本誌特集

Vol.28

Vol.28

特集5

川越氷川祭の山車行事

川越市教育委員会 教育総務部文化財保護課

pic28_05_01市役所前山車揃い 撮影:川越市文化財保護課

2016年の祭りの様子

川越市は、埼玉県南西部、武蔵野台地の北端に位置し、都心から40km以内に位置している。市の面積は109.13㎢、人口は351,718人(2016年12月1日現在)である。

 

川越市最大の祭りである川越まつり。2016年は、10月15日(土)・16日(日)に開催された。2日とも天候に恵まれたこともあり、985,000人の入込観光客数を記録した。山車は川越まつりに参加する29台のうち23台が出され、にぎやかな祭りとなった。

 

祭りの本格的な準備は前週末に始まり、山車の組み立て、山車小屋の設置、そして前日までに、会所の設営、道路に面した家の軒に紅白幕を張る軒端揃いを済ませておく。

 

祭り当日のおおまかな流れであるが、2日間とも10時から22時まで交通規制となり、この時間内に山車を運行することができる。

 

初日15日の午前中は、町内にお披露目をする「町内曳き」をする町が多い。大人は祭り衣装、女の子は手古舞衣装に着替えて山車前に集合し、神職に山車のお祓いをしてもらう。そして、鳶の木遣りに始まり、囃子がそれに合わせて打ち込みをし、10時に出発する。

 

川越氷川神社(以下氷川神社)の神幸祭は、15日の13時頃に神社を出御し、氏子町内10台の山車が供奉した。市役所前で市長の出迎えを受けた後、神輿は神社に還御した。

 

市役所前では、14時頃から10台の山車が一同に揃う「山車揃い」が行われ、多くの観光客が集まった。18時から19時にかけて、メイン道路に山車を据え置く「宵山」が行われた後、川越まつりの見どころである夜の曳っかわせが行われた。

pic28_05_02神幸祭の行列 撮影:川越市文化財保護課

pic28_05_03夜の曳っかわせ 撮影:川越市文化財保護課

2日目の16日は、午前中それぞれの町の計画により山車を運行した。市役所前では、12台の山車による山車巡行が13時過ぎから始まり、観光客が集中した。21時頃、曳っかわせは最高潮を迎えるが、交通規制が解除になる22時までに急いで町に帰着。山車を山車小屋に収納して納めの囃子と木遣、そして三本締めで行事は終了した。

川越氷川祭の歴史

現在一般に「川越まつり」として知られている「川越氷川祭の山車行事」は、氷川神社の秋の例大祭である。氷川神社は、欽明天皇の時代に創建されたと伝わる古社であるが、1457(長禄元)年に扇谷上杉持朝の命により太田資清・資長(道灌)親子が川越城を築城すると、神社が川越城の乾(北西)の方向にあるため、川越城主の崇敬を受ける神社となった。

 

その後江戸時代となり、川越城は江戸に最も近い城であるため、譜代の有力大名が川越藩主となった。そのうち松平信綱は、1638(寛永15)年の川越大火後に藩主となると、城下町の整備を行い、町人地を「十ヶ町四門前」とし、城下町の鎮守を氷川神社に定めた。そして信綱は、1648(慶安元)年に神輿・獅子頭等を神社に奉納し、これを受けて、1651(慶安4)年に神輿が町を渡御したと記録される。

 

当初の祭礼様式は不明であるが、1698(元禄11)年に初めて踊り屋台が出、この頃から都市祭礼としての体裁を整えていったものと考えられている。

 

幸いなことに、川越氷川祭には、江戸時代の祭礼行列が描かれている絵巻が2本残されている。1718(享保3)年の祭礼を描いたと考えられるニューヨークパブリックライブラリー蔵「氷川祭礼絵巻」と、1826(文政9)年の祭礼を写した氷川神社蔵「川越氷川祭礼絵巻」である。

 

絵巻には、当時の山車や舞踊や歌舞伎が上演された屋台、大型の曳き物、仮装行列などが描かれており、天下祭と呼ばれた赤坂山王祭と神田祭で流行した要素を、いち早く取り入れていることが分かっている。

 

