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インタビュー

文化財のお土産 誰が名付けた「前方後円」墳

編集員のゆるゆるコラム

前方後円墳クッキー

「古墳」と言われて多くの人がイメージする「前方後円墳」。このカタチ、クッションになったり型押しご飯でカレーに添えられたりと、考古学ファンならずとも大人気。

ちなみに、日本で初めて古墳の考古学的調査が行われたのは栃木県の「下侍塚古墳」で、それを行ったのは水戸光圀で、その意志を受け継ぎ、天皇陵(山陵)の保護・保全のために調べ、あのカタチを「前方後円」と著書に著したのは栃木県生まれの蒲生君平です。考古学を学ぶ学生なら、1年生で習うこれらの話は、地元栃木県では広く知られて・・・いない様子?

この意外な現象のナゾを解くべく、平成17年(2005)に、栃木県立しもつけ風土記の丘資料館で蒲生君平の企画展「前方後円墳の名付け親―蒲生君平と宇都宮藩の山陵修補―」を企画した、栃木県埋蔵文化センターの篠原祐一さんを訪ねました。

 

まずは蒲生君平のおさらいを

WHY「前方後円」墳

「蒲生君平は、明和5年(1768年)、現在の栃木県宇都宮市の商家で生まれましたが、その流れが戦国時代の名将、蒲生家にあると教えられ、学問で身を立てようとします。
徳川光圀の水府学(水戸学)に影響をうけ、光圀の編んだ「大日本史」を補てんする資料、神祇・山陵・姓族・職官・服章・礼儀・民・刑・兵についてまとめた「九誌(志)」を編纂することを決意します。

 

彼は、世の中をどう治めるのが正しいのかを学問で追求し、現在の論文に近い形で、自分の理想の世界を文章で表した純粋な学者でした。序列や秩序を重んじた世界を求め、山陵(天皇陵)を整理することは、天皇を敬い、自らの先祖を敬い、主君を敬うものにつながっていく、という考えから、九誌の中で真っ先に『山陵志』に取り組みます。

 

山陵修補の施策は江戸時代初期にあったものの、竹垣で囲って、高札を立てただけ。所在地の検証もされていませんでしたし、多くが盗掘や資材の再利用、開墾の危機にさらされていました。

君平は膨大な書物から論拠を導き出し、各地で聞き取りなど丹念なフィールドワークを行いました。調査は困難を極め、まさに命がけ。近畿地方に二回、また佐渡や四国など、天皇陵があると思われるところ全てに足を運び、考証していきます。

そして、数多くの陵を見ていく中で、このカタチは〇〇時代だ、〇〇天皇の墓だ、と分析するようになり、あの独特なカタチの「起源」も考えるようになりました。

中国の書物にも精通していた君平は、車塚という地名と、中国の古文書の柩車(銅馬車、轀輬車/おんりょうしゃ)のイメージと、車塚という地名を結び付けたのです」。

▼「山陵志」抜粋▼

およそその陵を営むは、山に因りて其その形勢に従い、向こうところ方なく、大小、高卑、長短も定むるなし。その制をなすや、かならず宮車にかたどり、而して前方後円となさしめ、壇をなすに三成とし、かつ環らすに溝をもってす。それ其の円にして高きは、蓋を張るがごときなり。頂は一封をなす。すなわちその葬るところ方にして平らかなるは、衡(くびき)を置くがごとくなり。その上の隆起せるは、梁輈(りょうちゅう)のごとく前後あい接し、その間やや卑く、而して左右に円丘あり、その下壇に倚り、両輪のごときなり。後世に至るに及び、民これを賭るに、よく識ることなし。なお号けて車塚という。けだし亦、これを以ってなり。

陵は地形を利用するので方向や大小が一定しない。制度は必ず柩車の形を模し、前が方形、後ろが円形で、接続部分はくびれて低く、前方後円の形をする。土を三段に盛り、周囲には溝をめぐらしている。後ろの丸い部分は傘を伏せた様で、前の方形は車輿の柄と横木のくびきに見える。後接部(くびれ部分)には円丘があり、これは車輪のようである。何の形をかたどったかは伝わっていないが、車塚と呼ばれることが多いのは、宮車を柩車とした名残であろう。

※訓読・口語訳ともに 栃木県立しもつけ風土記の丘資料館 第19回秋季特別展図録「前方後円墳の名付け親―蒲生君平と宇都宮藩の山陵修補―」より

天皇陵は宇都宮藩 DESIGN

第87代四条天皇以降天皇・皇后・親王など石塔形式の二十五陵、五灰塚、九墓がある月輪陵(京都府京都市 泉涌寺内)。奥には孝明天皇・皇后の眠る後月輪東山陵・北山陵を望む。月輪陵には孝明天皇を慕った戸田忠至の歯髪塚がある。

「46歳で早世した君平の死後50余年、『山陵志』が歴史に大きく影響を与えます。

 

文久2年(1862年)、宇都宮藩士が「坂下門外の変」に関与。幕府の怒りを買った宇都宮藩が、『山陵志』をもとに天皇陵の修補事業を申し出ます。これが認められ、文久3年(1863年)から慶応元年(1865年)12月まで、宇都宮藩が全ての天皇陵の修補、修繕をしました。今私たちが目にする天皇陵のデザイン(扉付きの鳥居・石標・柵)はこの「文久の修補」で宇都宮藩によって整えられたものなのです。

 

年若い藩主に替わって山陵奉行を務めた戸田忠至は、さまざまな場面で宇都宮藩のピンチを救います。そして、家臣から大名格に、ついには宇都宮藩から一万石の分知を受け、江戸幕府最後に生まれた藩(下野国高徳藩)の大名に大出世。孝明天皇との親交も厚く、その崩御の際には、大喪儀も行いました」。

