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歴史・民俗学

栃木県の天念仏

柏村祐司 / KASHIWAMURA Yuji

下野民俗研究会 会長

天念仏とは、太陽および月等に風雨順調・農作物の無事生育等を祈願する原始的な信仰で、天道念仏、天祭(てんさい)等ともいわれる。天念仏の分布地域は、おおよそ福島県中通り地方南部、北西部山間地を除く栃木県、および茨城県、千葉県、埼玉県の一部地域である。中でも栃木県は、天念仏を実施、あるいは過去に実施していた所が210余か所におよぶという分布数の多さはもとより、行事の形態の多様さ等の点で際立つ地域である。

ここでは栃木県における天念仏について紹介したい。

形態から見た栃木県の天念仏

栃木県内での天念仏は、「大字」ないしは大字内部の「坪」等と称する集落単位に成人男性によって行われることは全地域で共通するが、その形態は地域により異なり、以下の三つのタイプに大別することができる。

(1)集落内の高い山に登り、山の頂上に祭壇を設け行事を行う

(2)丸太で櫓を築き、頂上部に祭壇を設け行事を行う

(3)天棚を築き2階部分に祭壇を設け行事を行う

 

以下、概要を述べたい。

 

 

(1)集落内の高い山に登り、山の頂上に祭壇を設け行事を行うタイプ

 

栃木県東部の大田原市から那珂川町にかけての八溝山間地、および西部の日光市、鹿沼市、佐野市にかけての足尾山間地に見られる。但し、八溝山間地では天道念仏とも称し、集落内の山に登り、頂上のご神木の傍らに仮設の祭壇を設け、お供えをした後に、日の出を拝し葉煙草の無事成長等を祈願。その後何度か頂上のご神木の周囲を鉦・太鼓を叩きながら「ナンマイダンボ」と念仏を唱えて回る。

この間、持参した酒、赤飯、煮しめ等を飲食し、最後に夕日を拝して下山するものである。時期的には、4月上旬の葉煙草の苗の植え付け後である。

 

一方、足尾山間地では天祭と称し、集落内の山に梵天を担いで登り、頂上のご神木に梵天を縛りつけ、その傍らの祠等に供物を供え麻等の農作物の無事成長を祈願し、その後持参した酒、赤飯、煮しめ等を飲食するものである。他の地域のように念仏を伴わず、天祭、あるいは丁寧に「お天祭」ともいわれている。時期的には3月下旬から4月上旬の麻の種まき前後で、麻の栽培との関わりが強い。

大田原市雲岩寺の天念仏(形態1)藁蓑を着てご神木の回りを鉦・太鼓を叩きながら念仏を唱えて回る 撮影:筆者

鹿沼市下永野のお天祭(形態1) 藁蓑を着てご神木の梵天(竹竿の先に幣束をつけたもの)を持って山に向かう  撮影:筆者

大田原市羽田の天祭(形態2)/大田原市なす風土記の丘湯津上資料館提供

(2)丸太で櫓を築き、頂上部の棚に祭壇を設け行事を行うタイプ

 

大田原市の旧大田原市域および那須塩原市百村等の那須野が原一帯に見られる。特に旧大田原市域に多く見られ、大正期頃までは16か所で行われていたという。

但し、現在ではその多くが消滅状態にあり、わずかに大田原市羽田と同市花園に継承されているだけである。行事は寺や神社の境内を会場として行われる。

 

櫓の形態は、長さ10m余の丸太4本を約2間(3.6m)四方に立て、頂上部とその下との2か所に棚を設ける。頂上部の棚には太陽を表した大日如来を安置し、梵天を立て、その前に祭壇を設ける。下部の棚は囃子方の場とする。

行事は3日3晩行われ、朝昼夕の3回、太陽をはじめとする神仏を招き寄せ、拝し、風雨順調等の祈願をする。

この祈願の主役は行人(ぎょうにん)で、村の年かさの者4~5人が選ばれ、祈願をするたびに身を清める等の水行を行う。

 

水行の後、白装束姿の行人が頂上部の棚に上がり、大日如来(太陽)を始めとする神仏に風雨順調、農作物の無事生育等を祈願し、次いで囃子方の演奏にあわせ梵天の周囲を「お山は晴天・六根清浄」等と唱えながら回る。

 

一方、櫓の下では若者が囃子の演奏にあわせ櫓の回りをまわる。以前は旧暦7月の盆(新暦の8月~9月上旬)の頃に行われたが、現存する羽田・花園の場合、今では新暦の7月に行っている。

 

(3)天棚を築き2階部分に祭壇を設け行事を行うタイプ

 

 

