Vol.27
Vol.27
琉球王国・首里王府
琉球大学 名誉教授
首里城正殿
琉球王国の誕生と中国との関係
日本列島のはるか南西に位置し、広大な海域に点在する琉球の島々が急速に政治化したのは12世紀前後のことであった。各地に台頭した按司=首長たちが興亡を繰り返した後に、沖縄島を中心に三つの勢力が覇を競うようになった。山北(北山ともいう)、中山、山南(南山ともいう)がそれである(三山と総称)。最後の勝者となったのは首里城(=首里グスク)を拠点とする中山だった。1429年、琉球の島々を版図とする統一国家、琉球王国が誕生したのである。
琉球王国の国際関係の基軸となったのは、中国(明朝)との冊封・朝貢関係であった。明の皇帝の権威により琉球国王としての地位が認証され(冊封という)、その恩義に報いるために皇帝のもとに使節を派遣し、貢物を献上して臣下の礼を尽くした(朝貢=進貢という)。この従属的な関係を前提に中国との外交や貿易が許された。
朝貢貿易の制度を利用して大量の中国産品を入手できた琉球王国は、日本や朝鮮、東南アジア諸国(現在のタイ、マレーシア、インドネシア、ベトナムなど)にも貿易船を送り、活発な中継貿易を展開した。国営事業として営まれた海外貿易の司令塔が首里城であり、そこには「舟楫をもって万国の津梁となす(船を操り、世界の架け橋の役割を果たす)」と刻まれた梵鐘が掲げられていた。
統一王国初期の権力は尚思紹を初代とする王朝(第一尚氏王朝)が握っていたが、1469年にクーデターが起こり、尚円を初代とする新しい王朝(第二尚氏王朝)が君臨するようになった。新王朝3代目の王となった尚真(在位1477~1526年)のころには、奄美諸島から八重山諸島に及ぶ島々を統治する体制が強化された。例えば、各島々に間切と呼ばれる行政単位が設定され、間切行政を担当する地方役人は首里城の王によって任命された。また、首里城に置かれていた中央政庁としての首里王府(琉球王府ともいう)の機能が強化され、王国の統治基盤がほぼ安定した。
薩摩による侵略と日本への従属
だが、東アジア世界はやがて大きな変動期を迎える。戦国の争乱を平定し、日本に強力な国家体制(幕藩体制)が出現した。一方、中国の明朝は弱体化が著しく、1644年には満州族が支配する清朝の時代に転換した。この変動の過程において、1609年春、徳川家康の許可を得た薩摩の島津家久は3,000の軍勢を琉球王国に派兵した。琉球側も数千人規模の軍で応戦したが、戦力差は著しく、敗北を余儀なくされた。国王尚寧以下の面々は鹿児島に連行され、その後に駿府(静岡)で徳川家康に、江戸城で2代将軍秀忠に謁見した。そして、薩摩の支配に従うことを誓約して、やっと帰国を許された(島津侵入事件)。
敗戦の結果として、与論島より北の奄美諸島は琉球王国の範囲から切り離され、薩摩の直轄領となった。また、多額の貢租を薩摩に支払うなどの経済負担を背負うことになった。しかし、王国体制はそのまま存続し、奄美を除く島々は従来通り首里城の王が統治することを許された。中国との冊封・朝貢関係に加えて、薩摩・幕府との間に新たな従属関係が結ばれたのである。
厳しい時代が到来したことを受けて、王国の再興を目指す2人の指導者が登場する。羽地朝秀(1617~1675年)は、王国の伝統的な秩序や意識を徹底的に改革し、新時代に即応できる体制づくりに尽力した。その事業を引き継いだ蔡温(1682~1761年)は、行政全般をきめ細かく整備し、王国統治の執行能力を向上させた。この2人が特に意を注いだのは、王国統治の要である首里王府の強化であった。国王を頂点とする政治・行政の制度を整備したうえで、地方や離島に及ぶ統治論理の徹底化を図った。例えば、宮古と八重山に置かれていた行政機関・蔵元は地元の役人たちにより運営されてきたが、そのお目付け役として新たに首里王府から2年任期の在番が派遣されるようになった。つまり、王国を安定的に経営できる主体づくりを推進したのである。
中国および日本という大国に従属する存在とはいえ、琉球の島々を統治する主体はわれわれであり、小国ながらも、独自の存在であり続けることがわれわれの使命である、という理念をふまえた一連の施策であったといえよう。当時の中国と日本は公式な外交関係を築いていなかったために、それぞれの従属国である琉球王国をいわばクッションボードにして、向き合うかたちになっていた。琉球の側から見ると、大国のどちらにも飲み込まれない間隙が存在したのであり、その立場を巧みに活かしていたことになる。
琉球王国は再び活気を取り戻した。その象徴的な表現が音楽や舞踊などの芸能であり、さらには漆芸や染織などの工芸であった。特に芸能は、中国皇帝の使節団(冊封使)を歓待するために首里城で上演されたばかりでなく、将軍に拝謁する目的で派遣された琉球使節が江戸城においても上演した。琉球という独自の王国であることを、文化の面でアピールしてみせたのである。
19世紀に入ると、琉球にも欧米船が盛んに来航するようになった。1816年に来航したイギリス海軍の艦隊は琉球を調査し、その成果を出版して琉球事情を欧米世界に伝えた。1853年にはペリー提督率いるアメリカの大艦隊が来航した。ペリーは那覇に多くの要員と船を残したまま、自らは主力艦を率いて浦賀に行き徳川幕府との開国交渉に臨んだ。交渉が妥結しなかったために、那覇に引き返し、残置した要員や船と共に香港に向かった。翌年早々、ペリー艦隊は再び那覇に来航し、前回同様に要員と船の一部を残して再度、幕府との交渉に出向いた。日米和親条約(神奈川条約)を締結した後、那覇に戻り、琉球側と琉米修好条約を結んで帰国した。つまり、ペリー提督は対徳川幕府交渉の拠点として琉球を利用したのであった。
琉球王国の消滅と沖縄県の設置
明治維新により日本に近代国家が成立すると、そのインパクトはたちまち琉球王国に及んできた。明治新政府としては、中国と日本に従属する王国体制を廃止し、中国との関係を完全に切断したうえで、王国の土地・人民を日本に編入することを目指した。これに対し、旧来通りの王国体制の維持を願望した琉球側は日本編入に反対した。また、琉球との冊封・朝貢関係を盾に、中国側も琉球編入に強く反対した。
1879(明治12)年春、新政府は軍隊と警察を日本から動員し、首里城の明け渡しを迫った。なすすべのない琉球側が首里城を明け渡したため、琉球王国は消滅し、「沖縄県」が設置された。首里王府に代わり、沖縄県庁体制が統治の任を担うようになる(琉球処分)。
置県当初、多くの旧臣たちが中国に密航し、中国の力を借りて琉球王国の復活を目指す運動が展開された。しかし、日清戦争が日本の勝利に終わると、琉球処分反対派の動きは沈静化し、日本の中の沖縄県を受け入れる意識がしだいに広がるようになった。