歴史・民俗学
山城の自然を読む
図1 岩殿山城(山梨県大月市)鏡岩は礫岩が垂直に見える崖になっている:以下撮影は全て筆者
はじめに
私は歴史学の研究者ではないので、歴史学的な考察はなされていないことをお断りしておく。
城(城郭)とは、諸時代の特定の勢力が自己の生命・財産、あるいは政治的支配力を維持・防衛するために築いた軍事的施設である(※1)。城は、多賀城、秋田城などのように、古代に東北地方の蝦夷への侵攻の軍事拠点として柵が築かれたのを始原とする。中世から近世までの城は、領国の統治と戦の際の防備のためにつくられたものであり、なかでも山城は専ら敵の攻撃に対する防備のために作られている。立地条件によって、平城、平山城、山城などに区分される場合があるが厳密な定義はなく、地形を活かして山地につくられたものを一般に山城という。山城は中世末から戦国時代にかけての戦乱の時代に数多くつくられ、戦国時代の終焉とともにその役割を終えて廃棄された。
山城には、山麓に根小屋と呼ばれることが多い屋敷(館)があり、戦がないときにはそこで主従一族が居住し、敵に攻められると山の上に移って防戦をする比較的規模の大きなものと、戦時のみに使われる砦のような小規模なものがある。戦国時代には合戦が常態化したために、山の上にある山城で長期の居住がなされたものが多い。非常時に備えて構築された城に対して、日常的な住居(屋敷)は館という。
本稿では、織豊時代の関東の山城を対象に述べることとする。この時代は、織田・豊臣と武田、北条の三大勢力が敵対しており、そこに真田、上杉、徳川などが侵攻をしかけていた時代である。山城のこの時代は、天正18(1590)年に小田原城が落城し北条氏が滅ぼされたことでほぼ終わる。
山城の立地と地形・地質
山城の自然を読む、という題の本稿であるが、自然を読んで城をつくったのであるから、城に行けばどのように自然を読んだかがわかる。
山城の立地、すなわち山城をどこにつくるかということについては、その位置や配置は敵対する勢力との関係が第一に考えられる。つまり自分または身方が支配している地域を守るために、敵の侵攻の経路を考えて決められるであろう。その際に山城を築く具体的な場所は、地形や地質などの自然の立地条件を考慮して決めていたであろう、というのが本稿の趣旨である。
山城は、地形学的には山地や丘陵地などのいわゆる山につくられる。一般に、山地は丘陵地よりも地形が急峻で、平地との標高差である比高も大きい。比高は大きいほど防備には都合がよいが、麓の館との行き来が不便になるので、関東地方の山城では比高は概ね300m以下である。
主な山城を見てみよう。
群馬県高崎市の箕輪城は、丘陵地ではないが、榛名白川によって削られた河岸段丘に築造されたものであり、急峻な段丘崖を巧みに利用し、さらに内側には巨大な空堀を造成している。比高は小さいが堅牢な城として知られている。地形・地質の特徴を存分に活かした城である。
標高が比較的低い丘陵地の山城に東京都八王子市にある北条氏の滝山城がある。多摩川と並行した滝山丘陵の標高160メートルにつくられたこの城は、比高が60メートルで、多摩川に削られた急崖を巧みに利用しており、関東ロームの厚い堆積を削って堀にして、土塁を築造している。基盤に岩盤がない丘陵地のため、築造の工事は比較的容易であったであろうが、比高が小さいので守りきれないことから、北条氏は高尾山の近くの山地に城を移した。八王子城である。
金山城は、群馬県太田市の標高239メートルの金山に築かれた山城であり、比高は179メートルで、地質は流紋岩からなる急傾斜の斜面に囲まれている。金山丘陵と呼ばれるが、山地のような急峻な丘陵である。金山城の地形・地質の特徴は、山地の地形に類似の丘陵であり、急峻な斜面に囲まれ、硬い金山流紋岩の地質からなり、豊富な流紋岩が石材として築城に活用され、柱状節理の露出した斜面をもつ、山が城と言えるものである。
唐沢山城は、栃木県佐野市の標高242メートルの唐沢山に築かれた山城であり、山麓には廃城後の開発を免れて館の跡が多く残されている。比高は182メートルで、地質は、古生代の砂岩、粘板岩、およびチャートである。
山地の山城は地形・地質の特徴をさらに巧みに利用している。
八王子城は東京都八王子市の高尾山から北へ続く尾根の頂上部の標高445メートルに築かれた北条氏の山城で、比高は240メートルあり、山麓に館がある。豊臣方の侵攻に備えて滝山城から移されたものであるが、完成間近の天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城攻めと同時に陥落した。地質は砂岩と頁岩の互層、および千枚質頁岩であり、堅固な岩盤である。
