本誌特集

Vol.34

Vol.34

南西諸島の来訪神

小島 摩文 / Mabumi Kojima
鹿児島純心女子大学大学院 教授

悪石島のボゼ 提供:小林稔氏

はじめに

この度、「来訪神:仮面・仮装の神々」がユネスコの無形文化遺産に記載された。10件の行事のうち3件が鹿児島県の、1件が沖縄県のものである。本稿では、鹿児島県、沖縄県の来訪神について、登録された4件を中心にそれ以外の来訪神についても紹介したい。あわせて、それらの来訪神をとりまく現状と課題について“資源化”という観点から、またその学術的意義について考えてみたい。

鹿児島県の来訪神

鹿児島県では、国指定重要無形民俗文化財に指定されている「(こしき)(じま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)」、「薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島郡三島村)」、「悪石島(あくせきじま)のボゼ(鹿児島郡十島村)」の3件が、仮面をつけ仮装した異形の姿で来訪する行事として、ユネスコの無形文化遺産に登録された。他に、種子島の西之表市鞍勇(くらざみ)野木平(のぎのたいら)地域に伝承されているトシドンもある。鞍勇と野木平は、甑島からの移住集落である。甑島での台風被害から1884(明治17)年に種子島に移住した人々で、移住先の種子島でもトシドンの行事を続けてきた。一時中断した時期もあったが、現在も続けられている。

 

「薩摩硫黄島のメンドン」は、八朔の行事として、旧暦の8月1日・2日に現れ、土地と人々の邪気を祓う役割を担っている。邪気を祓う者の常として異形の姿であるが、恐ろしいというよりは、どちらかというとユーモラスな姿である。

薩摩硫黄島のメンドン 提供:小林稔氏

祭は、熊野神社前の広場で若者たちが輪になって八朔太鼓踊りを奉納することから始まる。全国に「八朔踊」を称する踊りはいくつかあるが、三島村硫黄島の八朔踊は、背中に八幡を背負い、胸に太鼓を抱いて、この太鼓を叩きながら踊る。芸能としては、全国にみられる風流(ふりゅう)系の踊りで、その中でも囃子踊とよばれる系統である。踊り手たちが踊っていると、突如、拝殿の裏からメンドンが走って乱入してくる。そして踊り手たちの周りを3周し、去って行く。1体のメンドンが去っていくと、その後、次々とメンドンが走り来て、踊り手の邪魔をしたり、観客たちの中に入って、手に持っている神木である「スッベン木」とよばれる柴(枝)で観客を叩いて暴れる。叩かれると魔が祓われるという。

 

こうして、メンドンは神社を出たり入ったりしながら、せわしく駆けまわり、翌日の夜中まで島内各所に出没する。

 

翌日には、「叩き出し」といって、太鼓踊を踊りながら島内を一巡する。このときメンドンは行列の先頭を行く。海岸に到着すると、そろって海に向かって悪いものを追い祓う。最後は神社に戻って締めの踊をし、あとは「花開き」と称す直会(なおらい)となって、行事は終了する。

 

「悪石島のボゼ」は、大きな耳のようなものが頭からのび、その根元にお椀のような大きな目、その下に大きく開いた口がある異様な容姿である。頭部は赤土色と黒色の縦の縞模様で、体は青々としたビロウの葉で覆われ、その上に赤土が(まぶ)されている。手足にはシュロ皮やツグの葉をあてがう。手には、「ボゼマラ」、または「マラ棒」と称する男根を模した長い杖を持つ。日本中にさまざまな形態の神や鬼、化け物があるが、そのいずれの姿とも似ていないことから、“南方”とのつながりを指摘する人も多いが、その根底にあるのはむしろ、「鬼」というもののビジュアルが定型化する前の人々が持っていた素朴な「異形観」と、島にある物で造形するというブリコラージュで、それらがこうした形態をもたらしたと思われる。

