本誌特集

HOME /  本誌特集 Vol.28「ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」」  / 特集3 「京都祇園祭の山鉾行事」のユネスコ無形文化遺産の登録とその後

Vol.28

Vol.28

特集3

「京都祇園祭の山鉾行事」のユネスコ無形文化遺産の登録とその後

福持 昌之 / Masayuki Fukumochi
京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 文化財保護技師

pic28_03_01京都祇園祭の山鉾行事(2009年7月17日) 出典:ユネスコ

熱狂の背景

2016年11月30日(日本時間12月1日)のユネスコ(国連教育科学文化機関)第11回政府間委員会(エチオピア・アディスアベバ)で、「山・鉾・屋台行事」が無形文化遺産代表リスト(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)へ記載されることが決定した。これは、すでに記載されていた「京都祇園祭の山鉾行事」「日立風流物」を含む、重要無形民俗文化財の「山・鉾・屋台行事」33件を構成要素としてグループ化したものである。

 

代表リスト上では日本の無形文化遺産の数は1件減じたが、国内では31件の重要無形民俗文化財が、新たにユネスコ無形文化遺産に登録されたことになった。

 

グループ化による再提案は「和紙:日本の手漉和紙技術」に続き2回目であるが、「和紙」は「石州半紙」に「本美濃紙」「細川紙」を加えた3件に過ぎず、登録とは関係がない和紙の産地の反応は薄かった。しかし、今回の「山・鉾・屋台行事」は、北は青森県から南は熊本県まで18府県に及ぶ33件もの構成要素を含んでおり、ユネスコ無形文化遺産登録の祝賀ムードは全国的なものになった(「山・鉾・屋台行事」一覧表参照:http://www.isan-no-sekai.jp/column/vol28_list)。

 

「京都祇園祭の山鉾行事」が2009年9月に代表リストへ登録された際、京都市は10月31日に京都会館で記念シンポジウムを開催し、2011年10月には京都駅前ヨドバシビルに京都市無形文化遺産展示室を設置し、復興途中の大船鉾の実物の展示を始めた。京都府でも、京都文化博物館で「受け継いでゆく祇園祭」展(2009年11月23日~2010年1月11日)を開催し、その後リニューアルを経て2011年7月から「京のまつり」コーナーを設置し、祇園祭の至宝を山・鉾ごとに紹介する取り組みを継続している。

pic28_03_02ユネスコ無形文化遺産登録記念事業「京都祇園祭の山鉾行事」シンポジウムの様子1(2009年10月31日、京都会館にて) 撮影:著者

pic28_03_03ユネスコ無形文化遺産登録記念事業「京都祇園祭の山鉾行事」シンポジウムの様子2(2009年10月31日、京都会館にて) 撮影:著者

しかし、「京都祇園祭の山鉾行事」の当事者たちは意外にも冷静な反応を示していた。公益財団法人祇園祭山鉾連合会(以下、連合会)の深見茂理事長(当時)は、「庶民が継承する民俗行事は基盤が非常に弱く、政治的、社会的変動で容易につぶれてしまう。無形文化遺産の登録で祭りの国際的ステータスを高めることが大切」(2009年10月1日付『京都新聞』)、「さらに多くの人の関心を呼ぶことができ、継承していく点でありがたい。市民による自治の精神は守り、庶民の祭りであり続けたい」(同日付『読売新聞』)とコメントしたが、その真意は、代表リストへの登録は、自分たちの祭りが時代を超えて継承されていくための保険の一つにすぎないという認識を示した。また、連合会を構成する保存会(山鉾町)のなかには「登録されることで山鉾行事の趣向を凝らした鉾や山の風流ふりゅうが制限されるのではないか」という不安の声もあった(同日付『京都新聞』)。

 

このような反応の背景は、2009年の段階では代表リストへ登録されることの影響力が、未知数だったことが考えられる。全国的にもユネスコ無形文化遺産の知名度が低く、まだ多くの人たちにとって実感が乏しかった。

第1回目の代表リストの記載

無形文化遺産条約は、2003年10月の第23回ユネスコ総会において採択され、2006年4月の発効と同時に、代表リストに「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」で宣言された90件が統合された。この段階で「能楽」(第1回宣言2001年)、「人形浄瑠璃文楽」(第2回宣言2003年)、「歌舞伎」(第3回宣言2005年)の3件が記載された。しかし、この時はまだ記載のためのルール等は定まっていなかった。