一方、2本の絵巻を比較すると、約100年の開きがあるにも関わらず、ほとんど変化していない点もある。祭礼行列の構成は、神輿行列を先頭に、十ヶ町が続くという構成であることと、各町の先頭は必ず山車であることである。

 

江戸時代の川越氷川祭は藩主の命令で始まって以来、藩の保護と規制を受け実施されたが、明治維新後は、神社と川越商人が中心となって祭りを盛り立てていった。1888(明治21)年には、初めて十ヶ町以外の町から山車が参加し、祭りの範囲が拡大し始めた。祭りの内容は、大型の曳き物や練り物などの附祭が徐々に衰退し、山車中心の行事に変化した。

 

明治時代末から大正時代、繊維産業の衰退などから川越の経済力が低下する中、祭りに山車を出すことが難しくなっていく。昭和初期、川越氷川祭は川越の商業振興の手段ともなるようになり、例えば1935(昭和10)年の東京日日新聞では「氷川神社例祭・全市大売出し」の記事がある。

 

戦後、沈みがちな世相を祭りで盛り上げようと、1946(昭和21)年に新憲法公布記念として、山車が出されている。1948(昭和23)年、川越市は川越商工会議所と共同で川越氷川祭と同日に川越商工祭を開催したが、この商工祭が1949(昭和24)年から川越まつりとなり、年中行事として位置づけられるようになった。戦後の川越氷川祭は、商工祭・観光祭・市民祭として変化しようとする力と、神社例祭として、信仰と伝統を守っていこうとする力がせめぎあう展開となっていった。

 

1968(昭和43)年に、「全市的な祭りに発展させることを目的」に、「川越まつり協賛会」が発足し、事務局を市役所内(現在は観光課)に置くことになった。一方、同年、「川越氷川祭山車10基、付絵馬1面・絵巻1巻」が、埼玉県指定有形民俗文化財に指定されている。

 

1982(昭和57)年、市制施行60周年に合わせ、川越まつり協賛会では、祭日を10月第3土曜日・日曜日に変更しようとしたが、神社と氏子町内の反対により、従来通りの10月14・15日で行うことを確認したという出来事も起こった。

 

その後、1997(平成9)年には、氷川神社の例祭日は10月14・15日であるが、山車行事は、10月第3土曜日・日曜日に開催されるようになった。2002(平成14)年、川越まつりに参加する山車が、氷川神社の氏子町が13町に対し、氏子以外の町が14町と数で上回るようになった頃、川越氷川祭の文化財的な価値を調査する川越氷川祭調査委員会が調査を始め、その後、2005(平成17)年に「川越氷川祭の山車行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定された。

川越氷川祭の課題と対策

【1.後継者の確保】

 

新住民の祭り参加は、現在各町とも積極的に受け入れており、新たな住民同士の絆作りという点で、大きな成果をあげている。

 

しかし、人口が減少している町もあり、特に旧十ヶ町の町では少子化が著しい。山車の曳き手は、昼は子供たち、夜は若者たちが中心であるが、ある町では、町民数294人中、児童数が6人という状況にある。町では、町内在勤の人の他、囃子連関係など地縁・血縁を広げて、町外の参加者を歓迎している。しかし、祭りのしきたりを理解してもらうことや、数万円かかる祭り衣装の出費負担などが問題となっている。

 

また、山車を曳く鳶職や囃子連にも後継者問題は存在する。鳶職は、江戸時代からの伝統を引き続く川越鳶組合があり、木遣りや纏、梯子乗り等の芸能を伝承する母体ともなっている。最近は川越在住の鳶頭が廃業するなどの問題があるが、市外在住の鳶職についても、川越鳶組合に加入していれば、山車の端元を預かれるようにするなど、柔軟に対応している。

 

大太鼓、小太鼓、笛、鉦及び舞手からなる祭囃子については、小学校低学年から囃子を教え始めるなど、後継者養成に熱心な囃子連が多い。途中、小学校高学年から高校まで練習を中断する傾向があるが、将来戻ってくることを期待している。

 

【2.技術の伝承】

 

