古代文書の解読によって描かれつつあったヒッタイト帝国のシルエット、つまり、「紀元前二千年紀後半エジプト、アッシリア、バビロニアといった大国と肩を並べたアナトリアの強国」という輪郭に、様々な色彩や深みを与えていくこととなります。粘土板文書の解読によるヒッタイト帝国の政治・経済・外交の姿を礎に、百年以上にわたる発掘調査と遺物研究、また、ボアズキョイ以外の様々な遺跡での考古学調査の進展、そして科学的な分析方法の導入によって、当時の人々の暮らしが徐々に明らかになってきているのです(Mielke 2011: 1031)。

 

次回はいよいよヒッタイトの鉄の謎に迫ります。


(1)    出エジプト記13章5節、民数記13章29節等参照。


参考文献
Collins, B. J. 2007, The Hittites and Their World (Archaeology and Biblical Studies, No.7), Atlanta, GA, Society of Biblical Literature.
Matthews, R. 2011. A history of the pre-classical archaeology of Turkey. In: Steadman, S. R. and McMahon, G. (eds.) The Oxford Handbook of Ancient Anatolia (10,000-323 BCE), Oxford & New York: Oxford University Press, pp. 34-55.
Mielke, D.P. 2011, Key sites of the Hittite empire, In: Steadman, S. R. and McMahon, G. (eds.) The Oxford Handbook of Ancient Anatolia (10,000-323 BCE), Oxford & New York: Oxford University Press, pp.1031-1054.

公開日:2018年4月18日最終更新日:2018年4月18日

増渕 麻里耶東京文化財研究所
アソシエイトフェロー

1979年東京都生まれ。理学修士(東京理科大学)。英国ユニヴァシティ・カレッジ・ロンドン考古学研究所博士課程修了。PhD。2002年よりトルコ共和国カマン・カレホユック遺跡の発掘調査に参加し、理学及び考古学的研究手法を用いて、ヒッタイト崩壊前後の鉄製品の製作技術とその社会的価値の変容について研究を続けている。

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