Vol.32
Vol.32
城郭石垣の修理の原則
佐賀大学 全学教育機構 教授
石垣の解体修理が進む唐津城跡————国・県史跡ではないが、専門委員会を組織して文化財調査を併行しつつ、時代相に即した修復を続けている例
城跡整備における石垣修理の位置づけ
冒頭から、一見すると主題に反するかのような規定を提示しておきたい。
“城跡の整備(修理・復元・安定化)事業において、石垣を絶対的主役にしてはならない。”
言わずもがな、城郭とはさまざまな人為的構造物の巨大な集合体であり、木造建築物(建物全般)、通路(石敷、砂利敷、硬化面)、水利施設(給排水路、井戸、水溜)、庭園(池、築山、露地など)、これらを内包する平坦空間としての曲輪と、これを守る土塁・堀(濠)、そして曲輪の構成素材としての「石垣」からなる。石垣の構築技術は塁面形成に用いられるだけでなく、建築物の基壇(天守台や櫓台を含む)、苑池の護岸、水路の側壁や屋敷区画などにも応用される。
つまり、城を構成する多様な要素の一つとして石垣が存在するわけで、単体では機能・帰結しない構造物であることを忘れてはならない。特徴的なグランドプランの中で配列された建築物や庭や水路、場合によっては、城が立地する地形的特性(斜面・急崖、湖沼・河川・海面)や元の植生などの自然要素までを含めたトータルバランスを保ちながら、整備の計画・実行がなされねばならないのが「城(城館)」跡なのである。
古墳や寺社、集落跡など一般的な遺跡と比較した場合、城跡という文化遺産の最も大きな性格的相違は何か。それは城館の歴史的役割を考えれば明確で、わが国の中近世における政治・軍事・経済・司法・外交・文化など(防災や福祉、信仰に及ぶ例もある)、社会体制全般の主導権を発揮する中核施設として機能した空間遺跡という特殊性に他ならない。
城郭跡とは総合的かつ複合的な歴史的事物の群体なのであって、当然これを整備するには広範な専門分野からの分析と議論を前提とし、滅失した旧態(城が城として機能していた時代の真正性)の、できるだけ綿密な復元的検証に基づいた計画立案がなされねばならない。
その原則に従えば、石垣の整備の実際においては劣化・変形以前の健全な外観を推定するだけでなく、天守や櫓など往時の建築物を乗せた状態での想定(平面的一致や耐久性の問題を含めて)、隣接する建築群との排水体系からの位置、周囲の「縄張」との整合性(過去の改造による時代差の有無)、城内外からの景観意匠の効果などといった、本来のあるべき性格と機能を念頭に入れた分析が必要になってくる。「どのような形であるか」だけではなく、「どこで築かれているか」、「どうして築かれたのか」を自問しながら接するべき遺構が、城跡にとっての石垣という存在であることを強調しておきたい。
整備対象石垣の年代的根拠の重要性
1958(昭和33)年に実施された姫路城大天守台解体修理の際、天守台穴藏の背後から羽柴秀吉が築いた天正期石垣が発見された。この修復事例は、城郭石垣のスタイルに明確な時代差があることの考古学的観点からの証明に繋がった点と、この頃は櫓や門など現存建造物の「台座」といった付属品的認識が根強かった石垣に対して、修復時に文化財としての独自調査が必要であることを明示した点において一定の意義を持つ。
その具体的改善こそ暫時進まなかったものの、文化庁の主導で1988(昭和63)年から稼働した中近世城郭緊急保存整備事業をきっかけに、石垣を「歴史の証人」と位置付けた上で、事前・平行の発掘調査を伴う解体修理の実例が増えていった。大坂、肥前名護屋(写真1)、盛岡、甲府、小田原などの各城はその先駆であり、安土、姫路、二本松、仙台、金沢などへとその基本姿勢は継承され敷衍し、現在では石垣の時代相を考慮に入れた修理・復元方針の検討と、そのための事前調査や解体時の記録化が常識となっている。
写真1 名護屋城跡(佐賀県唐津市)本丸南面・馬場
