本誌特集

HOME /  本誌特集 Vol.28「ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」」  / 特集7 「八代(やつしろ)妙見祭の神幸行事」の笠鉾(かさぼこ)

Vol.28

Vol.28

特集7

八代やつしろ妙見祭の神幸行事」の笠鉾かさぼこ

早瀬 輝美 / Terumi Hayase
八代市立博物館未来の森ミュージアム 学芸員

pic28_07_01勢揃いした9基の笠鉾 撮影:著者

八代妙見祭(以下妙見祭)は、11月22日と23日に神輿を中心とした神幸が行われる八代神社(旧妙見宮)の大祭で、熊本県内では唯一、祭礼として国指定重要無形民俗文化財となっている。

 

八代市は、九州中央に位置する熊本県第二の都市で、古くから陸海共に交通の要所であり、中国より(朝鮮半島説もあり)の妙見渡来伝説がある地域でもある。

 

八代神社(旧妙見宮)は、八代郡の総鎮守として人々の崇敬を集めるとともに、歴代領主による社領の寄進や社殿その他建造物の再建や改修等が度々行われてきた。祭礼についても同様である。特に、加藤家改易後八代城に入部した細川三斎による社殿の修復や神輿・神輿屋及び祭礼の用品や社家の装束の寄進等の復興事業は、現在につながる妙見祭の転換期となっている。三斎没後は、八代城を預かることとなった家老の松井氏によって祭礼の継承が行われていく。妙見祭の大きな特徴は、長崎くんちの影響を受けた中国風の獅子、作り馬に子供が入って行列する木馬きんま、江戸で習い覚えた奴振り、旧城下の町々から出される9基の笠鉾かさぼこ、妙見渡来伝説に由来するなど多彩な出し物であるが、それらは松井氏の時代になって出されるようになったものである。

 

本稿は、八代妙見祭の笠鉾の変遷や構造、装飾について紹介をするものである。従って本稿における笠鉾とは、八代妙見祭の笠鉾のことを指す。

笠鉾の始まりと移り変わり

笠鉾は、宮之町の笠鉾菊慈童、本町の笠鉾本蝶蕪ほんちょうかぶ、二之町の笠鉾蘇鉄、新町の笠鉾西王母、紺屋町の笠鉾猩々、中島町の笠鉾蜜柑、徳淵町の笠鉾恵比須、平河原町の笠鉾松、塩屋町の笠鉾迦陵頻伽の9基あり、いずれも城下の町から出された。

 

松井家文書には、宝永年中(1704年~1710年)神輿に供奉していた松井家家臣・松井牛右衛門が出した一人持ちの「華蓋」とともに出ていた宮之町の笠鉾の初期の様子が記されている1

それによると、

大ふりに致傘を緋縮緬にて張、上ニ唐団扇、中ニ宮町之文字を居、下ニへうたん有之、
ツヒキあけまきを以飾、壱人持也

とあり、町印の要素を持った傘状の出し物であったことがうかがわれる(図1)。

その後、

元文三年相改、宮ノ町も九ケ町同前ニ二重之蓋四人持ニ成、菊士童之作り物ニ成

とある。

宮之町には、元文三年(1738年)銘のある部材箱が残っており、そこには「柱八本/下かやおひ」と記されている。この柱とは、骨組みを形成する「立棒」と呼ばれる部材のことと思われ、箱の大きさが縦33.2cm、横108.3cm、高さ33.5cmであることも考えると、8角形のある程度の大きさの出し物へと姿を変えたことが分かる。そして町印の要素が消えたことも大きな変化である。

pic28_07_02図1 笠鉾菊慈童初期の姿(八代市立博物館作成)

宮之町以外の8町は、天和・貞享(1681年~1687年)頃よりだんだん出すようになり、最初は粗末であったものが20年ほどの間に華美になったとある。1706(宝永3)年には、笠鉾を組み立てるにあたって大振りであるため、町筋に出て行いたいとあり、この頃には組み立て式の大型の笠鉾になっていたことが分かる。

 

