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考古学

古代エジプトの庶民の生活ーアコリス遺跡の成果からー(3)

和田 浩一郎 / Koichiro WADA

國學院大學 文学部史学科 兼任講師
早稲田大学エジプト学研究所 招聘研究員
国際文化財株式会社

中エジプトのアコリス遺跡の調査成果を紹介する第3回。今回はこの集落遺跡における信仰と、それに関わっていたと考えられるひとりの子供の埋葬に焦点を当てる。

アコリスの神々

古代エジプト人が動物などの頭と人の体を持った、奇妙な神々を崇拝する人々だったことはよく知られている。こうした神々の多くは、ナイル川流域に点在する集落の守護神として誕生してきた。国土が政治的に統一され、王が各地に影響力を及ぼすようになると、神々は国家信仰の体系のなかに組み込まれた。神の崇拝の手順や他の神々との関係は、国家信仰(特に太陽神ラーの信仰)の影響を強く受けて画一化が進んだが、地域の神々自体は存続した集落も多かった。

ラメセス3世(中央)とアメン神(右)の訪問を受けるセベク神(左)

新王国時代のアコリスで崇拝されていた神としてよく知られているのは、セベク神とアメン神である。王家の出身地テーベのアメン神はこの時代の国家神であり、政治的な理由から各地に導入された。セベクはワニの頭を持つ神で、ファイユームやアスワンなど水の豊かな場所に信仰の拠点があったが、アコリスの隣接地域でも守護神になっていた。河岸段丘上に位置するアコリス近辺にワニがいたとはちょっと考えがたいが、この町の古代名のひとつにメル・ネフェル(良い/美しい運河)というものがあるので、段丘の下を立派な運河が流れ、そこにワニが棲んでいたのかもしれない。アコリスの神殿域では、時代はより新しいものだろうが、セベク神の聖獣として飼育されていた大きなワニのミイラや、同神への奉納物として作られた、ワニの粘土製小像が確認されている1)

現存するアコリスの神殿は新王国時代あるいは第3中間期以降に造営されたもので、それより前の時代の宗教活動については、あまりはっきりしたことはわからない。アコリスから2.5kmほど南に、古王国時代・第5王朝ウセルカフ王治世下(前2435-2429年頃)にこの地域の行政長官を務めていた、ニカアンクの岩窟墓がある。墓の礼拝室には、この人物が「ラ・イネトの女主人ハトホル女神の神官長」という聖職を兼任していたことが記されている2)。ラ・イネトとはエジプト語で「谷の口」を意味し、砂漠を走る涸れ谷(ワディ)の河口を指していると考えられる。ニカアンクの墓の付近で涸れ谷が耕地に向けて口を開けた景観を持ち、かつ古代の集落があった場所となるとアコリス遺跡くらいしかない。そこで私は、ラ・イネトがアコリスの古代名のひとつで、古王国時代にはその女主人と称されたハトホル女神が、町の守護神として崇拝を集めていたのではないかと考えている。

クラッパーを持つ少女

2015年の調査で、集落の使われなくなった一角からひとつの土坑墓が見つかった。蓋のない粗末な木棺に安置されていたのは、7~9歳で亡くなった子供だった。子供は首からネックレスをかけ、いくつかの護符を身につけており、さらに左の足首にはアンクレットをした状態で葬られていた3)

集落の一角で発見された子供の埋葬(©アコリス遺跡調査団)

この埋葬が行われたと考えられる第3中間期・第21王朝(前1080~940年頃)は、古代エジプトの埋葬に大きな変化が訪れた時代として知られている。王やエリート層でも立派な墓を造らなくなり、副葬品もかなり限定された内容になったのである4)。富裕層のこうした変化を受けて、より低位の人々の埋葬は、いよいよ見栄えのしないものになった。副葬品は護符や装身具が1~数点伴う程度で、何も持たない死者も珍しくなくなったのである。こうした時代背景を踏まえると、この埋葬には比較的多くの副葬品が伴っていたといえる。なかでも注目されるのは、二組の木製クラッパーが足元に置かれていたことである。

子供の埋葬に伴っていたクラッパー(©アコリス遺跡調査団)

クラッパー(clapper)は木やカバの牙で作られた打楽器で、日本でいえば拍子木である。両手にひとつずつ持って打ち鳴らすタイプと、二本の指でひとつずつ挟み、片手だけで打ち鳴らすタイプがあったと考えられている5)。後者の用法から、カスタネットとして紹介されることもある。アコリスの子供の埋葬に伴っていたのは、人の手首から手のひらまでを表現したタイプで、下端にクラッパー同士を結ぶ紐を通すための穴が開けられている。長さが約20cmあることから、両手に持つタイプであろう。ただし打ちつける下面があまり平滑に仕上げられていないため、楽器としての機能にはやや疑問符がつく。楽器の実物ではなく、埋葬用に作られた模造品(模型)なのかもしれない。

第3中間期の埋葬は副葬品のバリエーションが乏しく、楽器が伴っていること自体、非常に珍しいのだが、それがクラッパーだということがさらに意味深だった。なぜならクラッパーは市井の演奏で使われるものではなく、宗教儀礼で使われる、祭具としての意味を併せ持った楽器だったからである。そのような性格を持った楽器(あるいはその模造品)が、なぜ子供の埋葬に伴っていたのだろうか。