ところで、正規に文化財としての扱いを受けて調査・整備対象となったこれらの石垣だが、織豊政権に積極的に登用された、近江の石工集団を起源とする技術系譜上の作品が大半を占めている。『山科家礼記』長享2(1489)年正月29日条にある「季秀奉書写」の中に、近江穴太に在住(「あなうのもの」)する「穴太」(=石工の総称)の活動の記載があることから(写真2)、その存在が室町期にまで遡及することが実証できるが、この「穴太」衆による作品こそが後の近世城郭の石垣型式の主軸を形成していったのである。一般的に「穴太積み」と称される石垣とは、穴太地方の伝統的技法に基づく配石・築成上の特徴を備えた構造物と定義付けられ、地域的特徴の一つとしてカテゴライズされると言ってもよいだろう。
写真2 『山科家礼記』(宮内庁書陵部図書寮文庫)長享2年正月29日条 提供:宮内庁書陵部
これが豊臣・徳川政権の全国制覇に従って、その築城の世界の中で成熟を遂げていくわけだが、その進化過程について北垣聰一郎氏が型式編年の概念を最初に与えて以来、日本城郭自体の転換期に当たる永禄年間頃から江戸末期に至る間の各時代ごとの特徴が、これまでの研究によっておおよそ把握できている。
総体としては、使用石材の加工精度の向上、石材寸法の規格化、これらの進化に伴う隅角部の「算木積み」の発展、そして17世紀第2四半期の完成期を経たのちに地方(藩)単位での個性化の時代を迎え、やがて伝統的様式の形骸化と装飾志向に傾いた幕末の石垣型式へと移行していく、といった流れで説明できるだろう。
それゆえに、修理対象とする石垣がどの段階の時代的特徴を備えたものなのか、復元上はどの時代相を想定するべきなのか、詳細な見極めと検討を要するのである。なぜこの点を強調する必要があるかというと、「城」という構造物にまつわる堅牢かつ頑丈なイメージに束縛されてか、築城段階(創築期)の石垣がそのままの状態で残存しているとの無批判的な理解が、各自治体の文化財保護部局であっても未だに根強いからである。さまざまな自然災害や経年劣化に対処すべく、藩政期を通じて修復・改造が繰り返されていた実態を踏まえ、始築段階のオリジナルの形状が保たれている城郭石垣は稀少なのだという認識に立たねばならない。
いわゆる「一国一城令」による城普請の規制の結果として、全国の城が凍結的に維持されたものと誤解している向きも多い。幕府の城郭統制の根幹は事前申請制度による管理の徹底に置かれていて、修理の必要案件については旧状復旧を条件に原則として許可していた。例えば、津軽の弘前城では毎年大量の雪解け水の影響もあってか、藩政期間で20件以上の修理記録が確認できる。つまり単純計算すると、12、3年に1度の割合で城の改修行為に対する幕府からの許認可を受けていたわけで、藩政史料の散逸分を勘案すれば、それ以上に頻繁な石垣補修工事があったと判断せざるを得ない。
これら修理回数に応じて石垣の形態は改変されているわけで、その把握を怠ったまま整備計画が策定され、復元石垣のディテールが決められるような事態の危うさは言うまでもない。現在、本丸石垣の解体修理が進む弘前城では、この留意点を踏まえた慎重な議論が続けられている。
中世石垣の取り扱い方
2015(平成27)年に文化庁記念物課が発刊した『石垣修理のてびき』(同成社)により、わが国の文化財石垣の保全方法の基本が定められた。われわれはこれにより、理念とプロセスに関して現場で応用できるマニュアルを共有することになったが、その組み立てに当たっては前掲の近世城郭石垣の解体事例から得られた経験と知識が基盤となっている。
従って、近江穴太の技術の全国的拡散が進む以前から存在していた、中世城館の石垣に適用する場合には別の補完的基準が必要になるはずだが、実のところ追加措置は容易ではない。なぜなら、織豊期以前から近江以外の各地方に根付いていた技術者による石垣の研究・分析が、未だ十分ではないからである。整備実績としては一乗谷朝倉氏遺跡(福井県)、八王子城(東京都)、吉川元春館(広島県)、新田金山城(群馬県)などがあるのだが、全体件数の中では少数派である。
伝統的石垣構築技術者の唯一の全国的連絡組織である文化財石垣保存技術協議会の現会長・松本勝蔣氏から、城ではなく棚田の石垣復元の難しさを筆者は聞かされたことがある。「天下人」秀吉の肥前名護屋城の石垣整備を手掛けた一級の石工棟梁である氏が、佐賀県内の歴史的景観である棚田の補修に携わった時、その石垣の規則性の無さと「技法」の希薄さに手を焼いたという。曰く、「石の動きが自由勝手すぎる」と。
