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Vol.26

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特集4

津和野町(島根県) 日本遺産認定による地域活性化の効果と今後の取り組み

米本 潔 / Kiyoshi Yonemoto
島根県鹿足郡津和野町商工観光課企画員
歴史まちづくり推進係長・観光係長(兼)津和野町教育委員会文化財担当

pic26_01_01津和野城跡及び旧城下町エリア全景 提供:津和野町商工観光課

日本遺産認定まで

島根県津和野町は2015(平成27)年度、第1回目の「日本遺産」に認定された。この1年テレビや新聞、雑誌などでたびたび取り上げられ、また日本遺産魅力発信推進事業などを活用しての情報発信事業などにより、地元はもちろん周辺地域へのPRを積極的に行った。とりわけ昨年10月に空き家となっていた民間の施設を改装し、全国に先駆けて「津和野町日本遺産センター」を開館したことは特筆すべきであろう。これにより地域の活性化はもとより、訪れた人に日本遺産の趣旨やストーリー、構成文化財の魅力を“直接”伝えることができるようになったことは意味深い。

pic26_01_15図1 津和野町の位置図

pic26_01_02「津和野町日本遺産センター」外観 提供:津和野町商工観光課

pic26_01_04展示室の様子 提供:津和野町商工観光課

日本遺産の認定はストーリーの内容が勝負であるが、ストーリーの作成にあたっては、ここ10年くらいの津和野町の文化財保護の取り組みがベースとなっている。すなわち、江戸時代の城下町を保存するための全区域の周知の遺跡化、2008(平成20)年度から取り組んだ「文化財の総合的把握モデル事業」、そしてそれをもとに策定した「津和野町歴史文化基本構想・保存活用計画」※1の策定などである。その後、長年の懸案であった「鷲原八幡宮」の重要文化財指定や重要伝統的建造物群保存地区の選定などに取り組み、さらには国土交通省の「歴史的風致維持向上計画」※2の認定を受けるなど、津和野の文化財保護行政の現状と課題に向き合い、国の目指す方向に沿って取り組んできた。日本遺産への申請に必要なストーリーも、単にこれまでの歴史や文化財を再構成するだけでなく、申請条件の一つである歴史文化基本構想策定の取り組みから得られた成果も十分反映されたものとなっている。

 

ストーリー「津和野今昔~百景図を歩く~」は、幕末の藩内の風景や風習などを描いた『津和野百景図』※3と、それに描かれ、かつ人々の知恵や努力で今日まで守り残されてきた場所、自然、伝統文化など53枚を構成文化財とした。構成文化財は2005(平成17)年に合併した旧日原町エリアにも広がっており、日本遺産の認定をきっかけとしてこれからの文化財を活かしたまちづくりがさらに加速していくことが期待される。

pic26_01_06『津和野百景図』(全) 提供:津和野町教育委員会

pic26_01_07『津和野百景図』一、三本松城 提供:津和野町教育委員会

pic26_01_08『津和野百景図』十七、祇園会鷺舞 提供:津和野町教育委員会

pic26_01_09『津和野百景図』二十三、殿町 提供:津和野町教育委員会

pic26_01_10『津和野百景図』三十五、鷲原八幡宮其の他 提供:津和野町教育委員会

pic26_01_11『津和野百景図』六十、野坂 提供:津和野町教育委員会

観光の歴史

さて、津和野は日本の歴史上表舞台に出ることはないが、1970(昭和45)年からはじまった国鉄の「日本を発見し、自分自身を再発見する」をテーマとした観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」や「山陰小京都」などで、古くなつかしい面影を残すまちとして、観光面において全国的に有名になった。当時の書籍※4や雑誌などを見てみると、津和野城跡や武家屋敷の面影を残す殿町通り、啓蒙思想家・西周(にしあまね)や明治の文豪・森鷗外といった著名人の生家や旧宅、日本五大稲荷と呼ばれる太皷谷稲成神社、昭和の面影を残す通りや水路で洗い物をする人々の暮らしぶりなどが紹介されている。1979(昭和54)年にはSLが復活し、修学旅行生や若者たちがまちなかを自転車で散策する姿が話題となった。

 

ところが、その後全国的に展開された大型の娯楽施設や商業施設の整備、海外旅行者の増大などにより、次第に津和野から客足は遠のいていった。平成になって森鷗外記念館や安野光雅美術館などの文化施設、道の駅などの観光施設もオープンしたものの、飲食店や土産店は経営者が高齢化し、その数も次第に減ってきた。宿泊施設も老朽化が目立ちサービスや食の面においても十分とはいえない。観光の専門家からは「津和野はもう魅力がない。終わっている」とも言われる。

 