山車は本来、祭りが終わると解体し、主要部は木箱に収めて保管する習慣であった。しかし、人口減少や組み立て・解体費用の捻出、解体時に部品が欠ける等の理由で、解体しないまま保管する山車が多くなっている。ところが、組み立てたまま保管すると細部の点検が不十分となり、運行中に不具合が生じたり、組み立て・解体の方法が分からなくなったりという状況が出てきた。長期的な修理計画や技術伝承の観点から、山車の組み立て・解体を勧めていきたいと考えている。

 

また、山車の大規模修理や車輪の交換などの工事を、関東圏外の工務店に依頼することが続いている。材料確保の問題や、実績のある業者選定などからやむを得ないこともあるが、地元固有の技術伝承が難しくなっている。修理・工事の機会がなければ、技術の向上も望めない。今後、地元での修理実績を増やし、山車の構造等の知識や修理技術の向上を図っていく方法を模索したい。

 

【3.観光客の増加と安全確保】

 

川越まつりの観光客は、1959(昭和34)年が50,000人、1979(昭和54)年が500,000人、1999(平成11)年が600,000人、2009(平成21)年が750,000人と増加の傾向にあり、観光行政の立場からは歓迎すべきことである。しかし、城下町特有の丁字路など人が集中する場所では、将棋倒しの事故が発生する危険を感じる。現在、警察官に加えて警備員、市職員を投入して安全確保に努めている。特に人が集中する一番街では、露天商の屋台を道から駐車場に移して屋台村を作り、人の流れを遮らない工夫をしている。また、観光客を一番街から誘導するため、川越街道に山車を曳いていくなどの巡行経路の拡大に努める町内が現れている。

 

【4.川越まつりと川越氷川祭の連携】

 

前述のように、川越まつりは、川越氷川祭を起源とし、戦後の商工祭・観光祭を経て、現在は市民祭という位置付けである。主催は川越まつり協賛会で、山車を持つ27町が組織する山車保有町内協議会と、川越商工会議所や川越市自治会連合会等も運営に加わり、併催行事も含めた大規模なものとなっている。

 

一方、2005(平成17)年に国の重要無形民俗文化財に指定されたのに伴い、保護団体として「川越氷川祭の山車行事保存会」(以下保存会)が組織された。構成は、氷川神社の氏子町地域の山車を保有する13町が中心である。保存会設立後の会議では、江戸時代に描かれた2本の祭礼絵巻を理想とし、神社の神輿の後に氏子町内が続くという神幸祭の運行について協議されてきた。

 

2日間の全体スケジュールや各団体との交渉等、川越まつり全体については川越まつり協賛会が調整し、神幸祭に関することは保存会で調整するという棲み分けである。

 

重要無形民俗文化財指定から10年を経て、川越まつりを伝統的行事として考える傾向が強くなってきている。この度のユネスコ無形文化遺産登録は、さらに拍車をかけるものとなるだろう。

 

川越まつり協賛会と保存会という二重構造は大変分かりにくいが、この祭りをさらに発展させつつ保守的な部分を守っていくために、連絡を密にし、手を携え協力し合っていく必要がある。

 

将来に向けて

2016(平成28)年12月1日(日本時間)に、全国33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとして、ユネスコ無形文化遺産に登録されたことは、川越市民にとって大きな喜びであった。登録後、『広報川越』では特別号を発行、市内の主要駅には各鉄道事業者が横断幕を掲げ、12月17日には、市役所前駐車場で山車4台が参加する記念式典が行われた。くすだま開きの後、川越鳶組合による祝い木遣りと4台の山車による囃子の競演を、約600人の観客が見守った。その後、山車は蔵造りの町並みに移動し、約18,000人の観光客に披露することができた。

 

2017年はさらに、外国人観光客誘致やシティーセールスへの利用など、これを契機として市を挙げて事業を展開していく予定である。

 

一方、祭り関係者の多くは、ユネスコ無形文化遺産に登録されたことで、伝統文化を守ることへの責任がますます重くなったと感じている。

 

今後は、それぞれの立場から意見を出し、次代に何を引き継ぐのか、川越氷川祭の守るべき伝統とは何か、続けるためには何をすればよいかを議論していく必要があるだろう。

 

pic28_05_04『広報川越 特別号』表紙 提供:川越市広報室

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