これは中世の石積み技術の本質を解読する上でも重要な表現であって、法量(寸法)や加工度の統一性を欠いた石材のみを使用し、田畑であるため裏栗層が極端に薄いか皆無(作物の育成と貯水の目的から裏栗石は適さない)、勾配角度を取る意識も希薄といった棚田石垣の構造的特徴は、確かに中世城郭のそれと酷似する(写真3)。無作為にして不定形の技術であるために、修理に当たっての方向性を定めにくく、中世の城石垣の整備でありながら石工サイドが無意識のうちに近世的要素を盛り込んでしまうミスを多々見かける。隅角部が算木積み「モドキ」になったり、粗割石の平滑な面が集中したり、角稜線が異様に明瞭になって規格的な台形状のシルエットになったり等々、外観的にも後出する特徴を同居させてしまうケースに陥らないように、技術者と工事管理者と文化財担当者とが三位一体となって、設計・施工時の点検に専念することが大切である。
整備の先駆的事例の中でも吉川元春館(広島県北広島町)では、「石つき之もの共(石築の者共)」と史料上に登場する安芸地方の石工集団の介在をしっかりと意識して、近江系の「布目崩し積み」にならぬよう、扁平な大型石材を横位に用いることで築石部の横目地が発達する残存石垣の特徴を把握し、周囲に分布する領主居館の石垣等からも共通性を見定めて復元施工してのけた(写真4)。新高山城(小早川氏・同県三原市)、備前富山城(宇喜多氏・岡山県岡山市)、周防稜雲寺(大内氏・山口県山口市、写真5)等の中国地方の中世石垣に共通する、時代と地域のオリジナリティーを忠実に再現した整備事例の一つと言えるだろう。
写真3 棚田の石垣(佐賀県唐津市 浜野浦棚田)
写真4 吉川元春館跡(広島県北広島町)正面石垣
写真5 凌雲寺跡(山口県山口市)山門跡一帯の石垣
この整備の成功の前提条件として、精密な調査の実施があることは論を待たない。近年、長野県松本市域に分布する小笠原氏関連遺跡を構成する石垣(写真6)の調査・分析が盛んであり、さらに栃木県佐野市でも唐沢山城を中心とする佐野氏関連の諸城に独特の築成技術による中世石垣(写真7)が多数分布していることが判明した。これら各地の調査実例の増加と合わせて、土木工学の分野からメカニズムに言及する成果があがってくれば、中世の石垣修復に特化した基本方針・技法も確立する日がくるだろう。
写真6 山家城跡(長野県松本市)主郭石垣
写真7 要害山城跡(栃木県佐野市)主郭南斜面上の石垣
文化財石垣の本来的価値と特性に向き合う
2015年開催の「全国城跡等石垣整備調査研究会」事務局(弘前市)の集約によると、全国の53城館で石垣保全のための何らかの修理工事が過去に実施されており、21世紀に入って石垣保全対策は近世城郭跡における保存整備事業の主軸となっていると言える。その施工に当たっては、文化庁『石垣修理のてびき』でも規定しているように、「歴史の証拠」と「安定した構造体」という二つの異なる石垣の本質が堅持されなければならないのだが、その両立には諸種の困難がある。
解体修理とは石垣にとっての外科手術であり、最終手段として選択すべき保全方法である。施工に伴い旧態の部分的な記録保存措置(変状・劣化部分の除去=破壊)という場面も起こり得るため(例えば裏土の掘削調整、栗石の交換など)、安定性の向上の代価として歴史的価値の減退が危惧されるリスクを負ってしまうのだが、さらに難しい問題が内在する。
天正期の石垣構築技術が寛永期の次元よりも未成熟なのは、技術の段階的進化の過程からすれば当然のことで、その未熟さ・古拙さ・脆弱さこそが時代的特徴そのものとも言える。構造物としての安定化のための追加措置が、時代相を反映する古法とは併存し得ない新時代のものであるなら、歴史性の維持という大原則から外れる結果となる。仮に、隅脇石を数個の非規格石材で代用する天正期特有の技術的に未完成な隅角部だからといって、これを安定度強化のために単体の規格石材と差し替えて寛永期石垣レベルの耐久度に整えたとすれば、それは文化財としての時代性保全を原則とする修復の姿勢の破綻を意味する。
つまり、できるだけ非破壊の補修を前提とした施工を立案するだけでなく、残存石垣の主要な時代相に整合した補強テクニックの検討を十分に行うことが重要となる。
