本誌特集

Vol.34

Vol.34

宮城県登米市「米川の水かぶり」小考

福原 敏男 / Toshio Fukuhara
武蔵大学 人文学部 日本東アジア文化学科 教授

宮城県登米市「米川の水かぶり」の様子 提供:文化庁

「米川の水かぶり」の実態

本稿では2018年11月29日、ユネスコ無形文化遺産保護条約の「代表一覧表」に、「来訪神:仮面・仮装の神々」1件として記載された10行事(国指定重要無形民俗文化財)のうち、宮城県登米市東和町「米川よねかわの水かぶり」について検討する。

 

「生きている民俗行事」にはさまざまな解釈が可能であり、国指定の分類(種別)にしても、他の文化財にくらべ誠に難しい。本稿では、「来訪神としての米川の水かぶり」という国指定やユネスコ登録の趣旨のみが、同行事の見方ではないことを示しておきたい(来訪神行事であることを否定する論ではなく、多様な見解があることを提示したい)。

 

同行事は米川内の五日町の行事であり、同町は藩政期には登米郡から本吉郡へ通じる西郡街道の宿駅であった。2月初午、五日町の若者や厄年の者たちが火伏せ(火災除け)を願って街道沿いの家々やその屋根に水をかけながら、地区内の社寺等を参詣する行事であり、その日以外に行うと火事が起きるとされる。また、行事の「宿」は代々五日町の菅原家と決まっており、宿を変えてはならないなどの伝承があり、宿ではオカメとヒョットコの衣装や面を保存しており、藁簑の装束をつくるのに使うもちごめの稲藁も当日までに用意しておく。

初午当日、参加者は午前8時頃宿に集まり、腰や上半身にまとうオシメ(注連しめなわの意味を持つ「御注連おしめ」からの呼び名か)と、頭に被る大きなつとを藁でつくる(図2参照)。被り物は基本的には一束の藁で作るが、その先端にはさまざまな個性的飾りが工夫され、それは参加者の家々に代々伝えられたものともいわれる。できあがると参加者はふんどしのみとなり、オシメを身に着け、草鞋を履き、顔にはかまどすみを真っ黒くなるほど塗り付け、誰だかわからないようにした上で苞を被る。準備が終わる頃、二人一組の「役の者」が町内の家々より祝儀を集めてまわるが、祝儀は行事後の酒宴に充てる。そのヒョットコ役は黒の僧衣でかねを叩き、女装のオカメ役は手桶を天秤棒で担ぎ、火伏せへの礼と同時に、道化の門付け芸によって祝儀をもらい歩く。

 

10時頃、水かぶり一同は列をなして宿を出発し社寺へと向かうが、先頭には先端に幣束へいそくを付けた梵天を持つ還暦の者が立つ。菅原家当主が地元の八幡神社宮司に事前に依頼して幣束を切ってもらい、竹に取付けて梵天を用意する。

写真1 米川の水かぶり:梵天を先頭に行列
提供:登米市教育委員会 撮影者:佐々木四郎

写真2 米川の水かぶり:顔に墨を塗り、藁の装束をまとう。
提供:登米市教育委員会

一行は先ず菩提寺のだいに向かい、境内の火伏せのあきごんげんに参拝後、用意されている桶の水を本堂の屋根にかける。その後、町裏を通って町外れにまわり、主たる行事が始まる。旧西郡街道両側の家々では、オカメとヒョットコの先触れの鉦の音を聞くと、桶に水を汲んで家の前の街道に用意する。一行は町並みの南端で両側の二手に分かれ、南から町の中央に向かい、奇声を発して水を屋根にかけながら走って行く。町の北外れに出ると、山の中腹にある鎮守八幡神社に参拝し、さらに向かい山の若草神社にも参拝する。帰りは二俣川の堤防に沿った家々をまわり、約1時間をかけてまわり終わって宿に引き上げる。

 

町内の人びとは、一行が通りかかると、競ってオシメの藁を引き抜いて屋根の上に放って載せる。また、これは火伏せのお守りになるといわれている。さらに、その身に触れると、魔(悪病)除けになるといわれている。一行の装束はまわり終えた頃になると、裸同然になっている。

 

この日、町内の人びとは一行が通過するまでは、色の付いた食品を食べることが禁忌とされており、犯すと「ばやくなる(火災が発生しやすくなる)」といわれる。また、行事に参加する者は五日町の住民に限られており、破ると火災が発生すると戒めている。

写真3 米川の水かぶり:藁を引き抜き、お守りとする子どもたち 提供:登米市教育委員会 撮影者:藤江健一

「米川の水かぶり」の解釈

同行事は若者や厄年の人が自ら水をかぶるというより、社寺や家々、屋根へ水をかけることが中心となっている。文化庁の提案資料1によると、「若者たちが異装をし、正体がわからないようにして現れるなど、異形異装の来訪神行事の要素も併せ持っている。米川の水かぶりは、我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており、宮城県北部における火伏せ行事の代表例である」とされる。

 

