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考古学

古代エジプトの庶民の生活ーアコリス遺跡の成果からー(1)

和田 浩一郎 / Koichiro WADA

國學院大學 文学部史学科 兼任講師
早稲田大学エジプト学研究所 招聘研究員
国際文化財株式会社

アコリス遺跡遠景

アコリス遺跡について

筆者はエジプトの首都カイロからおよそ230km南にある、アコリス遺跡での考古学調査に参加している。この遺跡はヘレニズム~ローマ時代(紀元前4世紀~紀元7世紀)の町が残っていることで古くから知られている。「アコリス」という遺跡名はヘレニズム時代(プトレマイオス朝時代)の史料から付けられたもので、地名としては遺跡の麓にあるテヘネ・アル=ジャバル(アラビア語でテヘネの山/丘)という現在の村の名のほうが通りがいい。このテヘネという村名が、「タ・デヘネト(頂の土地)」という古代エジプトの地名に由来しているのはほとんど間違いない。古代エジプトにまで起源をたどることができるものは、現代のエジプトにはほとんど残っていないのだが、このテヘネ村のように地名にはちらほらと古代名の名残を見ることができる。

タ・デヘネトという古代名が端的に示しているように、アコリス遺跡は耕作地を見下ろす河岸段丘の上に位置している。ナイル川や耕作地に近いほうが日常生活には便利なので、エジプトの集落は通常、氾濫原(ナイル川の増水が到達する低地)のなかに営まれる。だから耕作地際の砂漠上というアコリスの立地には、生活以外の要因が大きく関わっていたといえる。その理由は軍事的なものだった可能性が高いが、正確なことはよくわかっていない。ただ集落として少々特殊な立地にあることで、アコリスは現在の町や畑の下になることなく、比較的良好に保存されてきた。しかもナイル川の地下水位の影響を受けにくい石灰岩台地上にあるので、普通なら朽ちてしまう木や布といった有機質の遺物が非常によく残っていることも、調査対象としての価値を高めている。

現在のテヘネ村(左)と段丘上に広がるヘレニズム・ローマ時代の町址(右)

アコリスは古くから知られていた遺跡だが、本格的な学術調査が行われるようになったのは1980年代に入ってからである。調査母体となったのは、京都に本部を置く古代学協会。以来今日に至るまで、アコリス遺跡の調査は日本の研究者が中心になって進められている。現在調査が行われているのは、ヘレニズム・ローマの町と岩山をはさんで南側に広がる町の址である。出土遺物から、この町が使用されていたのは紀元前11~7世紀頃、古代エジプトの時代区分でいえば新王国時代の末から第3中間期の終わりころであったことがわかっている。ツタンカーメンやラメセス2世といった有名な王の時代が終わり、エジプトを含む東地中海世界が大きな社会変化の波にさらされていた時代である。こうした不安定な時代に、アコリスという目立たない地方集落の住民たちはどのような生活をしていたのだろうか。

住環境

現在調査が進んでいる王朝時代1)の町の南北には高さ30mほどの岩山があり、二つの岩山の間に広がる南北約200m、東西約150mのそれほど広くない空間に町が営まれていた。土地の半分ほどは傾斜地で、場所によっては斜面に貼りつくように建物が建っている。

調査が進む王朝時代の町址

古代エジプトの建築物は石でできているイメージが強いが、石は永続性が求められた神殿や墓のための建材だった。住宅建築の場合、たとえ王宮でも日乾レンガと植物素材(丸太、板材、粗朶など)が主要建材で、石材は戸口まわりや柱の礎石などとして限定的に使われていた。外壁は現代のエジプトの住宅同様、白や黄など明るい色で塗られることが多かった。

日乾レンガ造の建物址。残っている壁の高さは数十cmの場合が多い

典型的な王朝時代の中規模住宅は、中庭やホールを建物の中心に据え、玄関側に仕事のスペース、奥側に居間や寝室が配置されていた2)。こうした平面プランはアコリスでも確認できる。ただし実際の住宅は外壁を隣同士で共有している場合が多く、イレギュラーなプランを持つものも珍しくない。増改築もよく行われており、一軒一軒の住宅を見分けるのが難しいこともある。床面積は平均で70㎡ほどだが、階段が残っている住宅もあり、多くが二階建て以上の建物だったと考えられる。住宅に住む家族の構成は流動的で、核家族が基本だが親兄弟や親族が同居することも珍しくなかった。