そもそも石垣は、外面を構成する築石・角石とその背面の栗石層+裏土とが、相互にジョイントしている構造になっていない。要は巨大な「柔」構造体なのであって、地震時挙動を警戒する余り強制的に固定化する方向に傾斜すればするほど、創築時の原型は損なわれていく。
近年の対応策として実例増加を見るジオテキスタイル工法やロックボルト(鉄筋補強)工法などの新素材導入に対して、筆者は必ずしも否定的な印象を持っていない。従来の破壊的工法を回避・抑制する選択肢として有効であることが間違いないからである。ただし、使用素材と土木工学上の着想について、時代的整合性を説明付けるには限界がある点を十分認識した上で、その適用の当否を慎重に判断する姿勢を崩してはならない。
そうした復旧と補強のコンセプトや具体的手法を決めるためには、対象石垣の綿密な調査が大前提となる。文献史学による創築以後の補修履歴の時系列的把握と、それとの対比的課題を持ちながら修理の着工後にも実施する考古学的調査、立地地盤上の問題点の発見を視野に入れた土木工学的調査など、変状原因の特定と改善策を見いだすためにさまざまな専門領域からの調査が必要となるのだが、そうした共通理解に不足する修理例がいまだに存在するのも事実である。われわれはさらなる情報と価値観の共有に専心しなければならない。
一般整備と災害復旧との線引きの必要性
ここまでは、主に平常時における遺跡整備の一環としての石垣修理を想定した話である。これに対して、災害により崩壊した石垣の復元については臨み方の違いに留意しておく必要がある。
文化財石垣を含めて、被災損壊した施設等の国庫補助金を基にした復旧の場合、国交省や文化庁ともに「被災前の原形復旧」の原則を交付要綱等で成文化している。その一方で、諸般の事情から完全復旧が困難な場合における同等構造物への差し替え(「従前の効用の復旧」)が認められている。その理念に従えば、文化財石垣の場合は現有する歴史的価値の減退を防ぐための個別検討が以下のような経緯から必要となり、被災前の遺跡としての復旧形状をどの時間軸に定めるかという、シビアな問題の議論が不可避である。
全国の近世城郭は、大名領国の中枢としての本来的機能を停止した廃藩置県の後、国家と地域のさまざまなニーズから再利用の道を辿った。それは現代の公園利用に至るまで継続しており、武家政権下では存在しなかった多数の後出施設が重複している。往時の石垣の上には旧軍部や学校の敷地整備に伴う天端石が追造され、公園化によりベンチや転落防止柵が設置され、顕彰のための記念碑が据えられ、はては櫓風のコンクリート製建造物が建つというように、実に賑やかな近現代期の創造景観が加わった。
これらを巻き込んだ大規模な石垣崩壊が生じた場合、復旧に当たってどこまでを修理対象として整理付けるべきかという、事業の根幹に係る問題から検討を迫られることとなる。「原形復旧」の原則に、安直な形で回復の基本方針を委ねるわけにはいかない。これが一般の整備事業の枠内ならば、城郭が機能する最終段階(幕末ないし明治6(1873)年のいわゆる「存城廃城令」布達まで)に年代観の下限を置いた復原モデルの採択が常道である。
仮に、当該の城跡の本質的価値を維持するために施された追加処置が近現代工法によるものであっても、遺構本体にとって穏当であるならば残置する必然性を見出すことも不可能ではないが、実際にはそうしたケースは多くはない。現実的には文化財保護の観点に立った計画も持たず、遺構の健康にとって有益かどうかよりも利用者の便益と観光上の期待感を満たす目的から、廃城後に発明された素材や発想、新規技術を投入した事例が大勢を占める。
2016年震災を受けた熊本城跡の復興においても、正しくそうした要素をも含めて、回復方針の確定のための議論に最初に直面することとなった。旧陸軍第6師団の関連施設跡や、明治22(1889)年震災に伴い修理された近代期石垣、昭和以降の公園管理下でのさまざまな改造痕跡など、これらを乗せた状態の藩政期のオリジナル石垣ごと崩壊したのである(写真8)。これら廃藩後の構造物に「特別史跡熊本城跡」の構成要素としての文化財的価値を一律に与えて、復旧の対象にすべきかどうか。
写真8 震災復旧の途上にある熊本城の大天守台北面石垣―左半は加藤期のオリジナル、右端と天端付近は近現代の積み替え