実は同行事は、1990年3月、宮城・福島2県にわたる広域複数の事例による「南奥羽の水祝儀」(種別:「風俗習慣」「人生・儀礼」)として、「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」(国選択と略す)の一構成行事となっている。そして翌年、文化庁は「宮城県南奥羽の水祝儀記録作成調査会(代表・三崎一夫氏)」に調査を依頼し、同氏と小野寺正人氏が宮城県の章を執筆した報告書『南奥羽の水祝儀』(文化庁文化財保護部 1996)が刊行されている。

 

同書によると、「水祝儀」とは花婿・花嫁に水をかけて祝う「水祝い・水掛け祝い」などと呼ばれる行事であり、それらが婚礼儀礼の一環として、またその翌年の正月行事として各地で行われてきた(人生儀礼と年中行事の両側面を有する)。宮城・福島両県では後者が濃厚に分布し、講組織や青年会などが主体になり、前年に結婚した者を対象とする祝いの盃事や水を浴びせる行事が中心であり、道祖神信仰や愛宕信仰などの要素も複合して伝承されている。米川の水かぶりには、婚姻儀礼の要素はみられず、火伏せと厄除けが中心であるため、同書において水祝儀とは認められていない。

 

これに対して、文化庁ウェブサイト「国指定文化財等データベース」2は以下のように記す。伝承事例の「いずれも、新婚者を祝福すると同時に、社会的承認を与えるための一種の通過儀礼として行われるものである。また、水を掛けるという行為を通して、新婚者の祓いを行い、水の呪力によって子宝や安産を祈願し、さらに、防火に関する呪術的効果をも加味した儀礼とされている。しかし、今日では婚礼の前後に行われるものは、ほぼ消滅してしまい、正月行事として行われるものも青年たちの「婿いじめ」の傾向が過激になるなどの弊害により、行事として儀礼的に整ったものがわずかに命脈を保っているにすぎない」。上記において米川が該当するのは、「防火に関する呪術的効果」のみであるが、かつては婚礼儀礼としての側面があったものと推定されているのであろう。

 

ここで、『南奥羽の水祝儀』において、宮城県で唯一詳細報告が載り、代表・典型例とされた加美郡加美町の「小泉の水祝儀」について概略を示そう。旧暦2月2日、小泉集落の講中が新婿新嫁を迎えての行事であり、集会所での神事の後、講中一同が向かい合い、互いに右手を差し出し合って「鳥居」と呼ばれるトンネルをつくり、嫁が這って潜り抜ける儀礼がある。また、一同は額に墨で「水」の字を書き合い、木製男根形の道祖神神体を背負った者が胴上げされ、講中が押し合う中で新婿が濡れ手拭いで顔をふかれる「面洗い」の儀礼もある。酒宴終了後、講中一同が数組に分かれて集落全戸をまわり、屋根に水をかけて火伏せを行う。

 

米川の事例は同報告書中の「水と墨に関する儀礼」に載り、「水祝儀の儀礼の中で、儀礼を施す側の者が儀礼を受ける者に対して、水を浴びせたり墨を塗り付けたりする場面があって、重要な部分を占めていると考えられる」とされ、「宮城県下の水祝儀以外で、水や墨が登場する事例」がいくつか挙げられ、その一番目に米川の事例が報告されている。

以下、同書における米川以外の水祝儀に関連する数事例を例示する。
加美郡宮崎町切込きりごめ集落には、正月15日の訪問者行事「裸カセドリ」があり、近隣の集落からも参加する。行事は夕刻「宿」に集合し、若者組全員が裸になって藁装束を付ける。厄年の者、前年に結婚した「初婿」、15歳の初めて参加する「初でき」は他の参加者より水を浴びせられ、その後若者たちは一団となって、集落内の定められた路順に駆け足で家々を訪れる。家々では炉の火の勢いを盛んにし、酒を用意して待ち受ける。若者たちは奇声を上げて駆け込み、家人の顔に竈墨を付ける。訪れた家に他集落の若者が居合わせると、裸にして頭から水を浴びせる。墨付けが終わると、主人が酒を勧め、若者たちは盃を受けしばし暖を取り、次の家へ行く。若者たちが「宿」を出発した後、年長組は「餅もらい」役になり、布袋を携えて、若者たちが訪れた後の家々をまわって「カセドリ餅」という丸め餅を5、6個ずつ集めてまわる。若者たちは「火の悪い家」(喪中の死穢しえなど)を避け、約2時間を要して集落全戸をまわり終えると宿へ引きあげ、酒宴が催される。かつて切込集落は磁器生産地であり、高所にある集落は出火すると水の便が悪く大事に至るため、火伏せの行事が続いて来たという伝承がある。報告書では、15歳の「初でき」の成人儀礼(若者組加入儀礼)であるとともに、小正月の訪問者(来訪神)行事であると結論づける。

 

桃生ものうぐん河北かほくちょうかま集落では、2月初午の日が月の初めになると火災が発生しやすくなるという俗信があり、このような年に限って初午の日に「水かぶり」行事を行う。当日、集落の若者たちが集会所へ集まって3名が選ばれ、鉢巻に椿の枝を挟み、裸になって腰に注連縄を回し、集落の家々が用意した水を次々に浴びながら進む火伏せ行事である。