岩殿山城は、山梨県大月市の標高634メートルの岩殿山に築かれた山城である。頂上の直下の南斜面は、鏡岩と呼ばれる礫岩が垂直にも見える急角度で桂川に落ち込んでいる(図1)。鏡岩は離れてみると一枚岩の平滑な岩盤のように見えるが、近づくと小礫が堆積してできた海成層礫岩であることがわかる。礫は直径が数センチ以下の円礫であるために、コンクリート壁のように見える。
山城の地形・地質の特徴は、① 地形的には、比高が大きく周囲から屹立した地形であり、② 地質的には、古生代から中生代の堆積岩で、砂岩や頁岩、チャートなど硬い岩石から成り、流紋岩などの火成岩の急峻な斜面のこともある。全体的には、比高が大きく、硬い岩石の急斜面に囲まれ、硬い岩石は築城の石材として使われることが多い。
築城と地形・地質
山城が地形・地質の特徴を読み取って立地していたことを概観したので、つぎに、具体的な築城において地形・地質の特徴がどのように活かされたのかについて、唐沢山城を例にして述べてみたい。
唐沢山城の地質は、砂岩と粘板岩とチャートから成っている。図2はチャートの岩片であるが、平滑な層理面が明確にわかる。平滑な層理面は切り立った崖を形成しやすく(図3)、層理面に沿って削ると急傾斜のキリギシ(切岸、人工的に造成された斜面)をつくりやすい(図4)。さらに、チャートは硬い岩であり、さまざまな形と大きさの石材に切り出して石垣や石積につかうことができる。
図2 チャートの平滑な板状の層理面(上側)
図3 天狗岩の壁面をなすチャートの平滑な層理面
図4 食い違い虎口付近につくられたキリギシ
唐沢山城の絵図『唐沢城山地形廻り』(図5)のなかの中央左寄り下部にカンノクラの地名がある。崖下に浅い横穴状に掘られた形をしている。神の蔵、の意味であろう。クラは倉、蔵、峅、嵓、磐座などの字があてられる急崖のことである。谷川岳の一の倉沢や大台ケ原山の大蛇嵓などのクラは切り立った急崖のことである。カンノクラは神がつくった天然の急崖であり、神に守られた急崖である。この崖の上には土矢倉と呼ばれる矢倉があり、崖に挑んで攻める敵を退けてきたであろう(図6)。
図5 唐沢城山地形廻り(部分)「唐沢山城跡調査報告書(※2)」より転載
唐沢山城には、カンノクラだけではなく、『唐沢城山地形廻り』の天徳寺丸の下に松と共に描かれた天狗岩(図5、図7)や鏡石などの急崖があり、土矢倉が各所に築かれていた。クラが天然の急崖であるのに対して、キリギシは人工の急崖である。食い違い虎口(図4)や二の丸(図8)などにはキリギシがつくられ、本丸南面の高石垣(図9)や二の丸虎口の石垣、さらには食い違い虎口の堅牢な石積など各所にチャートが使われている。これらのことは、築城において、地形・地質の特徴が随所に活かされていたことを示すものである。
図6 カンノクラの急崖の上の土矢倉跡からの眺望
図7 層理の間に侵入した天狗岩の絵図と同様のアカマツ、
左手の層理面が急崖になる
図8 二ノ丸下のキリギシには
長い年月の後にツツジ類の
低木が生育している
図9 本丸南面の高石垣は石材の
チャートの層理面を表に
している
山城の植生
城郭に樹木なし、城郭の整備には樹木の皆伐が必要などと説くものも少なくないが、それは自然環境を理解しない者の「迷信」である(※1)。
戦国時代に山城の絵図を詳細に描くことは、敵に軍備の情報を漏らすことになるので、なかったことであろう。それは、江戸時代の多くの江戸絵図に江戸城の部分が白ヌキにされて御城と書かれていただけであったことや、明治時代以降の5万分の1の地形図で軍の施設が白ヌキになっていたことからも理解できることである。
そこで、山城が役割を終えた江戸時代になってから描かれた絵図をもとに、山城の植生について考えてみたい。
江戸時代のはじめのころに描かれた『唐沢城山地形廻り』(図5)には、尾根や急崖地にアカマツが絵で描かれている。アカマツの描画が詳しいことと、他の樹木が描かれていないことから、山城の植生の状態をよく示していると考えられる。
『本光寺唐沢山旧地之図』(図10)は、江戸時代に描かれた絵図である。松、椚、奈良などの樹木の名が文字で書かれている。この当時にはクロマツはこの地方にはなかったと考えられることから、松はアカマツである。図5の絵から考えてもアカマツであろう。アカマツは建築用材になり、土木の用材としても用途が多い。燃料としても使われ、灯明にも欠かすことができない。奈良はコナラであり、燃料や建築用材にされる。椚はクヌギであり、コナラと同様に燃料や建築用材にされ、葉は天蚕(ヤママユガ、繭からとる糸は太くて強く、織物には欠かせないものであった。)の餌として必須の有用樹であった。これらの樹種がここに生育していることは、つぎのように考えられる。
