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特別寄稿

【追悼】坪井清足先生――日本の埋文行政の生みの親・育ての親

坂井 秀弥

奈良大学文学部文化財学科教授

考古学者の坪井清足(きよたり) 先生が、5月7日に亡くなられた。1921(大正10)年生まれ、94歳だった。いつかこの日を迎えねばならないと思いつつも、先生のことだから、それはまだ先のことと思っていた。埋蔵文化財保護行政(埋文行政)に長く身を置いたものとしては、親を亡くしてしまったような感覚がある。喪失感は大きい。

 

坪井先生は、奈良国立文化財研究所(現独立行政法人奈良文化財研究所、奈文研)の所長のあと、財団法人大阪府文化財調査研究センター(現公益財団法人大阪府文化財センター)の理事長、財団法人元興寺文化財研究所(現公益財団法人)の所長を歴任された。1955年以降、文化庁(前身の文化財保護委員会を含む)への2度の出向を含めて30年以上在籍された奈文研において、その基礎を築かれた。考古学・歴史学と遺跡調査に関連する、測量・探査・保存科学・年輪年代・木簡学・史跡整備・遺跡学などの新たな調査研究分野の開拓など、そのご業績は多岐にわたる。しかし、もっとも大きいのは、日本の埋文行政の生みの親、育ての親としてのものではないかと思う。

 

私は1970年代後半、関西で考古学を学んだ。当時の奈文研は考古学、埋文行政の総本山ともいうべき存在であり、周囲には坪井先生にお世話になった先輩たちがわりといた。しばしば先生が話題にのぼり、葉巻を吸う独特のしぐさにも親しむところとなった。とはいえ、一学生にとって先生は、遠い話のなかの、近づきがたい神様のような存在であった。

 

先生と直接お会いしたのは、1993年、私が文化庁記念物課に異動してからである。そのころすでに70歳を過ぎておられ、大阪府文化財調査研究センター理事長を務められていた。いつもかくしゃくとし、老いなどはみじんも感じさせなかった。恐ろしいほどの記憶力で、さまざまな遺跡や担当者の話をされた。それは国内にとどまらず、世界の古今東西に及んだ。

 

仕事の関係で先生と話ができるようになったとはいえ、「神様」と話をするのだから、それはたいそう緊張する場面であった。全国埋蔵文化財法人連絡協議会の総会では、会長の先生を前に、埋文行政の現状と課題などについて話をする機会が何度かあった。いつも突き刺すような鋭いまなざしでこちらを凝視され、話をよく聞いておられた。品定めをされているような感じで、どれだけ冷や汗をかいたであろうか。

 

こうしたなかで、坪井先生が文化財保護委員会(現文化庁)に最初に出向した1965年に、日本住宅公団(現住宅・都市整備公団)と文化財保護委員会との間で交わされた覚書の経緯をお聞きした。この覚書こそ、現在の日本の遺跡保護の仕組みとその体制を世界的なものにした原点である。これには、住宅公団のニュータウン開発に伴って必要となる遺跡の発掘調査については、遺跡が所在する都道府県教育委員会等に委託して行うことが含まれていた。それまで緊急的な発掘調査でも大学等の教員が受けていた。先生は教員の夏休みなどに限られた臨時的な体制では、広大な遺跡発掘は乗り切ることができないことを正しく見通しておられた。

 

当時の地方行政には都道府県に8名しか専門家がいなかった。それでも地方にゆだねようというのである。無謀な判断にもみえる。しかし、これを契機に先生は、『発掘調査のてびき』 の刊行、奈文研における発掘技術者研修などを矢継ぎ早に実行し、専門職員は、まずは都道府県から配置され、しだいに市町村に及び今日の体制にいたったのである。全国の専門職員はピークには7,000人を超え、現在なお約6,000人を数え、埋蔵文化財以外の文化財全般も支えている。埋文行政の生みの親、育ての親という所以である。

 

行政として遺跡の発掘調査を行うということは、学術研究の世界にあった考古学を、国民の財産である文化財の保護に必要な方法・手段に位置付けたといってよい。それを支持する時代背景や国民性もあったとは思うが、坪井先生の卓抜した見識によるところが大きい。

 

先生は奈文研に入所した1955年に、わが国最古の仏教寺院、飛鳥寺の発掘調査を担当された。一塔三金堂の伽藍配置などの画期的な成果は、年度内に2回にわけて数カ月にわたり発掘したからこそ得られたものでもあった。これほど発掘調査に専念した公務員は、先生が初めてだったであろう。

 

坪井先生は、遺跡の意義や発掘調査の成果について、国民に周知され理解されなければならないとの強い信念を持っておられた。飛鳥寺の現場で、税金を使った調査成果を納税者に伝えなくてよいのかとの思いから、今でいう現地説明会を実施したという。

 

「遺跡の保護については、史跡に指定しただけで万事終わったことにはならない。この史跡がどのようなものであったかを、一般の人々にみてわかるようにしてこそ初めて意義がある」(「埋蔵文化財の発掘と保存」『考古学ジャーナル』第1号 1966)。いまでこそ当たり前の認識であるが、ちょうど半世紀も前のことばである。それまで史跡は凍結保存が原則だった。奈文研のホームグラウンドであった平城宮跡の史跡整備、遺跡博物館構想のほかに、五色塚古墳(神戸市)を築造当時の姿に復元するなどの全国のさまざま遺跡調査と史跡整備事業を指導された。

 

展示に対するこだわりも相当なものであった。文化庁主催の「発掘された日本列島展」では、毎年展示会場で丁寧にご指導いただいた。展示は一目でわかりやすくが信条であった。「考古学をわかりやすく」は奈文研におられた佐原眞さんがひろく訴えたことであったが、元祖は坪井先生であったのだ。

 

先生の奈文研所長退任の際に、論文集『埋蔵文化財と考古学』(平凡社、1986)が出版された。27編の論文中2編は埋文行政に関係するものだが、ほかは正当な考古学の論文である。それでも先生は、著書名にはあえて「埋蔵文化財」を入れ、しかも「考古学」の前に置いたのだ。また、先生の卒寿をお祝いした記念論文集は、多くのそうそうたる各界の関係者を含む152名もが献呈したものだが、その副題は「埋文行政と研究のはざまで」とご自分でつけられたという。ここに坪井先生の強い思いがあらわれている。

 

6月25日に大阪で催されたお別れの会には、先生の薫陶を受けた全国各地の行政関係者が多数参列されていた。いずれもみな各地・各機関で遺跡保護を懸命に牽引されてきた方々である。坪井先生が果たされたご業績を象徴する顔触れであり、会でもあった。

 

日本の考古学者のなかに坪井清足という傑出した先達がおられたことは、日本の考古学・歴史学だけではなく、広く国民・社会にとってじつに幸せなことであった。その恩恵を私自身もたくさん受けた。あらためて感謝するとともに、謹んで先生のご冥福をお祈りするものである。

 

合掌

坂井秀弥
奈良大学文学部文化財学科教授
(前文化庁記念物課埋蔵文化財部門 主任文化財調査官)

公開日:2016年7月28日最終更新日:2016年7月28日

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