宮之町は、妙見宮の門前に居住していた町民たちが城の移転に伴い移り住んだ町で、松井家文書には他町とは区別して書かれていることを考え合わせると、笠鉾の奉納は他町よりは先行していたと考えられるが、大型化するのは遅かったことが分かる。

 

長崎くんちの場合、踊町が回ってくるのは7年に一度だが、八代の場合は毎年同じ町が出す。現在でも町印であり続ける長崎の傘鉾と、ある時点で町印の要素を失った笠鉾の違いは、そこにあるのではないかと思う。しかし、ただ一基町印にこだわり続けた笠鉾がある。それは本町の笠鉾本蝶蕪で、町を蝶に代えて「本」と「蝶」で本町を表す(写真1)。古い部材には滑車が付いており、本と蝶だけ上にあげる仕掛けであったことが分かる。城下の中心町であるという誇りを強く持っていたのであろう。

pic28_07_03写真1 笠鉾本蝶蕪 撮影:八代市教育委員会

笠鉾の構造と装飾

各笠鉾は、250~300の部材で構成され、妙見祭の前後に組み立て・解体が行われる。傷みの激しい部材は、平成の大修理の際に新調されるなどしたが、一部は江戸時代の部材を現在でも使用している。基本的な構成は、最上部の飾り、二層の赤い屋根、刺繍を施した水引幕で、建造物のように見えるが笠鉾を支える柱は1本のみである(写真2)。伊達板や水引幕などは、上笠と一体化した骨組みに何らかの形で連結しており、傘がそのまま大型化し豪華になったのが笠鉾であることが分かる。笠鉾を貫く1本柱故に「山・鉾・屋台」の中の「鉾」に分類される。

pic28_07_04写真2 笠鉾の心臓部である芯柱と骨組み部分(八代市立博物館での展示の様子) 撮影:著者

笠鉾の装飾も、時代と共に少しずつ変化していることが、絵巻や銘文のある部材から分かる。各町の笠鉾の通称ともなっている最上部の飾りの一覧は表1の通りである。菊慈童や西王母、猩々、松(老松)、迦陵頻伽は謡曲由来の題材である。町印にこだわった本蝶蕪にも謡曲「胡蝶」を意識したと思われる梅花伊達板があり、笠鉾の装飾に謡曲趣向があったことが分かる。また、蜜柑は幕府への献上品であった八代特産の高田蜜柑であるが、盆栽仕立ての蘇鉄や蜜柑の中に中国風の異国趣味がうかがえるとの指摘もある2

 

表1 笠鉾の飾りの変遷(八代市立博物館制作)

pic28_07_05

大型化し豪華になった笠鉾は、作り替えが難しくなっていくが、数十年おきに上層部や下層部などある程度まとまった部材を改造・新調することによって目新しさを持続させてきた。笠鉾菊慈童は、1854(嘉永7)年に大幅な改修を行っているが、骨組みである立棒を改造して上層部に奥行きを持たせて装飾を新たに加え、下層部の伊達板を新調している。また、笠鉾本蝶蕪は、青貝細工製の伊達板を1810(文化7)年に新調している。これは、長崎で製作されたと思われ、現在製作年の分かる青貝細工の製品の中では国内最古であり、逆にいうと当時の最新のものを笠鉾に取り入れたことになる。1936(昭和11)年には、手の込んだ綴織の幕を新調している3

 

一人持ちから楼閣型の出し物へ。形状の大きな変貌と、一つとして同じ装飾のない9基の笠鉾は、長年にわたり城下町の町人たちが笠鉾を風流化してきた証でもある。これらを現在まで受け継いでくることができたのは、各町で保管してきたことが大きい。現在は各町の収蔵庫に収納されているが、古くは町民が各家で分散して保管していたという。日頃から笠鉾が身近にあるという環境が、笠鉾継承への誇りと責任を育んできたのではないかと、笠鉾のある町で生まれ育った者として思うのである。現在は、人口の郊外への流出により、10軒に満たない家で維持しなければならない町もある。しかしながら、祭りになると旧住民など多くの人が集まり、笠鉾を組み立て、祭りに参加する。町内会の多くが江戸時代の町割のまま運営されているのには、笠鉾が現在でもコミュニティーの核として存在していることが大きい。