悪石島のボゼ 提供:十島村教育委員会

盆踊り会場で踊る三体のボゼ 提供:十島村教育委員会

1993年に筆者が見ることができた「悪石島のボゼ」の様子は以下のようなものであった。盆の最終日となる旧暦7月16日の夕刻、三体のボゼが集落の墓地に隣接する「テラ」と呼ばれる場所を出発し、呼び太鼓の音に導かれ、盆踊りで人々が集まる広場に突然現れ場を乱す。ボゼは、ボゼマラの先端に付けた赤い泥を人々に擦り付けようと、その場にいる人々を追い回す。あたりは笑いと叫び声で騒然となっていく。この泥を付けられると、悪魔祓いの御利益があるとされ、特に女性は子宝に恵まれるという。騒ぎがしばらく続いたのち、乱打されていた太鼓の音がゆったりとした調子に変わると、ボゼは体を揺するようにして踊りはじめ、再度、調子の急変で再び暴れだし、やがてその場を去っていく。こうして、邪気が祓われ、清まった人々の安堵と笑顔が満ちるなか、場を戻すために最後に盆踊がもうひと踊りされ、以後は余興と称して夜が更けるまで歌って踊り、飲食に興じる。

 

下野敏見によれば「ボジェ(ボゼのこと)は、吐噶喇(とから)列島中、悪石島ではいまも盆踊りの時出現し、(中略)それが出現しない平島でもその話は残っていて、「泣くとボジェが来っど」などと言って、親が子供をおどしたりする。ボジェの話は、中之島や小宝島でも言うので、おそらくもとは吐噶喇各島にボジェ仮面神が出現したのであろう」とし、かつては十島村全島で視られた可能性を示唆している(下野 2005)。

 

その他、鹿児島県では、「ヨッカブイ」という行事に出てくる「大ガラッパ」も仮面来訪神といえる。ヨッカブイは水神の祭といわれ、現在は8月22日に行われているが、もともとは旧暦の6月18日に行われてきた。南さつま市金峰町高橋で行われており、一連の行事の中で、「大ガラッパ」が出てくる。大ガラッパは、夜着の綿を抜いた着物を着て頭にはシュロでつくった袋をすっぽりかぶっている。全く顔が見えないので不気味さはすさまじい。この姿で子どもを捕まえて(かます)の中に入れてしまう。同じように子どもを脅かす他のナマハゲ系の来訪神とは異なり、昼間に登場するのだが、その怖さは劣ることはない。

沖縄県の来訪神

今回のユネスコ無形文化遺産登録で、沖縄県では「宮古島のパーントゥ」が選定された。パーントゥは宮古島市の二つの地区で行われる。旧暦9月上旬に旧平良市の島尻地区、旧暦12月最後の丑の日に旧上野村の野原地区で行われる。体に(かずら)を巻き付けて、その上から泥を塗って仮面をつけたパーントゥが集落をまわり、人々のみならず車などの物にも泥を塗りつける。

宮古島のパーントゥ 提供:文化庁

沖縄県には、パーントゥ以外にもいくつかの仮面来訪神が知られているが、その中でも特に名前だけよく知られているのが八重山の「アカマタ・クロマタ」であろう。西表島の古見(こみ)が発祥の行事だといわれており、現在も石垣島の宮良(みやら)などで行われている。

 

写真撮影や録音などが許されていない祭としてよく知られている。写真撮影しようとした人が殺されたとか、暴行されたという話もよく聞かされる。

 

筆者は、1990年代に新城島でアカマタ・クロマタの祭を見る機会をえた。筆者の父が地元出身の方から誘われて実現したものだ。

 

