考古学
沖縄で出くわした「亀ヶ岡」
分類できない土器
沖縄県北谷町では、アメリカ軍からの返還地に眠っていた遺跡の発掘調査が完了し、その整理作業の真っ最中。地区ごとに刊行してきた報告書は10冊をとうに超えており、やっとゴールも見えてきた、そんな矢先のことでした。
平安山原(はんざんばる)B遺跡から出土した膨大な量の土器。その1つ1つを観察して、特徴ごとにその全てを分類・集計していきます。作業スタッフにはベテランも多く、チームワークもバッチリでしたが、量が量だけにとても大変な作業です。
北谷町の遺跡からみつかる土器は、当然地元で作られたものがほとんどですが、九州の曾畑(そばた)式土器や瀬戸内系の船元(ふなもと)式など、沖縄の外から持ち込まれたものも少なくありません。これらを見分ける土器担当者の眼力は、熱意と経験のたまものでしょう。
でもやっぱり、どうしても分からないものや判断に迷うものは、数点のこってしまいます。たまたま北谷町に派遣されていた私(青森出身)の目の前にダメ元でもってこられたのは、そんな土器片たちでした。
出くわす!
あちこちの遺跡で発掘してきたとはいえ、私はそんなに土器にくわしい訳ではありません。土器を見せてくれた担当者も、「知ってたらラッキー」くらいの軽い気持ちで見せてくれたんだと思います。
順番に手に取り、「あー、わかんないっすねー。」の連続でした。が、そのなかで1つだけ、どうも見たことがあるようなヤツが。
ん? 何か見たことある。 なんだっけ?
青森でよく見てたような気がする。
この文様…、そうそう工字文(こうじもん)。 自分の名前と同じ文様だった。
ってことは、亀ヶ岡? 大洞A? うそ!?
…って、そんなわけない。 東北の土器だぞ。 もう、オレのバカバカバカ!
いやー、だまされるトコだった。 他人の空似ってあるんだなー・・・。
…いやいや、やっぱり工字文だ。
そういえば、亀ヶ岡の土器って四国ではみつかっているって読んだことあるなー。
でも、なんだかどっか違うような気もする・・・。
会うはずのない沖縄の職場に、故郷のクラスメイトが偶然訪ねてきた感じ、とでも言うのか。でも確かにアイツに見えるけど、もっと爽やかでスタイリッシュじゃなかったっけ?みたいな違和感も残ります。そもそも、お前こんなところで何の営業してるんだ!?
心のなかでくり返される葛藤のあと、勇気をだして言いました。
「私この人知ってるかも。東北の大洞A式工字文ではないでしょうか?」。
平安山原B遺跡出土の「亀ヶ岡」土器
工字文(こうじもん)
「亀ヶ岡」とは、青森県にある縄文時代の遺跡の名前で、むかしからカメ(土器)が多く見つかることからその名がついたと聞いたことがあります。縄文時代の最後を飾る、非常に高度な技術と芸術性をもっており、「亀ヶ岡文化」とも呼ばれています。「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」なんかは超有名ですね。一般的にはこの「亀ヶ岡」という語がつかわれることが多いのですが、土器を専門的に語る場合には、岩手県の大洞(おおほら)貝塚での研究から「大洞○式」という言葉がつかわれます。
「工字文」というのは、大洞式のなかでも特に「大洞A式」といわれる時期の特徴的な文様です。漢字の「工」の字を組み合わせたようになっていることから、このように呼ばれています。
とはいえ、単純といえば単純な文様。偶然おんなじようなものができてしまうこともあり得るんじゃないか?
そんなことを考えていたとき、なにげなく自販機ウラ側の金属パネルが目に入ってきました。
自販機のウラ
あれっ? これも工字文といえば工字文?
なんだか自信がなくなってきました。
工藤君に訊いてみよう
青森に工藤君という友人がいます。すこし変人ですが、東北の縄文土器のことには詳しいはず。担当者の了承を得て、彼に画像をみせてみることにしました。
「これ、どう思う?」
「何スか、これ。工字文スか?」。
あっさり核心を突かれてしまいました。
新里先生にも訊いてみよう
さらなる確信を得るため、鹿児島の新里先生(南島土器の権威でナイスガイ)にも画像を送ってみました。
すぐに返ってきた先生からのメール、「すっげー!!」から始まり、「すっげーーーー!!」で終わってました。
この土器は、間違いなく大当たりなのだということが、よくわかりました。
そして大反響
2017年1月25日の報道発表の内容は、「報道ステーション」などの全国テレビニュース、新聞、ネットニュースで、大々的に報じられました。追加取材や実物を見せてくれという連絡もあとを絶たず、それに一番驚いたのは当の北谷町教育委員会だったかもしれません。
このときは、「東北の土器が沖縄でみつかった」→「こんなに離れた地域に交流があった」という、ある意味シンプルでストレートなニュアンスで伝えられ、それが反響を呼んでいたのですが、しばらくしてさらにスゴイことが判明したのでした。
土器にふくまれていたガラス
後日、弘前大学の柴教授から、この土器片にふくまれるガラス成分からわかったことが報道発表されました。
ガラスは火山から噴出された「火山ガラス」で、その成分から約7,300年前におきた鹿児島の「鬼界アカホヤ噴火」であることが判明。ガラスの大きさや量から考えると、この「アカホヤ火山灰」が多く降り注いだ西日本の粘土で作られた可能性が高いとのこと。
つまり、この土器は西日本の粘土で作られた、ということになります。
でもまてよ、文様のオリジナルは東北のはずでは?
この疑問に、同じく弘前大学の関根教授がこう説明します。
工字文はたしかに東北オリジナルのもの。しかし、亀ヶ岡文化圏の外側でも、これと真似たような文様が存在する。発見された土器の工字文は2段構成になっており、これは東北ではみつからないが中部地方などではよくあるもの。
つまり、この土器をつくったのは、東北のことをよく知っている東北以外(北陸・中部・関東など)の人、ということになります。
つまりこの土器は・・・
関根教授は、以下のような可能性を導き出しました。
「東北の工字文のことを知っている中部地方周辺の人が、何らかの理由(婚姻など)で西日本に移動し、その土地の粘土で作った土器を、誰かが沖縄にもたらした。」
なんだかとっても複雑ですが、よくよく考えてみると、誰かが東北から小舟で直接沖縄に乗り込んだというよりは、よっぽどリアリティがあるような気がします。
それよりも、たった1つの土器片から、ここまで具体的なヒトの動きを想像できるのは、とてもとても画期的なこと。日本各地の土器でおなじ分析をたくさんすれば、もっともっとヒトのいろんな動きがみえてくるはず。今後の展開がとても楽しみですね。
邂逅
複雑ともいえるこの土器の動き、なんとなく私の人生に似ています。
「青森で発掘を知り、東京の会社に就職し、東北・北陸・九州で発掘に従事。長崎で結婚し、とうとう沖縄にいたる。」
現代社会においては、こんな人は少数ではありますが、珍しいというほどのことでもないでしょう。そして大なり小なり、何らかの社会的な役割をみんなが担っているはずです。
定住社会だったといわれる縄文時代にだって、実はこういう役割の人がけっこういたのかもしれませんね。
北谷町教育委員会
新里先生
工藤君
その他、ホントにたくさんの方々
公開日:2018年2月2日