出し物復活と文化財調査

1987(昭和62)年から、松井家のお抱え絵師による松井文庫4蔵の「妙見宮祭礼絵巻」(1846〈弘化3〉年、全長約40m)を元に、奉納が途絶えていた出し物を復活させる事業が始まり、まず木馬が製作された。1990(平成2)年には八代市市制施行50周年として籠が、ふるさと創生事業の中で鉄砲・毛槍が復活した。

 

ふるさと創生事業の一環として行われた笠鉾等基本調査(1992〈平成4〉年~1994〈平成6〉年)、その成果を元に行われた各笠鉾の部材の修復(1994〈平成6〉年~1999〈平成11〉年)により、笠鉾の文化財的価値が明らかとなり、2003(平成15)年には、9基の笠鉾と細川三斎寄進の神輿が熊本県指定重要民俗文化財となった。

 

2007(平成19)年度から2009(平成21)年度にかけて、八代神社祭礼伝承状況調査が行われた。その中で、調査員であった福原敏男氏により、新たな祭礼絵巻が確認された。それは、松井家のお抱え絵師・甲斐良郷によるもので、前述の松井文庫絵巻は、弟子の青井郷秀による写しであることが判明した。この絵巻は、八代神社の呼びかけにより集まった氏子や市民の寄附によって八代に買い戻され、2日間のお披露目の際には1,000人を超える市民の見学があった(写真3)。これまで妙見祭に対しては、参加する一部の市民以外の関心はあまり高いとはいえなかったが、絵巻の募金活動の中で関心が高まり、国指定、そしてユネスコ無形文化遺産登録の過程で妙見祭の知名度も上がり、今では多くの市民が関心を寄せている。

pic28_07_06写真3 里帰りした妙見宮祭礼絵巻お披露目の様子 提供:八代市

妙見祭については、『妙見祭民俗調査報告書』(八代市立博物館未来の森ミュージアム、1996)、『妙見祭笠鉾-八代神社祭礼神幸行列笠鉾等基本調査報告書』(八代市教育委員会、1996)、『妙見祭笠鉾の修復』(八代市教育委員会、2002)、『八代妙見祭』(八代市教育委員会、2010)といった報告書も刊行されている。

今後の動き

先の熊本地震、そして頻繁に起こる余震に怯えた日々から半年以上が経過した。多くの人々の助けによって少しずつ復興していく中で「復興祈願」の名の下、さまざまな地域の祭りが開催されるようになった。賛否両論あろうが、終戦の年の10月に長崎でくんちが行われたことを思うと、祭りの持つ力に期待せずにはいられない。八代市でも、妙見祭の時期に合わせて「全国山・鉾・屋台保存連合会」の総会が行われ、ユネスコ登録への期待も相まって、例年にも増して賑った妙見祭であった。

 

また、今回登録された33件の内、「博多祇園祭山笠行事」「戸畑祇園大山笠行事」「日田祇園の曳山行事」「唐津くんちの曳山行事」と「八代妙見祭の神幸行事」の5件の九州の祭礼を一緒にPRし、盛り上げていこうという動きもある。

 

多くの地域でユネスコ無形文化遺産登録を契機として、祭礼が地域の活性化の起爆剤となることが期待されているだろうが、私たちは、文化財としての価値を失うことなく後生に伝えていく義務と責任も担ったのだということを忘れてはならないだろう。

 

祭礼は、無形であるが故にどうにでも変わる危うさを常に持っている。妙見祭においても、昭和20年代から昭和30年代にかけて笠鉾の担ぎ手が確保できなくなり、タイヤを付けて曳いていくことにした。もし担ぎにこだわっていたら、笠鉾は過去のものとなっていたであろうが、続けることを選んだからこそ今がある。これから先もこのような決断をしなければならない時が来るだろう。その時は、目先の利益や便利さに惑わされて本来の価値を失うことがないようにしなくてはならない。人々が魅力を感じるのは、それ自体が唯一無二の「本物」であるからなのだということを、胸に深く刻んでおかなければならないだろう。

PAGE TOP