 

 

それまで石塔だった陵を、古来の円墳を模した山陵形式で造営された孝明天皇陵(後月輪東山陵)。

孝明天皇と同じ円丘上で、やや低い位置にある英照皇太后の後月輪東北陵。

つくられたHERO像

「蒲生君平勅旌碑」(栃木県宇都宮市)碑の正面には「勅旌忠節蒲生君平里」とある。

「私が県外の人間だったから特に感じたのでしょうが、”前方後円墳”という言葉は、小学校6年生で習ういます。つまり、日本人で知らない人はいない、その特徴的な名前を考えた人物について、また幕末の宇都宮藩を支えたともいえる人物を、地元でほとんど知る人がいないのはなぜか、何があったのかと思いました。

 

文久の修補がおこなわれているころ、時を同じくして、長州(山口県)の吉田松陰が、彼の著書「職官志」を読み、君平に傾倒します。そこに自身の理想を重ね、君平の著書を松下村塾の教科書に使用。松陰の門下生が思想として、それを受け継ぎました。

 

明治新政府になり、松陰の影響を受けたものたちが、その理念を広めるにあたり、君平は都合のいいキャラクターになりました。自分たちに都合のいい点をクローズアップした、君平の顕彰運動がおこります。明治2年(1869年)には、勅命により生誕地の宇都宮に「蒲生君平勅旌碑」が建てられました。それまで君平を知らなかった一般市民にとっては、まさに「天から降ってきたヒーロー」。都合よく描かれた君平は国定教科書にも載り、ものすごく盛り上がってしまったのです。

 

それが太平洋戦争の敗戦で一転。皇国史観教育に利用された君平は、GHQにとって都合の悪い人物となり、教科書の掲載ページは墨塗りされます。そうなると、盲目的に盛り上がっていた人たちの反動は大きく、極端な拒否反応が起きます。彼の存在そのものを忘れよう、という意識が強く出てしまったのです」。

発掘したい 地域BRAND

「君平が蒔いた種が、どのように後世へ影響を与えたか評価していくことは歴史学的に必要なことです。そのためには、本人が行ったことと、その後の波及と、二つの流れをきちんと整理しなければ、と思いました。

 

様々な視点での地域おこし、まちおこしが模索される今、地域の歴史を正しく知り、そこから歴史の資産的価値、文化遺産を見つけることが重要です。そのひとつが、歴史に埋もれた地域の偉人(キャラクター)を掘り起こすことで、その土地ならではのブランドを見つけることです。「君平」をキーワードに、栃木県には①考古学発祥の地、②前方後円墳のネーミング、③幕末最後の大名の誕生、という日本の歴史上、特異なワードがズラリと並ぶんです。これをブランドにしない手はないでしょう!」

 

平成30年(2018年)、影山榑三雄さんを発起人代表として「蒲生君平生誕250年記念事業」を企画。篠原さんは「古墳」と「君平」をキーワードに、文化遺産を活用した地域おこし、まちおこし運動の先駆けとして約半年にわたり、県民総出プランを打ち立てることに携わりました。(http://maibun.or.jp/kunpei250/event.htm

DO YOU KNOW KUNPEI?

「とにかくたくさんの方に参加してもらえること、興味を持ってもらうこと、心に残ることを軸に様々な専門分野で活躍する人に声をかけました。期間中に講演、出演、出品などに協力してくれた人は、延べ800人。みなさんボランティアです」と発起人代表の影山さん。

 

徳川光圀が発掘調査を行った下侍塚古墳(大田原市)でのイベントを皮切りに、県内の古墳の紹介や歴史講演会、シンポジウムなどの開催と並行して、文化人・芸能人を巻き込んだイベントを展開。来場者は延べ6,000人を数えました。

 

「先生方のイベントプラス、おいしいとカワイイが、あったほうが楽しいですよね」と微笑むのは、当時影山さんらがイベントの打ち合わせで訪れていた、「カフェモンプチ」のオーナー富田貴美子さん。

親しみやすく、前方後円墳の印象を強く残したいと、様々なアイディアをもって老舗菓子店「岡埜」の小野薫さんに相談。そして生まれたのが『前方後円墳クッキー』でした。

大きな前方後円墳をイメージさせる、たっぷりとしたサイズ感。サクッと軽やかな歯ざわりに焼き上げたクッキーを、抹茶の薫り高いチョコレートで彩りました。

 

「「栃木ってどこ?どんなとこ?」って言われたときに、「前方後円墳って言葉を知ってる?それを考えたのは栃木県の宇都宮で生まれた、蒲生君平だよ」って、自慢してほしいです。そんな会話が、みんなから自然に交わされるようになってほしいですね」。と篠原さん。

 

歴史の考え方、正しく歴史を知る大切さも教えてくれた君平。
世界的にZenpokoenfunがポピュラーな言葉になる今、胸を張ってDO YOU KNOW KUNPEI?と言いたい。

(取材・撮影 / 宮嶋尚子)

※前方後円墳クッキーは一枚150円(税込)。現在は30枚以上からの受注製造販売です。

製造販売:欧風洋菓子と風流和菓子の店「岡埜」

住所:宇都宮市池上町4-3 ℡:028-633-3566

営業時間:9:00~18:30(日曜定休)

■取材協力
蒲生君平生誕250年記念事業副会長(発起人代表):影山榑三雄さん
公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化センター:篠原祐一さん
欧風菓子岡埜:小野薫さん
カフェモンプチ:富田貴美子さん

■参考図書
栃木県立しもつけ風土記の丘資料館 第19回秋季特別展図録「前方後円墳の名付け親―蒲生君平と宇都宮藩の山陵修補―」
祭神 蒲生君平
下野教育(第758号)

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