 

栗原郡若柳町やり集落の石尊せきそん神社の例祭は2月12日、集落3地区に石尊講があり、講中より2名の「水かぶり」役が選ばれる。当日、当主たちが「宿」に集まって「赤色を避けた精進料理」を共食し、終わると水かぶり役が裸になり腰に注連縄を回す。その後、一同は行列を組んで太鼓を鳴らしながら下町から上町へと向かい、両側の家々が用意した手桶の水を半分は自分がかぶり、残りはその家の屋根にかけ上げる。町外れまで進み、注連縄を同所の馬頭観音の碑に納めて終了する。

同報告書は結論部において、小泉・米川・切込の事例における火伏せなどの儀礼複合に関して、以下のように述べる(104ページ)。

 

これらの中にはもともと火伏せの儀礼であったものもあろうが、通過儀礼には火伏せとの関わりは考えられず、重要な役割を果たす水が、水は消火するという能力から、やがて儀礼本来の意味が忘却されると、火伏せであるという解釈が語り出されて採用されることになったと考えられる。一旦その解釈が通用すると、火伏せに関する伝承が種々付会され、宮崎町小泉のように、儀礼を怠って火災が発生したとか、酒宴では冷酒に限られるなど、成人儀礼である東和町米川の「水かぶり」でも同様のことが語られている。この種の行事は他の同軌の行事から類推して、小正月の行事であったと考えられるが、日取りも火伏せにかかわる初午に改められたと推測される。

 

さらに米川の事例に関して、「かつては、この若者に対し、町内の人々が水を掛けたと語られており、「水かぶり」の呼称も、若者たちが水をかぶるのが本来の姿であったことによるものであろう」(92ページ)と結んでいる。つまり、同行事は小正月のかんのような成人儀礼と、それに付随する厄除けがもとであり、それが初午の火伏せになったという、至極納得できる推論である。

 

行事名や来訪神役名が、現行の家や屋根への「水かけ、水かぶせ」という語ではなく、自らの「水かぶり」という民俗語彙であることが象徴するように、若者組における極寒期のイニシエーション的な身体苦行がもとであった。それは各地寺社での修正しゅしょう結願における競争的な裸祭り・裸参り・寒中禊ぎにも通底するのではなかろうか。一方、蓑や被り物は信仰的には匿名性(神としての資格)を得ると同時に、機能的には身体を守る水除けのためとも考えられよう。

おわりに――民俗分類の難しさ

民俗行事とは、さまざまな要素が複合して成り立っている事例が多く、それら行事の性格は多面的であることは言うまでもない。来訪神行事においても、来訪神役が訪問した家人から水をかけられる要素は多く、かけられた来訪神役には不吉な伝承もあるため、逃げまわる事例が多い。家人側にとっては冬季の火伏せというよりも、夏季の潤沢な用水確保のための予祝よしゅく(類感呪術)と解釈される。

 

「米川の水かぶり」は1990年、「南奥羽の水祝儀」として国選択行事となり、2000年12月、国選択と重複して「年中行事」種別の来訪神行事として国指定され、今回の登録につながった。

 

同行事は、準備を除く行事自体は1日限りであり、諸行事が同時進行するものではなく、「全く同一の行事」が、水祝儀に加え来訪神行事としても別々に選択・指定されている。そして現在では国選択、国指定、ユネスコ登録の行事なのである。

 

ではなぜ、選択から10年も経って、2県にわたる複数の選択構成行事のなかで、米川のみが来訪神行事とされたのであろうか。

 

例えば、前掲切込集落の小正月「裸カセドリ」は、名称も内容も来訪神行事そのものであり、図1のような仮装である。米川の場合はより誇張された図2のような仮装であり、他の水祝儀行事に比べ異形の姿なのであり、これが来訪神としての指定につながった要因と思われる。「水祝儀としての米川水かぶり」には否定的であった三崎氏も、同事例を代表的な「小正月のまれ人」として挙げているのである(三崎 1978)。

図1 「切込の裸カセドリ」の装束
出典:『南奥羽の水祝儀』(文化庁文化財保護部編、国土地理協会、1996)より転載

図2 「米川の水かぶり」の装束
出典:『南奥羽の水祝儀』(文化庁文化財保護部編、国土地理協会、1996)より転載

筆者は同行事の性格について、基本的には初午の火伏せ、厄年者による厄祓い行事と考えるが、周辺事例によると、かつては成人儀礼の要素もあったものと思われる。

 

いずれにせよ、「米川の水かぶり」では五日町の各家に入って予祝するわけでもなく、小走りに家や屋根に水をかける行事である。今回の登録においては仮面・仮装がクローズアップされたことにより、残された課題も多く、それらについては拙稿(福原 2018)を御参照いただきたい。

 

最後に「来訪神行事」の語について述べると、2017年後半の専論(塩瀬 2017)においても、「訪問者行事」とされるように、「来訪神行事」は根付いていない。本登録を機に、今後、自然と「来訪神行事」になってゆくのであろう。

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