祭の時だけ帰省客のために運行される船に乗り、島に渡る。行事全体に厳粛な雰囲気があり、また、行われる場所が木が鬱蒼と生えた森で、古代の演劇を見ているようだった。先祖伝来の着物を着た男性だけで静かに厳かに踊ったあと、アカマタ・クロマタが現れた。蔓状の草で身を覆い小さな仮面をつけている。このままの言葉の説明ではパーントゥと変わらないが、アカマタ・クロマタはもっと草のボリュームがあり、体全体が団子のように丸くなっている。山形県遊佐(ゆざ)の滝ノ浦地区のかつてのアマハゲに似ているように筆者は思っている。藁が豊富で体がまるまるしていた頃のアマハゲだ。また、1992年に公開された映画『パイナップル・ツアーズ』に出てくる人の背丈ほどもあるパイナップルが物語の舞台になっている集落内を移動していく様子が、アカマタ・クロマタによく似ていて、この行事がモチーフになっているのかもしれない。

 

「アカマタ・クロマタ」の祭の最中、小さな手帳にその姿をメモしていた父の側に、青年団の方がさっと寄って来て、とても丁寧な口調で「先生、メモはやめてください」といい、手で手帳を下に押し下げた。丁寧だがとても毅然とした口調だった。手帳を取り上げたりというような手荒なことはなかったが、写真や録音だけでなく、すべての記録が禁止されていた。

南西諸島の来訪神の学術的意義

南西諸島の来訪神は、現れる時期が本土の来訪神とは異なる。本土の仮面神が大晦日、小正月が中心なのに対して、ボゼが盆(旧暦7月15日)、メンドンが八朔(旧暦8月1日)である。沖縄県では、パーントゥが旧暦9月上旬と旧暦12月下旬、アカマタ・クロマタは旧暦6月。もう少し大きな枠組みでいうと、本土の来訪神が冬・春なのに対し、南西諸島では、夏・秋だということができる。こうした時期のずれを考察することによって、日本列島における暦のあり方、一年の区切り(節)を農業暦の中で考えることが重要だということに気づくことができる。

 

また、邪気を祓うとともに子孫繁栄を促す行為を伴うなど、ヨーロッパの仮面神、クランプスやシャープなどとの共通点などもあり、人類文化を考察する上でも有意義な行事だといえる。東アジア、東南アジアだけではなくヨーロッパなど広く他地域の行事も視野に入れ比較民俗学的に研究することで、人類が共通して持っている神観念、一年の観念、暦の意識などを解明する糸口になるのではないだろうか。

 

さまざまな形で来訪する来訪神に共通する特徴として次の2点がある。一つ目は、来訪神が新年や小正月、豊年祭、節祭など一年の区切りと思われる時期に来訪すること。二つ目は、来訪神が家々や村々に豊穣や幸福をもたらすことである。異形のものが暴れたり、子どものいたずらであったり、現代的な視点で見ると必ずしも直接的に豊穣や幸福とは結びつかない行為でありながら、それを悪魔祓いとして人々は信じてきた。そして、それら世界中の来訪神は、1年の観念そのものとしてとらえられてきたのではないだろうか。

 

来訪神は、その土地土地の一年の観念、暦の観念を表すと共に、異形の者やまれびと、子どもに特別な力を見いだすという人々の人間観をも反映した行事だといえよう。

資源化・観光化と南西諸島の来訪神

1993年に筆者がボゼを見たとき、悪石島に滞在するために宿を取ろうとしたのだが、島にある民宿全てから宿泊を断られた。予約でいっぱいだというのだ。当時私は十島村の教育委員会に学芸指導員として所属していたので、役場を通して改めてお願いをし、ようやく宿を確保することができた。島に行ってみると、どの宿にも客はいなかった。お盆の時期は、当時は帰省者以外が島に泊まることはできない状況であった。もちろん、テントなどを持ち込んで勝手に島に入ることは出来るが、厳密にいえば他人の土地に勝手にテントを設営することになるので不法行為となる。

 

現在は、ボゼの時期には大々的に宣伝をし、特別便の船で観光客を運んでおり、観光化している。契機は2009年にあった皆既日食の見学ツアーの受け入れにあるようだ。

 