宇都宮市を中心に隣接している鹿沼市の一部から高根沢町、那須烏山市旧南那須地区、市貝町、那珂川町旧小川地区等の栃木県央部の平野地帯に見られる。

行事の場は(2)の櫓形式と同じく寺や神社の境内である。天棚とは組み立て式2階建ての物で、2階部分に祭壇が設けられ、1階部分は囃子方の場となる。屋根の破風や欄間等に彫刻が施された絢爛豪華な造りは彫刻屋台とみまごう程である。2階の祭壇には建物の奥壁に太陽(日天)・月(月天)を描いた掛軸を下げ、あるいは奥壁の前に幣束(多くは3本)を立て、その前に重ね餅、お神酒、白米飯、果物等の供物を供える。

 

行事の内容も(2)とほぼ同じで3日3晩行い、行人が主役となり、若者が補助役となる。

太陽をはじめとする神仏を招き、拝し、祈願することを「ゴウライゴウ」とか「センドガケ」、あるいは「オセンド」等と称する。ゴウライゴウとは「ご来迎」のことであり、センドガケ、オセンドは「千度掛け」、つまり何回も天棚の周囲を回り願い事を唱えることを意味する。これを朝昼夕の3回ないしは真夜中の4回行う。

 

ご来迎は、水行で身を清めた白装束姿の行人が、天棚の2階祭壇において、僧侶ないしは神主の読経、あるいは祝詞奏上に参加する。その後1人が2階に残り、他の行人は天棚下正面に位置するが、そのうちの1人が梵天を持つ。そして2階の行人が「帰命頂礼、六根清浄」と音頭をとると、天棚下の行人、および若者たちが「サンゲ、サンゲ、六根清浄 おしめに八大金剛童子 集落内の神仏の名前 背面童子の一時礼拝」とサンゲ祈祷呪文を唱え、太陽をはじめ集落内の神仏を招き寄せ、風雨順調等を祈願する。その後、囃子のテンポが速くなったのを合図に梵天を持つ行人を先頭に他の行人、および若者が天棚の周囲をお囃子が終わるまで何回も回る。

 

この(3)の形態の天念仏では、2日目のいわゆるナカビ(中日)がクライマックスとなり、ご来迎の合間に様々な芸能が行われた。行事が盆の期間中に行われる所ではお囃子の演奏をもとに盆踊りが行われ、また、義太夫や浪曲師を呼んで義太夫語りや浪曲語りや芝居が演じられ、あるいは太鼓踊り、さらには若者等が天棚彫刻等を褒める「ほめ言葉」の口上等が行われた。

 

行事の実施時期は、盆の時期ならびに二百十日の頃が多い。現在、栃木県内での盆行事は、多くの地域が月遅れの8月13日~16日に行っている。一方、二百十日は新暦では毎年9月1日と固定している。したがって月遅れの盆と二百十日では、約半月のずれが生じるが、旧暦では盆と二百十日はほぼ同じ頃となる。

つまり天棚を中心施設として行う天念仏は、もともと二百十日の風祭りとして、台風の襲来を除け、風雨順調や農作物の無事生育を太陽をはじめとする神仏に祈願する意味合いが強かった。

鹿沼市栃窪の天念仏(形態3): 天棚の上でサンゲ祈祷呪文を唱える行人 筆者撮影

原始的太陽信仰と山・櫓・天棚

天念仏は、もともと原始的な太陽信仰がもとになって生まれ、発展してきた行事と考えられる。それは「天道念仏」と天道の名を用いる所があり、また、日の出や日の入り等、太陽を重視することすることからも窺えよう。こうした原始的な太陽信仰に念仏信仰の普及とともに念仏が付会し、天念仏、あるいは天道念仏と呼ばれるようになったと考えられる。
一方、行事を執行する場として集落内の高い山があてられることが注目される。そこは、日の出・日の入りを拝するには絶好の場であり、また太陽に近い場所として意識される所でもある。こうした高い所への指向は、櫓や天棚という施設を生み出した。いずれも平野地帯で設置されたものであり、山に代わるものといえよう。

 

ところで天棚の設置は、天念仏分布地域の中でも宇都宮市を中心とした栃木県中央部にだけ見られるもので、この地域独特の施設といえる。この天棚について旧宇都宮市の場合を見ると、43地区で所在が確認されている。そのうち製作年が明確なのは9基で、うち8基が江戸時代、1基が明治時代である。最も古いのは文化9年(1812)で、最も新しいのが明治15年(1882)である。この時期は鹿沼市や宇都宮市等に見られる彫刻屋台の製作年代と重なり、しかも彫刻屋台製作に活躍した彫物師の名が見える(注1)。

 

彫刻屋台は平屋造りで車がついた移動式ものであり、それに対し天棚は2階造りで車のない定置式のものである。しかし、両者とも大きな破風屋根で前方の破風には彫刻を施した鬼板(おにいた)とか懸魚(げぎょ)がつき、また、彫刻欄間、彫刻腰板等共通した彫刻を施す等共通した造りが見られる。数からいえば天棚より彫刻屋台の方が多く、天棚の造りは彫刻屋台の影響を受けて作られたと思われる。

