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Vol.30

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特集

井伊家の居城・彦根城の歴史と新たな観光事業の取り組み


彦根市

pic30_06main国宝彦根城天守、附櫓及び多聞櫓

はじめに

彦根城は、彦根市の北部、標高約136mの金亀山を中心に築かれた平山城である。金亀山はチャートを主体とする岩石で構成され、独立丘陵となっている。江戸時代以前の自然環境としては、直線的に改修される前の芹川が北側に流れ、松原内湖を形成し、その周辺も低湿地が広がっていた。金亀山はこの低湿地に浮かぶ島のような景観であったと考えられる。また、東方には佐和山城があった佐和山がそびえ、その東麓には東山道が通り、湖上交通も含めて交通の要所となっていた。

 

井伊家は、江戸時代を通じて彦根藩主として近江国東部を中心とした一帯を治めた大名である。江戸初期と幕末を除いて領地は30万石をかぞえ、譜代大名筆頭の家格を誇った。また、戦時の際、井伊家の部隊は当主から家臣にいたるまで甲冑や旗指物など武器類を朱色で統一したことから、「井伊の赤備え」と称された。この部隊が成立したのは、天正10(1582)年のことである。この年、甲斐の武田氏が滅亡し、武田を討った織田信長も本能寺の変で討たれると、徳川家康が武田旧領を手中に収めた。その際、家康は井伊直政に武田旧臣の多くを附属させ、直政を侍大将に取り立てた。その数は74名と伝えられる。あわせて、武田の兵法を取り入れた「井伊の軍法」が武田旧臣らによってまとめられた。このように、「井伊の赤備え」部隊は、家康の命令によって創り出された精鋭部隊であり、徳川最強の軍団としてめざましい活躍を見せ、家康の天下統一を支えたのである。

彦根城の築城

関ヶ原合戦後の論功行賞により佐和山城を与えられたのは、彦根の初代藩主となる井伊直政であった。このため、彦根における井伊家の最初の城は佐和山城ということになる。慶長6(1601)年正月、直政は上野国高崎城(群馬県高崎市)より佐和山に入るが、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年死去した。後事を託された家老・木俣守勝もりかつ は、城の移築計画を徳川家康に諮る。そして、佐和山・彦根山・磯山(米原市)の3山を候補に、彦根山への移築が決定した。

 

慶長9(1604)年7月1日、佐和山城の西方約2kmの彦根山において、新たな築城工事が始まった。彦根城の築城には、およそ20年を要した。前期工事では、本丸や鐘の丸などの城郭主要部が築かれた。幕府から6人の奉行が派遣され、近隣諸国の大名に助役が命ぜられるなど、天下普請の様相を呈していた。豊臣恩顧の大名が多い西国へのおさえの拠点と意識され、完成が急がれたのである。そのため、普請に必要な材木や石材を周辺の城や寺から集め、天守については大津城天守を移築したと伝えられている。

 

慶長9(1604)年の末には早くも鐘の丸が完成した。直政の嫡子・直継なおつぐは、さっそく佐和山城から鐘の丸の御広間に移っている。そして3年後の慶長12(1607)年頃、本丸に天守が完成し天守前に新たに御広間が建立されると、直継は鐘の丸から天守前の御広間に移って、ここを居館とした。御広間は、後期工事で山裾の広大な地に表御殿(彦根城博物館として復元)が建立されるまで、その機能を維持した。そして、慶長19(1614)年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣によって彦根城の築城は一時中断し、大坂の陣後は、直孝によって彦根藩単独で工事が再開され、城下町にいたる城郭の全容がほぼ完成した。

御殿と庭園について

(1)表御殿

表御殿は、元和2(1616)年に開始された元和期の普請によって新たに建造されたもので、彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館きょかんでもあった建物である。城郭の構成がほぼ整った元和8(1622)年頃までには完成していたものと思われる。

 

表御殿は、大きく「表向き」と「奥向き」に分けられる。表向きは、玄関棟、御広間おんひろま棟、御書院ごしょいん棟、笹之間ささのま棟、表御座之間おもてござのま棟、台所棟など大きく6棟のまとまりに区分され、これらはさらに数室の部屋から構成されていた。奥向きのほぼ2倍の面積を有しており、公的行事や藩政実務が行われた空間であった。

 

一方、奥向きは藩主の私的な生活空間として設けられていた。基本的に、江戸城本丸御殿における大奥のような3つの機能をもった空間、つまり藩主の居間の機能をもつ「御殿向ごてんむき」、奥向きでの役務を管理する役人や御殿女中の詰所と奥向き台所のある「御広敷おんひろしき」、御殿女中の居間・寝所にあたる「長局ながつぼね」などに分かれていた。一歩奥向きに入ると、そこは藩主のくつろぎの空間であり、表向きとは往来が厳しく制限されていた。