また、昭和40年代、当時国会議員だった石原慎太郎氏が、ヨットで悪石島に立ち寄り、ボゼを見せてほしいと依頼してきたことがあったという。島の方々は随分と思案し、困り果てて、民俗学者の下野敏見先生に電話で相談し、下野先生から「神様でもあり、時期も違うので今はできません、と丁重に断ったらどうでしょうか」とアドバイスされ、そのようにしたという。この話を私は下野先生ご自身からも、島の方からも伺った。

 

島では、ボゼを神として、長いこと資源化・観光化してこなかった。現在、鹿児島県の歴史資料センター黎明館と大阪府吹田市の国立民族学博物館、十島村歴史民俗資料館に祭で使った実物が展示されている。それぞれに寄贈する時にも、地元にはさまざまな意見があり、収蔵には苦労があった。十島村歴史民俗資料館に寄贈して頂いた時には、筆者自身が担当者であったが、「中之島にある資料館になぜ悪石島のボゼを出さなければならないのか」と詰問された。

 

一方で、「薩摩硫黄島のメンドン」は、1934(昭和9)年に渋沢敬三らが調査で訪れた際に、5月だったにも関わらず、八朔踊とメンドンを披露したことが映像として残されている(宮本 2016)。この時点で、メンドンは神であると同時にすでに芸能化しつつあり、誰でも彼でも見せるわけではないにしても、条件がそろえば本来の日程でなくても“演じる”ことができたということである。

 

しかし、「悪石島のボゼ」も少しずつではあるが、島から出ていき、資源化され、やがて十島村を代表するキャラクターになり、マグカップやキーホルダーなどに使われるようになった。そしてついに2018年に世界遺産になった。

 

これらに対して、アカマタ・クロマタは、観光化・資源化はおろか指定文化財にもなっていない。徹底して外部を遮断して、共同体の祭祀としてのみ機能させている。宮良高弘によれば、アカマタ・クロマタは村の成人として認められるための儀式としてあり、それゆえ「秘密結社」化しているとしている(宮良 1962)。それに先立ち柳田国男、折口信夫、岡正雄らも、ナマハゲをはじめとする日本のその他の仮面来訪神との関わりについて記述している(柳田 1929、折口 1929、岡 1960)。この点は、オーストリアの来訪神の祭・聖ニコラウス祭の役になれる参加資格が、「兵役を終えている、犯罪歴がない」という条件であることと似ており、どちらも、民俗学の用語を使えば、村の成員として“一人前”であることが求められているといえよう。

 

民俗学の研究においては、非常に貴重な資料でありながら、決して外に開かれていないアカマタ・クロマタと、一年中見ることができ、地元のみならず東京の居酒屋でも気軽に触れ合うことのできるナマハゲとは、同じ仮面来訪神でありながら、資源化の軸で対極にあるといえるだろう。

 

どちらがいいとか悪いとかの問題ではもちろんない。それぞれ伝承してきた人々のその時々の判断の積み重ねとして現在がある。

 

しかし、アカマタ・クロマタが国の指定文化財でもなく世界遺産でもないことが、アカマタ・クロマタの文化的価値、あるいは学術的な価値、また当然であるが地元の伝承している人々にとっての価値を毀損するものではない。ただ、こうした状況は、国のあるいはユネスコの文化財行政の一つの限界を示していることは確かだ。しかし、それは乗り越えるべき限界ではない。そうではなく、限界を限界として見定め、学術的意義と行政的意義が異なることを認めることが大事なのだろうと思う。

 

今回、「来訪神:仮面・仮装の神々」として、ユネスコ無形文化遺産に10件の文化財が登録されたことは大変喜ばしいことである。しかし、登録されなかった他の来訪神、仮面・仮装の神々についても、その保存・伝承や学術的な意義や価値を再び考えてみる良い機会になればと考えている。

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