 

その後、ユネスコでは締約国会議や政府間委員会を重ね、運用指針が協議されていくが、日本国内でも国内候補の選定の方針について協議がされていた。文化審議会特別委員会(2007年12月13日)では、代表リストについては国指定の重要無形文化財、重要無形民俗文化財、選定保存技術の三つの分野から選考すること、危機リストの対象とする案件は国内にはないため見送ることを決定している。

 

そして2008年7月、「京都祇園祭の山鉾行事」のほか、重要無形文化財の「雅楽」「小千谷縮・越後上布」「石州半紙」、重要無形民俗文化財の「早池峰神楽」「秋保の田植踊」「大日堂舞楽」「日立風流物」「チャッキラコ」「題目立」「奥能登のあえのこと」「甑島のトシドン」「アイヌ古式舞踊」、選定保存技術の「木造彫刻修理」の14件がユネスコに推薦された。なお、「木造彫刻修理」は、事前審査で不記載の勧告を受けて取り下げられた。

 

そして、2009年9月にアラブ首長国連邦のアブダビで開かれた第4回政府間委員会は、無形文化遺産条約発効後の1回目の記載のための会議であり、日本からは上記の13件が代表リストに追加記載された。

 

京都市では2008年度に、文化庁がユネスコに提出する「京都祇園祭の山鉾行事」の資料を作成するため2900万円の補正予算を組んでいる。京都市が、1回目の記載のために万全の態勢で臨むことができたのは、1994年に世界遺産「古都京都の文化財」の登録を経験していたことが大きい。

グループ化と再提案へ

ところが、2010年11月の第6回政府間委員会(インドネシア・バリ)で審議された、重要無形文化財「本美濃紙」、重要無形民俗文化財「秩父祭の屋台行事と神楽」「高山祭の屋台行事」「男鹿のナマハゲ」が、すでに類似の案件が登録されているとされ、追加情報が必要(情報照会)と決定された。その結果、「石州半紙」に、重要無形文化財の和紙3件を加えて拡張提案した「和紙:日本の手漉和紙技術」が、2014年11月の第9回政府間委員会(ユネスコ本部・パリ)で審議され、登録が決定した。

 

ユネスコ無形文化遺産の知名度が飛躍的に高まり、自分たちが当事者になるという実感と期待が大きくなったのは、2013年の「和食;日本人の伝統的な食文化」が契機であろう。国指定の3分野の文化財から選考するという方針とは違った要因で提案された「和食」は、保持団体が定められず、広く国民が保持者ということになったが、一般家庭の反応は薄く、飲食店の業界が色めき立った。2016年の「山・鉾・屋台行事」は、該当する祭の関係者を数えると、その数は膨大で、かつ全国に分布していることから、まさに熱狂の素地が整っていたといえる。

文化財としての祇園祭の山鉾行事

代表リスト記載後の「京都祇園祭の山鉾行事」には、2014年の後祭復興と大船鉾の巡行復帰という大きな転換点があるが、その前に、祇園祭の行事と山鉾について確認しておきたい※1

 

かつて祇園御霊会といわれた祇園祭は八坂神社の祭礼で、7月1日から31日までの1カ月間、さまざまな行事が行われる。その中心は、四条寺町の御旅所に3基の神輿が巡幸する7月17日の神幸祭と、本社に還る24日の還幸祭である。御旅所とは、祭神が神社を離れ一時的に遷座する場所で、『百練抄』の1159年11月26日条に「祇園旅所焼亡」とあるのが初見とされる。一説には、神幸祭の形式は祇園御霊会や稲荷祭礼に始まるともされ※2、祇園祭が神幸祭の形式であることは重要な要素である。