天念仏行事の意味とその果たす役割

天念仏行事は、表向き風雨順調や農作物の無事生育などを太陽をはじめとする神仏に祈願する信仰であるが、一方娯楽的要素も強い。

例えば3日3晩行われる天念仏の場合、中日に盆踊りや太鼓踊り、義太夫語りや浪曲語り、あるいは芝居の上演などは、明らかに娯楽として催されるものである。その他にも全ての天念仏行事で酒、煮しめ、赤飯等の飲食を伴う。かつてこれらは日常の生活の中では味わうことの出来なかったものであり、天念仏の時には思う存分に飲食できたものでもある。天念仏は、過酷な労働と粗食に甘んじなければならなかった、農民たちの日常生活の中での貴重な息抜き、癒し時間ともなったのである。

 

もう一つ、天念仏行事の果たす役割には、村人に同じ村人の一員であることの自覚を促すとともに仲間意識の醸成を促すものがあった。天念行事には多大な労力と費用を必要とする。櫓や天棚は、行事ごとに部材を組立て、解体したもので、そのためには、多くの村人の労力を必要とした。しかも経験者の指図のもとチームワークよく行わねば作業はスムーズに進まず、場合によっては事故を起こしかねない。行事の執行においても経験者の指図のもとに行事を遂行したのである。一方、集落内の高い山に登り、そこで行事を展開する場合は、梵天や祭壇への供物や行事の合間に繰り広げる飲食のための餅や酒、赤飯、煮しめ等をそれぞれが分担して持ち上げなければならない。そしていずれの場合も行事を実施するためには多大な費用を必要とし、それらは原則均等分担であった。このように天念仏行事を実施するには、村人が心を一つにし、互いに助け合い連携して行わなければ出来ないものであったのである。

天念仏行事の衰退と復活

栃木県内において天念仏行事がいつごろから行われるようになったものか定かでない。

天棚に記された紀年銘や各保存会が所有する控え帳等からすると、栃木県内ではすでに江戸時代文化文政の頃には天念仏が行われていたことがわかる。その後、明治期・大正・昭和初期にかけて最盛期となり、第二次世界大戦中・戦後の混乱期に衰退し今日に至っている。戦中・戦後の混乱期の衰退は、行事の担い手となる成人男性の数が減ったこと、各家の経済力の低下等によるものであり、一方、今日の衰退は、農村社会の多様化により多大な労力と費用を要する天念仏行事の開催に、村人の合意が得にくい、といったことによる。

 

前述したように栃木県内で210余か所で天念仏行事が行われていたが、今日ではそのほとんどが衰退し、実施の実態は把握しにくいところがある。

 

現在行事の実施が明らかなのは、櫓を築く形態の「大田原市羽田八龍神社の天祭」、天棚設置形態の「那須烏山市三箇塙の天祭」「市貝町田野辺の天祭」(注2)である。羽田八龍神社の天祭は、7月28日以前の直近の土日の八龍神社の祭礼に、三箇塙の天祭は、二百十日に塙の松原寺の境内にて、田野辺の天祭は、8月末に高龗(たかお)神社境内においてそれぞれ行われる。(見学の際には日程など各地の教育委員会に確認のこと)

これらの他に最近、天棚の収蔵庫建設を機に天棚のお披露目を兼ね天念仏行事を復活した所がある。

宇都宮市鶴田町、同市板戸町、同市東下ケ橋町であり、鶴田町の場合は、9月に高龗(たかお)神社境内、板戸町の場合は板戸公民館前広場、東下ケ橋の場合は東下ケ橋前広場でそれぞれ実施している。3地区とも風雨順調・農作物の無事成長等を祈願する信仰的なものよりも、集落のコミュニテイの醸成や活性化を図る意味合いが強い。

 

注1:
天棚の場合は、屋台と異なり製作に関わった大工や彫刻師が名を残すことが少ない。宇都宮市の天棚彫物製作で、鹿沼や宇都宮等の屋台の彫刻に関わった彫刻師として後藤正秀、石塚直吉吉明の名が見える。

注2:
掲載時における天祭実施場所
・大田原市羽田八龍神社の天祭…大田原市羽田846 八龍神社境内
・那須烏山市三箇塙の天祭…那須烏山市三箇1660 松原寺境内
・市貝町田野辺の天祭…芳賀郡市貝町石下248 高龗(たかお)神社境内

参考文献:宇都宮市教育委員会文化課発行『宇都宮市屋台・天棚等調査報告書』平成9年

柏村祐司かしわむら ゆうじ下野民俗研究会 会長

1944年栃木県宇都宮市生まれ、宇都宮大学教育学部卒。栃木県立博物館民俗担当学芸員、学芸部長を務めたのち、芳賀町総合情報館準備室長、鹿沼市立川上澄生美術館長を歴任。現在、下野民俗研究会長、栃木県立博物館名誉学芸員。主な著書に『しもつけのくらしとすまい』下野新聞社刊、『栗山の昔話』随想舎刊、『栃木の祭り』随想舎刊等多数。