アカマツは種子(タネ)が飛来して発芽し、成長する樹種であり、幼植物の成長には多くの光が必要とされる。つまり、周囲に植生がない場所で発芽・成長したと考えられる。アカマツは自然に落下した種子から成長して森林が更新するので、このような様式を天然下種更新という。図5から、尾根上や急斜面にあったアカマツから種子が供給されて広がった可能性が高い。その際に、周囲には植生が乏しく裸地化したところが多かったと考えられる。
コナラは種子のドングリが野ネズミなどの動物に運ばれるか、自然に落下したものが発芽して成長したものであろう。クヌギは種子が自然に散布されてそこから自生するということはほとんどないことから、苗が植栽されたものと考えられる。
これらはいずれも地域の人々の生活にとって重要な樹木であり、人々が山に立ち入って管理することを前提にして成り立つ植生である。山城にコナラやクヌギなどの樹木を植えて管理することは考えにくいので、これらの樹木は唐沢山城が山城として使われていた時代のものではなく、山城を廃した後のものと考えられる。
整然と描かれたこの図は、江戸時代になって土地を合理的に利用する思想が普及して、土地に合った樹木を植栽するようになったことを示している。土壌の水分条件や日照などから考えて、尾根部にはアカマツ、斜面にはコナラとクヌギが秩序立って配されているのは、そのことを示すものである。
図10「本光寺唐沢山旧地之図」活字は原図に貼りつけたもの「唐沢山城跡調査報告書(※2)」より転載
山城のアカマツ
『唐沢城山地形廻り』にみられたように、山城の絵図にはアカマツが描かれていることが多い。山城に実際にアカマツがあったという事実は、山城が役割を終えた江戸時代以降に、そこがマツタケの産地になっていたことによって傍証される。金山城と唐沢山城のマツタケの例を示しておく。
金山城がある太田市の太田甚句には、「わたしゃ太田の 金山育ち ほかに気(木)はない 待つ(松)ばかり」というのがある。金山には松が一面に生育していた様子を知ることができるものである。江戸時代には、金山で採取したマツタケを毎年、江戸の将軍に献上していたことが「献上松茸」として知られている。マツタケは献上品として重要であった。
唐沢山城では、明治時代に皇室にマツタケを献上することが度々あった。『唐澤山神社創建誌』には、明治22年10月皇太后ニ松茸二百本ヲ献上、同日御狩取ノ松茸ハ五百本、同時皇太后ヨリ金五十円ノ下賜。明治25年10月県下ニテ陸軍大演習、天皇陛下ニ佐野宮司宇都宮行在所ニ至リ松茸百本ヲ献上、調査本年松茸発生高ニ千二百五十三本、などの記述がある。
これらのことから、江戸時代以降に、金山城や唐沢山城にはアカマツが多く生育しており、マツタケを多く産したことがわかる。それは、戦国時代の山城にもアカマツがあったであろうことを物語るものである。
山城とアカマツの関係は、「降雨とアカマツの関係」、および「山城の防御・保全とアカマツの関係」の2つの面からとらえることができる。
「降雨とアカマツの関係」をみると、アカマツは①樹冠による降雨遮断効果が大きく、特に、針葉が雨滴を霧状化して大気中に拡散させる。そのため、林内に落ちる林内雨の量は減らされ、降雨時に濡れにくい特徴を持つ。②着葉と枝の特徴から、降雨が幹を伝って流れる樹幹流がきわめて少ない。そのため、アカマツの幹のもとでは雨に濡れにくく雨宿りができる。③土壌の撥水性が大きく、乾燥土壌になりやすいことも雨天時には有利に働く。④乾燥地への適性が大きいことから、尾根や乾燥した斜面でも生育できる。これらのことから、アカマツは降雨時には防御に都合がよい植生である。
「山城の防御と保全の関係」をみると、山城は守りの城であり、アカマツは最適であると考えられる。その理由は、①アカマツは疎林であるので、攻めて来る敵が城からよく見える。しかし②高木で覆われるために、遠くから石垣や建物が見えない。③篭城の際には燃料と建築資材を得ることができる。一方、山城を風雨から護るのにも①アカマツ林の土壌は撥水性があり、降雨による土壌の表面侵食が防止され、②アカマツの根は直根で崩落し難いので、斜面の崩壊防止になり、③尾根上の強い風雨から城の建物や塀・柵を護るのにアカマツは強靭である。
これらのことから、山城にアカマツは必須の樹木であったと考えることができる。
おわりに
戦国時代の山城は、武士の一族が命運をかけた戦いの場であった。そのため、城の立地や築城に際しては、地形・地質などの自然条件を読み、それを知り尽くして利用したものと考えられる。いつの時代でも、生死をかける軍備には先端の科学技術が使われてきた、と考えられるからである。人為的に作り出すことができる植生も同様であり、アカマツに行き着いたのも経験と知識の蓄積によるものである、と考えられる。そこに、自然を読む力が重要であった時代がうかがわれるのである。
※1. 峰岸純夫(2011)「関東の名城を歩く」吉川弘文館
※2.佐野市教育委員会(2013)唐沢山城跡調査報告書