神殿の踊り手たち

古代エジプトの王宮や特定の神の神殿には、おもに宗教行事で歌舞音曲を披露する「ケネル」という技能集団が所属していた。ケネルの構成員は女性が中心だったが、男性もいたことがわかっており、さらに少女たち(ネフェルウト・ネト・ケネル)が加わっていた。彼女たちは楽士の単なる見習いではなく、身軽さと高い運動能力をもってアクロバティック・ダンスを踊るという、重要な役割を任じられていた6)。新体操やフィギュア・スケートの選手の年齢層を見ればわかるように、アクロバティックな動きは小柄で体重が軽い方が有利である。そこで古代エジプトでも、この種のパフォーマンスは年少者が担うことになっていたのである。クラッパーと子供という組み合わせから私が考えたのは、ケネルのような技能集団に属していた少女、ということだった。

楽士たちの間で踊る少女(ジェセルカーラーセネブの墓壁画の模写)

この推測を補強するのは、子供の埋葬に比較的多くの装身具が伴っていたという事実である。こうした集団の女性たちは、パフォーマンスを披露する際に多くの装身具を身につけていたことが壁画の描写からわかる。そこでクラッパーだけでなく装身具も、この子供の生前の社会的役割を反映しているのではないかと考えたのである。埋葬に使用されていた棺があまり質のいいものでないことは、子供の家がそれほど裕福ではなかったことを示している。神殿儀礼の女性従事者は、新王国時代の前半にはエリート層にほぼ限定されていたが、後半になるとより幅広い身分から採用された7)。エリート層の母集団が小さいアコリスのような地方都市では、その傾向がより強かったことも考えられる。とはいえこの推測には弱点もある。そのひとつは、子供の性別がわかっていないということである。人骨から性別がわかるのは第二次性徴を経た10代半ば以降であるため、10歳にも満たないこの子供の性別判定は、別の手段を講じなければならない。DNAやタンパク質の解析がそれに当たり、将来的にはぜひ試みたいと考えている。

この子供が若き舞踊家だったとすると、どの神に仕えていたのだろうか。セベク神やアメン神の名前がまず挙がるだろうが、私はハトホル女神の可能性もあると考えている。第3中間期のアコリスでハトホル女神が崇拝されていた証拠はない。しかし新王国時代・第19王朝には、ラメセス2世の有名な王子であるカエムワセトが、アコリスで同女神に石像を奉納している8)。古王国時代にはじまるハトホル信仰が新王国時代まで存続していたのならば、それがさらに第3中間期まで続いていた可能性は高い。何よりハトホル女神は音楽や舞踊と深く結びついていた神であり、ケネルのような技能集団の所属先として、もっともよく知られているのである。

神への祈りは古代エジプト人の日常生活のなかで大切な位置を占めており、神の住まいである神殿や祠堂は、地域社会の中核を担う存在だった。神の祭りともなれば近隣から人々が集まり、アコリスの町もおおいに賑わったに違いない。神殿の楽士・踊り手たちにとっては晴れ舞台である。その舞台にこの子供は立つことができたのだろうか。棺に入れられた二組のクラッパーは、幼くして亡くなった者を悼む人々の想いを伝えているように感じられてならない。


(1)    Kawanishi, H. et al., “Western Temple Area”, in The Paleological Association of Japan (ed.), Akoris, Kyoto 1995, 43 ff.
(2)    Thompson, E.M., The Old Kingdom Cemetery at Tehna, I, Oxford 2014, p. 21 n. 34, pls. 56, 57.
(3)    Kawanishi, H., Akoris 2015, Tsukuba 2016, pp. 6-8.
(4)    従来こうした変化は、古代エジプト王国の政治経済的な弱体化の証左とされてきた。しかし近年では、盗掘の被害から逃れるために、あえて「貧しい」埋葬が行われたという解釈が示されている。
(5)    Ziegler, C., Catalogue des instruments de musique égyptiens, Paris 1979, 19 ff.
(6)    Kinney, L., Dance, Dancers and the Performance Cohort in the Old Kingdom, Oxford 2008, pp. 34-35.
(7)    Teeter, E. “The Role and Function of Temple Singers”, in Teeter, E. and J.H. Johnson (eds.), The Life of Meresamun: A Temple Singer in Ancient Egypt, Chicago 2008, p. 25
(8)    Kitchen, K.A., Ramesside Inscriptions II, Oxford 1979, p. 888 E.

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編集部注

文化遺産の世界 コラム集『エジプトの遺産と文化』(2017年11月刊行)もお楽しみください。

公開日:2019年4月8日

和田 浩一郎國學院大學 文学部史学科 兼任講師
早稲田大学エジプト学研究所 招聘研究員
国際文化財株式会社

1968年青森県生まれ。英国・スウォンジー大学古典古代史学部大学院修士課程、國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。博士(歴史学)。2016年より国際文化財株式会社に所属。著書に『古代エジプトの埋葬習慣』(ポプラ社、2014)、『古代オリエント事典』(日本オリエント学会編、岩波書店、2004)など。