pic28_03_04四条寺町の御旅所に鎮座する3基の神輿(2012年7月24日) 撮影:著者

鉾は、神霊の依代でもあり、邪を祓う祭具あるいは神宝として神幸行列に欠かせない存在であった。この鉾が、中世にさまざまな展開を遂げる。一つは上京の御霊神社で発達し、周辺地区に広まっていった「剣鉾」である※3。その特徴は竿が長く、鉾先は三鍬形みつくわがたの兜の前立の剣の意匠、そして龍や菊などの透かし彫りの錺金具や神名を刻んだ神額などをあしらい、五鈷鈴などの鳴り物と吹散と呼ばれる長い幡を吊るものである※4。それから「祭鉾さいのほこ」、「幸鉾さいのほこ」と呼ばれる鉾がある。それは、鉾先が宝珠や火炎、もしくは三叉鉾の形などの大型の鉾で、枠造りにしていたり、さらに車をつけて曳いたりするものである。そして、下京の祇園祭で発達したものが、鞨鼓稚児かっこちごを乗せた曲舞車くせまいぐるまと鉾を合体させた巨大な曳車形式の鉾である。

pic28_03_05西院春日神社の剣鉾(2011年10月9日) 撮影:著者

pic28_03_06祇園祭の御神宝奉持列の幸鉾御車(2012年7月24日) 撮影:著者

これらのうち、祇園祭の山鉾と剣鉾は、神輿巡幸に先立って鉾が巡行することで、巡幸路の悪疫を鉾に集め浄めるという思想が共通している※5。また、神社の差配する行列ではなく、鉾町とか鉾仲間といった地域の共同体によって維持継承されている点に共通の特徴がある※6。すなわち、神社による神道祭祀ではなく民俗行事であるところが、「京都祇園祭の山鉾行事」の重要無形民俗文化財としての指定範囲ということになる。

 

祇園祭では、鉾は山と並び称され、同様の役割を果たしているが、厳密には鉾先がある鉾、鉾ではなく木を立てる山(曳山、舁山)、造り物を演出する屋台、そして傘鉾の5つの形態に分かれており、日本の「山・鉾・屋台行事」の全ての類型がそろっていることも「京都祇園祭の山鉾行事」の特徴の一つである。

 

山鉾町が主体となる行事も、八坂神社の行事と並行して、7月1日頃の吉符入りから始まり、山鉾建て、曳き初め、宵山、巡行、そして解体まで続く。ただし、1966年から後祭の山鉾は、前祭の山鉾と同じ日程で行事を行い、巡行も前祭の山鉾の後ろに続いて巡行する(合同巡行)ようになった※7

 

巡行はしていないものの、宵山期間中に巡行していた頃のご神体などを飾って、居祭を行っているものを「休み山」という。連合会では、大船鉾、鷹山、布袋山については、巡行復帰に際しては一員として迎えるという立場をとっている。

 

戦後、山鉾行事は、松原通や三条通から御池通へ、寺町通から河原町通へと、広い街路を通行するようルート変更が行われた。続いて、モータリゼーションが進むなかで、交通規制による渋滞の回数の減少、山鉾町の主要産業である呉服の商戦に後祭の地域が乗り遅れることへの対応、山鉾を一斉に披露することによる観光面への効果、などを目的に合同巡行が画策された。合同巡行について、八坂神社は強く不快感を表していたが、結局のところ実施され、後祭には花傘巡行が創出されて彩を添えた※8

後祭の復興

後祭復興の取り組みが始まったのは2010年8月、連合会の理事長に就任した吉田孝次郎氏の発言からだった。吉田氏は今の祇園祭について「単なる大群衆の固まりで、露店の賑わいにすぎない。本来の美しさが埋没しかけている」とし、祇園祭のあるべき姿を伝えることがわれわれの「責務」とした。この「祇園祭を本来の姿に戻す」という目的に、門川大作市長も翌年1月の定例記者会見で支援を表明した。連合会では5月に後祭巡行検討部会を開き、具体的な検討が始められた。

pic28_03_07露店でにぎわう前祭宵山(山伏山)の様子(2014年7月15日) 撮影:映像×文化×まなぶ・あそぶ研究会

後祭復興には、さまざまな効果も期待されていた。一つは、明石や福知山の花火大会における事故を教訓に、宵山に殺到する膨大な観光客の安全面での配慮が課題となっていたところに、観客を分散させる機会としても期待され始めた点である。その結果、露天商の出店許可を扱う警察の意向もあり、後祭の宵山期間には、露天商の出店を許可しないこととなった。