しかし、幸いなことにまちが大きな開発から逃れ、『津和野百景図』に描かれている風景や自然、伝統や暮らしを大事に守っていこうとする人々が今もいる。

 

近年、史跡津和野城や名勝旧堀氏庭園、伝統的な建造物など手がつけられなかった文化財の修理がようやく始まった。念願であった銅山師の堀家の文書調査も始まった。さらに構成文化財活用のための組織も動き出した。10数年前に計画づくりに着手し、周囲の理解を着実に得てきた結果である。「日本遺産」の認定を受けてまちの人の意識が少しずつ変わり始めた。2013(平成25)年7月の集中豪雨による水害で観光客は一時減ったものの、すでに水害以前の数字に戻ってきている※5。これからが勝負である。

pic26_01_12旧堀氏庭園 提供:津和野町教育委員会

pic26_01_13重要伝統的建造物群保存地区 提供:津和野町教育委員会

ストーリーとその活用

ストーリー「津和野今昔~百景図を歩く~」は、『津和野百景図』とそこに描かれた構成文化財と現在とを対比させながらまち歩きを楽しむことがテーマだ。ただ対比するだけでは芸がないので、まち歩きそのものにもストーリー性を持たせる。津和野町日本遺産センターでは、コンシェルジュが「四季」「自然」「文化」「食」の四つの要素ごとに津和野の魅力を紹介するとともに、『津和野百景図』を持って楽しむまち歩きの仕方を提案する※6

 

『津和野百景図』には、津和野城や御殿、庭園、社参・墓参の様子、茶室から眺めていた青野山、蕨(蕨もちは殿様の好物であった)など、殿様にまつわる絵が数多く描かれている。日本遺産センター開館後、これらを「殿様が歩いた三本松への道」等としてまとめ、2~3時間のまち歩きルートとして案内した。ほかに「少年森林太郎(森鷗外)が藩校に通った道」や、「青野山の景を楽しむ」など、これまでにないまち歩きプランを提案し、いずれも毎回町内外からの参加者で予約はいっぱいになった。

 

『津和野百景図』の第九十五図「正月十五日の墨塗り」の行事は、津和野ではすでに失われてしまっていたが、毎年2月に行われる蔵元3社による酒蔵開きとともに今年復活した。羽根つきに使われる羽根の黒い玉は無患子(むくろじ)の実で、町の天然記念物である。羽根は藩主が鴨猟をしていた鴨場に今でも集まる鴨の羽根を使用。昔つくったことのある人を探し、指導を受けて羽根をつくった。

Print図2 『津和野百景図』を活用したまち歩きの組み合わせの例 提供:津和野町教育委員会

pic26_01_14まち歩きイベントプランのパンフレット 提供:津和野町商工観光課

Print図3 日本遺産センターの取り組み事業 提供:津和野町商工観光課

これからの取り組み

次年度からは将来を担う子供たちの育成にも力を入れる。元教員の方も津和野町日本遺産センターのコンシェルジュとして採用し、授業の一環としての活用もすでに始まっている。さらに総合学習や遠足などで活用してもらえるような仕掛けを準備中である。

 

そして春はお弁当付きの「流鏑馬馬場と津和野神社のお花見」プラン、夏の「自然の恵みと蛍狩り」プラン、秋の社寺やカトリック教会などをめぐる「信仰の道を歩く」プラン、冬の「酒蔵開きと津和野の暮らし体験」プランなど、四季を通じて構成文化財を活かしたまち歩きが計画されている。現在、ガイド付きの場合は『津和野百景図』の画集を持って案内しているが、春からは専用アプリをダウンロードしてスマートフォンを片手にまち歩きができるようになる。現地で撮影した写真はセンターのウェブと連動させ、今最も旬な場所が一目で分かる仕組みだ。

 

今後、津和野城跡の大手や御殿庭園など当時の風景が失われた場所は、文化庁事業や歴史的風致維持計画において認定を受けた国交省事業などを活用して整備を行う計画もある。

まとめ

津和野は世界遺産の厳島神社(廿日市)から車で2時間、同じく世界遺産の石見銀山のある大田市まで車で2時間半という条件的に大変恵まれた場所にある。さらに車で1時間の距離にある隣の萩市が昨年「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産になり、津和野は四つの世界遺産に囲まれることとなった。こうしたこともあってか、昨年4月~12月の津和野地区の観光客の入込数は前年比10.4%増※7、外国人宿泊者数は前年比57.4%の増となった。

 

日本遺産の認定を受けて、津和野もこの数年は注目されるであろう。しかし、人口が減少し体力が次第に失われていく中でどのように文化財を維持し、観光のまちとして生き残っていくか。今こそ文化財と観光をうまく融合させ、将来花を咲かせる種を仕込んでおかなくてはならない。10年後、「日本遺産」という冠が重荷になっていないことを切に願って。

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