近年、市民活動上のコミュニティの場という切り口から遺跡の社会的役割を再評価し、その維持の過程で創出された施設についても新しい意義付けを行おうとする思想を散見するが、城跡はその典型的な対象空間と言って良い。しかしながら、そうした今日的な城「跡」の利用形態にとって有用であることから、あるいは文化財としての城跡の管理と啓蒙にとって「良かれと思って」取られた措置ならば、どのような形の物でも肯定的に維持する方向には、流石に進み難いだろう。何よりも、史料による裏付けからの実在証左に不足し、オーセンティシティ(真正性)が担保できない物体を積極的に残すのは有形文化財の保全原理に反しよう。少なくとも、「城」の要素としての履歴を持たない別時代の事物を同居させるのは望ましい遺跡整備の形ではない。
判断の上で難しいのは、近世から継承された伝統的技法に立脚して明治期以降に修復された近代石垣が復旧対象に混在している場合で、無形文化財の価値水準(民俗学的思考による)とも通じる解釈を当てるなら、そこに投入された「技」の価値への配慮も検討対象となる可能性がある。ただし、その「技」の行使が、文化財としての城石垣の復元や補完を意図した内容か否か次第で、取り扱い方は変わるだろう。あくまでも「城」が「城」としての生命を保っていた時期の様態が第一優先であり、これを完成目標とした復旧が理想であって、その時代的特徴の維持に支障を及ぼす案件の解消を基本とするべきである。
熊本城では検討の結果として、「原形復旧」原則に従って「地震直前の状態への復旧」を基本方針としつつも、近現代以降の改造石垣の中に構造的欠陥(不安定形状の石材や損耗した栗石の遺存など)が認められる場合や、伝統的技法に反して文化財価値を低落させる部位(練積み施工箇所など)においては、被災前回復に拘らず本来の城郭石垣に即した改善策を講じることとした。そして、維持すべき歴史的時間軸は、城としての防衛機能が実戦で再確認された歴史事象でもある明治10(1877)年の西南戦争時の遺構を最下限とし、それより古い時代の石垣群を文化財として位置付けた復旧目標を明示したのである。
熊本城に先行する例として、2012年の集中豪雨で崩壊した島原城本丸の石垣修理では、国交省の都市計画公園災害復旧助成を受けつつも、被災以前に果樹畑や公園整備に伴い改造・増築された近現代の石垣部分を復旧対象から敢えて除外し、将来の文化財石垣としての歴史性回復の措置を待つこととして崩壊面の一時養生施工を行うにとどめ、主要箇所についての復元施工を完了させた。災害復旧補助事業の原則に従った施工箇所と、文化財復元に徹すべき箇所とを区分することで、城の歴史的真正性の維持と回復に拘った一つの行政判断として評価したい(写真9)。
写真9 島原城跡(長崎県島原市)本丸北西隅の近代石垣の暫定保全状況―城郭石垣としての将来的回復を企図して災害復旧対象から除外したもの
以上のように、本来の歴史性の回復と維持を目的にした平常時環境整備と、災害後の旧態回復を基本方針に置く災害後整備(修復)とでは、同じ石垣修理でもスタートラインにおける事業費上の付帯条件の相違が大きいことから、守るべき主体の線引きを明確にして臨む必要がある。
最後になるが、「石垣」という要素だけを保全の主対象として捉えるなら、前述のように同じ技術系統の範疇にあるという評価付けを根拠に、廃城以後の複数時代の石垣を等価値として維持するという判断に達する可能性もあり得る(この件は「真実性に関する奈良文書」1994の指標の適用性をめぐる論点とも通じる)。場合によっては、その上に江戸期の残存建築物を解体修理して乗せ直すという、遺跡整備の世界ではイレギュラーな新旧逆転の現象も生じ得るわけだが、熊本城でも13棟の近世期の櫓・門が修理対象となっており(写真10)、弘前城でも近代期に積み直された本丸石垣の解体修理後に文化年間の現存天守を復する計画で(写真11)、その対応に熟考を迫られるケースが現実に各地で起きようとしている。
だからこそ冒頭に掲げたように、総合的な城跡の保全策に組み込んだ形での、石垣のみを主人公に据えない修理・整備の考え方が重要になるのである。繰り返しになるが、あくまでも「城跡」という文化遺産の保存整備が目的であることを、われわれは強く自覚しなければならない。
写真10 倒壊直後の熊本城跡の北十八間櫓と石垣
写真11 解体修理が進む弘前城天守台