 

(2)玄宮楽々園

玄宮楽々園は、江戸時代前期に彦根城二の丸に造営された下屋敷の御殿である楽々園とその隣に造営された庭園である玄宮園の総称である。江戸時代中期以前の大名庭園の典型を表すものであると評価され、昭和26(1951)年6月9日に国の名勝として指定された。指定面積としては、28,723㎡を測る。

pic30_08_01玄宮園(名勝玄宮楽々園)から天守を望む

楽々園は御殿部分の明治時代からの別名であるが、江戸時代には「槻御殿」、「槻御門御殿」等の呼び名で呼ばれていた。『井伊年譜』によれば、井伊家4代の直興によって延宝5(1677)年から同7(1679)年の間に造営されたと記述されている。庭園である玄宮園については詳細な記述はないが、庭園の様式や発掘調査の結果から、江戸時代前期までには出来上がっていたようである。

 

庭園の構成については、玄宮園部分で約18,000㎡の広さを持ち、中央には広大な池泉である「魚躍沼」が掘られている。この池には四つの中島が設けられ、回遊のための橋が架かっている。また、この回遊性を確保するために、現在確認できる以上の園路が設けられていた。

 

江戸時代の玄宮園を知るための資料として複数の絵図が残っているが、そのなかで代表的なものが「玄宮園三分一間割画図」と「玄宮園図」である。前者は、土木図面となっており、各部の寸法が記入されている平面図である。後者は、西斜め上の西の丸から見下ろしたような鳥瞰図となっており、植栽等の名称が記入されているもので、全体を立体的に把握するために作られたもののようである。この絵図を見ると、現在、南東に隣接する駐車場部分が梅林や栽溜(補植用の植物を育てる場所)として描かれており、かつては玄宮園の範囲であったことが分かる。

 

(3)松原下屋敷(お浜御殿)

松原下屋敷(お浜御殿)は、11代井伊直中により文化7(1810)年に琵琶湖岸に造営された下屋敷である。江戸時代の史料には「松原御下屋敷」という文字で見ることができる。この下屋敷は、外堀の外側の豊かな自然環境の中で、藩主が政務を離れてくつろぐことができる空間であった。

pic30_08_02名勝旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園

この庭園は、大名庭園の様式を良く示しており、中央に設けられた池泉を中心に要所に架けられた橋を渡って、庭園内を散策できるように造られており、回遊性に富んだものとなっていた。その回遊の中で休憩ができるように園内西側の築山上には四阿が建てられていたことが天保15(1844)年の「松原下屋敷庭園絵図」(彦根城博物館所蔵)から分かる。

 

庭園全体の構成としては、今は無い書院の北方前面に庭園が広がるように造られており、手前を洲浜とし、北方対岸は築山が低くおさえられて穏やかな景観、東側には連続して築山が築かれた深淵な景観となっている。これは、園外の景観を考慮したもので、北方対岸は琵琶湖岸が広がる開放的な空間を活かし、東側は佐和山山塊や遠く鈴鹿の山並みと同調するような空間とすることで、園外の美しい眺望を庭園に取り入れた設計をしているようである。

 

また、この庭園の最大の特徴は、池泉が琵琶湖及びかつて東側に存在した松原内湖と水路を介してつながっていたという点である。このことで、池泉を満たす水は琵琶湖及び松原内湖で生じる水位の差によって給排水されることとなる。このように周囲の水面と連動して汀線が変化することを汐入と呼ぶ。 明治4(1871)年の廃藩置県後、井伊家は東京に本宅を構えるが、この下屋敷は千松館と呼称を変え、彦根における井伊家の居宅はこの屋敷が用いられた。

 

井伊家当主は、彦根で行事が開催される際にはこの千松館に帰館し、明治22(1889)年には玄関棟や大広間棟が増設されるなど手が加えられ、昭和22(1947)年には井伊家が東京から彦根に移住し、本宅となった。現在は、春と秋に1週間程度の特別公開をしている。

城下町の成立

彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られた町である。直継の時から工事が開始され、次の直孝の時に大規模に整備され、元和8(1622)年頃にはおおむね完成した。計画当初、城下には多くの渕や沼のある湿潤な土地が広がっていた。そのため、現在の安清町あたりから北上して松原内湖に注いでいた芹川(善利川)を、約2kmにわたって付け替えて琵琶湖に直流させ、一帯の排水を良くした。また、現在の尾末町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えられている。こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となったのである。

 

完成した彦根の城下町は、三重の堀によって区画されていた。内堀の内側の第1郭は、天守を中心として各櫓に囲まれた丘陵部分と藩庁である表御殿(現在の彦根城博物館)などからなる。

 

内堀と中掘に囲まれた第2郭は、藩主の下屋敷である槻御殿(現在の玄宮園・楽々園)と家老など千石以上の重臣の邸宅が広がっており、内曲輪と称された。

 