建て込んだ住宅にはさまれた幅2mほどの街路に立つと、古代の町の光景がぼんやりと浮かび上がってくる。かまどで焼かれるパンの香り、革工房や機織り工房で忙しく手を動かす人々、子供と一緒に通りを走ってくる犬。バリー・ケンプというイギリスの著名なエジプト学者は、フィールドで想像力を働かせることの大切さを説いている。調査中に気分転換がしたくなると、私はよく街路に立って周りを見回す。自分を古代につなげるこの「儀式」によって、自分が何を求めてこの場所にいるのか思い返すことができる。

食卓

古代エジプト文明が3000年にわたって存続できた理由のひとつに、西アジアから伝わったオオムギ・コムギを安定的に栽培できる、環境的な下地があったということを挙げることができる。つまりナイル川の増水(8~12月)と、ムギの生育・収穫(冬~初夏)のサイクルが見事に合致していたという幸運があったのである。

コムギはパンに、オオムギはパンやビールに加工されたことがよく知られている。各家庭にはかまどと粉挽き台があり、パンもビールも多くは自家製だった。労働報酬の基本はこうした穀物で、それを家庭で加工したり物々交換の支払いに使っていた。アコリスでは穀物庫と考えられる円形の遺構が多数確認されている。こうした穀物庫が公的な施設にともなうものだっかのか、個人に属するものだったのか判然としない場合が多いが、町の中に多くの穀物を保管する意識があったのは確かだろう。

倉庫址周辺から出土した魚骨(おそらくナマズ)、コムギ、アマとスイカの種

オオムギ、コムギ以外に古代エジプト人は何を食べていたのだろうか。アコリス遺跡ではまだ植物遺存体の包括的な分析は行われていないものの、スイカやナツメヤシ、イチジクといった果物類が食べられていたのは出土資料から確かである。また野菜としてはレタスやウリの仲間、ニンニク、リーク(セイヨウネギ)、タマネギ、レンズマメなど数種のマメ類が食卓に上っていたはずである。食肉の機会は庶民の場合それほど多くなかったと思われるが、他の遺跡でも見られるように、ブタの飼育と消費はアコリスでもわりとポピュラーだったようだ3)。おそらく庶民の場合、動物性タンパクは陸上動物よりも魚から摂ることが多かった。アコリスではナマズやティラピア、ナイルパーチなどの魚骨だけでなく、青銅製の釣り針や土製/金属製の重り、投網などの漁具も出土しており、漁労が食料獲得の一角を占めていたことがうかがえる4)

先に述べたように、アコリスの町が活動していた新王国時代の末は、エジプト社会が不安定化していた時代だった。その要因のひとつと考えられているのは、東地中海地域を見舞った天候不順である。エジプト王国内では穀物価格が高騰し、財政的に厳しい状況が生じていたことが知られている。しかしアコリスの出土資料は、この町の住民の生活環境が、それほど逼迫したものではなかったことを物語っているように思える。古代エジプトには中央政府の弱体化と地方の隆盛が反比例する歴史があり、アコリスの状況はそうした社会背景を反映しているのかもしれない。    


(1)    マケドニアのアレクサンドロス(アレキサンダー)大王がやって来る前の、おもに土着の王が支配していた時代を王朝時代と呼ぶ。1〜30の王朝で時代区分されている。
(2)    Arnold, D. (ed.), The Encyclopedia of Ancient Egyptian Architecture, Princeton 2003, pp. 110-112.
(3)    Tsujimura, S., "Faunal Remains in the Southern Area", Akoris 2012, Tsukuba 2013, pp. 15-17.
(4)    Tsujimura, S., "Fishing in Akoris", Akoris 2011, Tsukuba 2012, pp. 14-18.

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編集部注

文化遺産の世界 コラム集『エジプトの遺産と文化』(2017年11月刊行)もお楽しみください。

公開日:2019年2月15日

和田 浩一郎國學院大學 文学部史学科 兼任講師
早稲田大学エジプト学研究所 招聘研究員
国際文化財株式会社

1968年青森県生まれ。英国・スウォンジー大学古典古代史学部大学院修士課程、國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。博士(歴史学)。2016年より国際文化財株式会社に所属。著書に『古代エジプトの埋葬習慣』(ポプラ社、2014)、『古代オリエント事典』(日本オリエント学会編、岩波書店、2004)など。