pic28_03_08後祭宵山に露店がないことを知らせる看板(2016年7月22日) 撮影:映像×文化×まなぶ・あそぶ研究会

そしてより根本的な要因として、大船鉾の巡行復帰があった。もともと合同巡行の問題点として、巡行終了まで時間がかかりすぎるという点が指摘されていた。猛暑のなか最後まで見学することは困難で、有料観覧席は昼時になると空席が目立つようになっていた。さらに大船鉾が加わると巡行時間が延びることは明らかだった。また、大船鉾がくじとらずの鉾で、後祭の最後尾を巡行することに起因する問題もあった。合同巡行では、鉾と曳山は新町通を南下してそれぞれの山鉾町へ帰るが、新町通は狭くてすれ違えない。そのため、遠い町から順に新町通に進入する必要があり、御池通で順番待ちが行われている。最後尾の大船鉾は、遠いほうの町なので、先行する3基の山鉾が長時間待たされ、御池通が混乱することが予想された。その問題を解消するには、合同巡行の解消が最も現実的であった。

pic28_03_09落ち着いた風情の後祭宵山(八幡山)の様子(2014年7月22日) 撮影:映像×文化×まなぶ・あそぶ研究会

大船鉾の巡行復帰

一方、四条町による大船鉾の巡行復帰への取り組みは、1997年の囃子復活にさかのぼる。囃子を宵山で披露するなどの活動を通じて復興の機運が盛り上がり、2008年には「大船鉾祭事振興協議会」が発足している。2010年には一般財団法人四条町大船鉾保存会(以下、大船鉾保存会)が登記され、間を置かずして公益財団法人の認可を受けている※9

 

この頃、すでに京都市では先述の京都市無形文化遺産展示室の開設準備に入っており、連合会と大船鉾保存会と協議した結果、復興途中の鉾を展示するという方向が決まった。

 

意外に思われるかもしれないが、大船鉾の復興は大船鉾保存会ではなく、連合会が主導する形をとって進められた。連合会は復原検討委員会を開催し、絵画資料を含めた歴史資料を調査検討し、かつての姿を復原する作業に取り組んだ。これには、2011・2012年度の2カ年、文化庁の「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」の採択を受け、文化庁とも連携を取りながら慎重に進めた。というのも、大船鉾が巡行復帰するということは、重要無形民俗文化財の構成要素が増えることを意味し、大船鉾保存会よりむしろ保存団体である連合会の問題となるからである。

pic28_03_10第2回大船鉾復原検討委員会(2011年9月28日) 撮影:著者

連合会が研究調査した結果として示された往時の大船鉾の復原図は、大船鉾保存会にとって基本設計図であり、それをもとに大船鉾保存会が実施設計を行って建設に取り組んだ。建設費は、大船鉾保存会の自己資金と、大船鉾保存会に寄せられた京都青年会議所、京都ライオンズクラブおよび一般からの寄附金が充てられた。

pic28_03_11調査研究の成果品の一つである大船鉾の復原想定図 画:中川未子(よろずでざいん)

登録後の祇園祭の変化

観光都市・京都を代表する祇園祭であっても、その運営基盤は決して盤石ではない。オフィス街である四条烏丸に近い都心部では、すでに夜間人口がゼロの山鉾町もある。町の出身者が縁故を頼って人を集める疑似的地縁組織である保存会、マンション住民と旧住民との折り合いを工夫している保存会、粽などの授与品の売り上げが小さく経営基盤の弱い保存会など、さまざまな悩みを抱えつつも、維持継承に向けて工夫を重ねて伝統を紡いでいる※10

 

後祭の10基を出す保存会(山鉾町)は、49年ぶりに復活する後祭の宵山に観客が集まるのか不安を感じつつも、今後の祭の継続を賭けて大英断を下した。大船鉾の復活も、未来永劫続けていくという覚悟をもって取り組まれたことである。これらのことは、後継者不足や合理化が進む風潮のなかで、祭日が変更されたり、規模が縮小されたりする傾向に対する、京都からのアンチテーゼであり、決意表明である。

 

そして現在、休み山の鷹山が、数年にわたる勉強会を下敷きに、地域住民の結束を固めつつ賛同者を集め、すでに公益財団法人鷹山保存会が発足している。連合会は、その動きをうけ、近世期の鷹山の復原想定図面を作成するための調査事業を始めている。

pic28_03_12八坂神社を背にして四条通を西行する後祭の山鉾巡行(2014年7月24日) 撮影:映像×文化×まなぶ・あそぶ研究会

PAGE TOP