中掘と外堀の間の第3郭は、「内町うちまち」と呼ばれた区域で、武家屋敷と町人の屋敷が存在した。武士・町人あわせて居住していたが、居住地は明確に区分されており、堀に面した要所は武家屋敷と寺院で占められ、町人の居住区の大半はその内側に広がっていた。広い敷地を有する寺院は、一朝事ある時は軍事的役割も担っており、武家屋敷とともに外堀の防衛線を形成していたのである。一方、町人の居住区では、油屋町・魚屋町・桶屋町・職人町など職業による分化配置が見られる。築城当初、特定の職能集団が集住させられた結果であろう。

 

外堀の外側は、第3郭の「内町」に対して「外町とまち」と呼ばれ、町人の住居と足軽の組屋敷があった。また、重臣の広大な下屋敷が置かれたのもこの地域である。

pic30_08_03重要伝統的建造物群保存地区(河原町芹町地区)

大老としての井伊家

井伊家は、江戸時代を通じて4人の大老を輩出している。その中でも特に有名な人物が13代直弼だろう。直弼は、江戸幕府の大老として米国との間で修好通商条約を結んだ人物として広く知られている。直弼は、11代直中の隠居後にその14男として生まれたため、当初は世継ぎではなかった。17歳からは、自ら「埋木舎うもれぎのや」と名づけた尾末町北の御屋敷に住み、禅・茶の湯・国学などの素養を身に着けた。

 

特に茶の湯では、石州せきしゅう流の一派を創設、藩主となってからも修行を継続し、『茶湯一会集』などの書物を著している。直弼の茶の湯は、茶の湯にのぞむ個人の精神を重視したもので、それを象徴する言葉が「一期一会」である。たとえ同じ顔ぶれで何度茶会を開いたとしても、今日の茶会は決して繰り返すことのない会だと思えば、それはわが一生に一度の会であり、真剣な気持ちで、なおざりにすることなく、茶をいただく心構えが必要だという心得を示している。

 

大老を4名出した井伊家は徳川家からの信頼も厚く、初代直政から最後の当主・直憲なおのりまで14代にわたり、一度の国替えもなく彦根を治め、時には江戸幕府の大老を勤めて徳川将軍の治世を支え、また、彦根に発展をもたらした。

彦根市の観光事業における課題と今後の方向性

彦根における観光事業は、明治以降、彦根城や玄宮園などを名勝地として始まっており、昭和19(1944)年に彦根城及び一帯が彦根市へ寄付され市の管理となった後、戦後には彦根城を中心としてさまざまな観光事業が推進されてきた。

 

築城380年、彦根市制50周年であった昭和62(1987)年には、「‘87世界古城博覧会」が開催され、多くのパビリオンや催し物が企画されるとともに、彦根城博物館が開館したことなどにより、期間中65日間で約84万3千人の来場者があった。

 

平成19(2007)年に250日間にわたって開催された「国宝・彦根城築城400年祭」では、約76万5千人の来場者があり、この年の観光客数は243万人、観光消費額は174億円、波及効果は338億円、雇用効果は2,872人と、地域経済を大きく牽引した。また、400年祭のキャラクターとして誕生した「ひこにゃん」は全国規模の人気を博し、現在は彦根市のキャラクターとして、彦根城内の1日3回の出演をはじめ、市内外のイベント等にも多く出演し、彦根市のPRに貢献している。

 

平成28(2016)年3月に策定した「彦根市観光振興計画」では、本市の観光における主な課題として、①彦根城を含む歴史・文化財・食・自然を活かした「城下町・彦根」の認知度・訴求力の向上、②滞在時間延長のためのコンテンツづくり、③外国人観光客の受入体制整備、④道路渋滞や不足する観光駐車場への交通対策施策の推進などが挙げられている。

 

こうした課題を踏まえ、本計画では観光振興に関する基本施策を設定し、短期的および中長期的な取り組みを進めている。具体的には、①AR技術を活用した史跡散策アプリ「彦根ほんもの歴史なぞとき」の制作(平成29年8月リリース)、②宿泊や滞在時間延長の促進を図るための彦根城のライトアップや夜間のイベント等の開催、③無料Wi-Fi環境の利便整備やWEBサイト、パンフレットなどの多言語化、④彦根城や周辺地域の渋滞緩和を目的とした「パーク&バスライド社会実験」の実施(平成29年10月~11月)などに取り組んでいる。

 

また、平成29(2017)年11月1日現在、彦根市では平成29(2017)年3月18日から12月10日の268日間、「国宝・彦根城築城410年祭」を開催しており、「国宝・彦根城築城400年祭」以降に蓄積した経験やノウハウ等を活用し、新たな事業展開を行っているところである。

pic30_08_04彦根城のライトアップ風景

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