Vol.35
Vol.35
日本の古墳の特徴とその世界観
兵庫県立考古博物館 館長/立命館大学名誉教授
はじめに
大阪府の百舌鳥・古市古墳群がユネスコの世界遺産一覧表に記載されることが決まった。
2007(平成19)年、大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市が、宮内庁の協力のもと、国内の暫定一覧表記載資産候補として同古墳群を文化庁に提案し、翌年、記載が決まってから、もう10年以上の歳月が流れた。この間の関係者、および関係機関の粘り強いご努力に心から敬意を表するとともに、深くお礼を申しあげたい。初期から有識者会議に参加しておられた金関 恕先生や水野正好先生が生きておられたら、どれほど喜ばれたことだろう。
世界でも独特な古墳、およびその文化や社会が、日本国内はもとより、世界的にも広く認知される絶好の機会を得たのである。
日本の古墳を代表する古墳群
現在、国内で古墳は16万基余りが知られている。形は前方後円墳(前方部の短いものを帆立貝形と呼ぶ)、前方後方墳、円墳、方墳が基本で、大きさは500mを超えるものから10m前後のものまである。いずれも当時の水稲農耕社会を基盤として造られたもので、分布は、南は鹿児島県から北は岩手県にまで及んでいる。
多少の地域差や階層差はあるが、古墳は、この範囲のなかで共有された共通の葬送儀礼様式・共通の墳墓様式に基づいて造られた。そのため、統一的に格差づけることが可能で、古墳群は、形と規模を基準に、顕著な階層的な秩序を形成している点に大きな特徴がある。
私たちは、この秩序を成り立たせていた政治勢力をヤマト王権と呼び、古墳の形と規模は、被葬者の王権内における政治的身分を反映していると考えている。この古墳の秩序の頂点に位置したのが全長200mを超す巨大な前方後円墳で、多くは当時の最高権力者である大王の古墳である。
古墳時代とは、この秩序が継続していた時代で、およそ3世紀中葉~6世紀後葉までの約350年間にあたるが、その政治体制や社会は時期により変化した。
筆者は、王権は、古墳時代前期(3世紀中葉~4世紀中葉)・中期(4世紀後葉~5世紀中葉)は、各地で在地支配を行っている首長たちが、大王を頂点に政治的にまとまった政治体制(首長連合体制)をとっていたと考えていて、民衆が公民化しだし、本格的に国家的体制が整い始めるのは後期(5世紀後葉)からだと理解している。
この首長連合体制は時代とともに進化し、前期前半は生成期、前期後半は発展期、そして中期はその到達点である成熟期であると評価できる。
百舌鳥・古市古墳群はまさにこの成熟期の所産であり、その最高権力者たる大王一族の墓域なのである。そこでは、3段築成の前方後円形の墳丘、くびれ部につく儀式の場である造出、2重・3重の盾形周濠、葺石、埴輪など、古墳の外部施設が整備され、古墳の様式は一つの完成期を迎えた。そして、その様式は各地の古墳造りの規範となった。百舌鳥・古市古墳群が日本の古墳を代表する古墳群とされる理由はここにある。
この中期には、王権は比較的安定し、朝鮮半島諸国(高句麗・百済・新羅・伽耶諸国)や中国など、東アジア諸国と活発な交流を行った。中国の歴史書である『宋書』に記された「倭の五王」が南朝に朝貢したとされるのもこの時期のことであり、百舌鳥・古市古墳群に五王が眠っている可能性は極めて高い。そして、この交流の結果、多くの人・もの・情報が伝来し社会に定着した。馬の飼育と乗馬が始まり、鉄やその他の金属を扱う技術が革新され、農具が改良されたほか、衣食住のほとんどの面が変革された。明治期のそれを「近代化に向けての文明開化」と呼ぶならば、当時の社会は「古代化に向けての文明開化」的状況を呈したのである。
日本の古墳の特徴
では、世界の墳丘をもつ墓(墳丘墓)と比較して、日本の古墳にはどのような特徴があるのだろう。
まず、第一は、日本の古墳には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳など多様な形があることである。特に前方後円墳や前方後方墳は、弥生墳丘墓に由来する、日本独特の墳形で、最大の特徴である(ただし、前方後方墳はおもに前期に造られたもので、中期の百舌鳥・古市古墳群にはない。中期には帆立貝形が多い)。
したがって、第二に、日本の古墳は、階層的な秩序を構成するのに形と規模の両者が基準として用いられた。一方、中国や韓国の墳丘墓がそうであるように、世界各地の墳丘墓では、同一時期の墳形は円か方か単一で、規模によってのみ階層的秩序が示された場合が多い。
第三に、日本の古墳(特に前・中期の古墳-埋葬施設が竪穴式石槨や粘土槨のもの)は墳丘を造ってから埋葬施設を造ることに特徴がある(墳丘先行型)。そのため、墳丘の頂上部には広い平坦面が形成されていて、その真ん中に墓穴を掘って埋葬施設を営んでいる。
一方、世界の多くの墳丘墓では、地下や地表に埋葬施設を営み、これを覆うように墳丘を築いている場合が多い(墳丘後行型)。その差は、葬送儀礼の手順の差となって表れる。
第四に、日本の平地に立地する大型古墳には周濠がめぐる場合が多い。満々と水を湛えたものは、近世の農業用水用の溜池として利用された結果だが、本来は、天水や湧き水が溜まる程度であったと推測される。しかし、周濠のある墳丘墓は世界ではきわめて少ない。知見では、中国浙江省の印山越王陵や、陝西省の秦公大墓など若干例を知るのみである。
第五に、古墳では、遺体を埋納した後に、墳丘の表面に葺石を施し、埴輪や木製品(木の埴輪など)を使って何らかの世界が表現されることである。このような墳丘墓は世界で他に例をみない。埴輪は日本の古墳に固有のもので、他の木製品(や布製品)などとともに、土と石の無機的で冷たい構造物に彩りや賑わいを与えていた(図1)。
図1 前方後円墳の完成想像図(後円部前面の斜面は最後は葺石が施されている場合が多い) 提供:兵庫県立考古博物館 原図:早川和子
古墳とは何か
では、古墳の表面に表現された世界とは何だろう。古墳は墓に違いないが、この世界の方が古墳独特の本質的意味を示しているように思われる。ここでは詳細は省くが、私はその世界とは死せる首長(大王)の魂が赴く他界(あの世、黄泉国)であろうと考えている。
弥生時代後期、日本列島に木槨や石槨など棺を保護する施設である「槨」が伝来したが、それとともに埋葬施設の背景にあった思想も伝わってきた。その思想とは、人は死ぬと精神的な要素である魂気と肉体的な要素である形魄は分離し、「魂気は天に帰し、形魄は地に帰す」(『礼記』)というような死生観・魂魄観であった。
この考えに対応して、古墳では、遺体は隙間のない棺と槨に納められ、辟邪のための複雑な手続きのもとに、墳丘の内部に密封された。
一方、魂気は、船に乗って他界に赴くと観念されていた。奈良県天理市東殿塚古墳の埴輪にヘラで描かれた、鳥に先導されて他界へと赴く船の絵や、三重県松阪市宝塚1号墳などで造出周辺に置かれた船形埴輪は、その証である可能性が高い。さらに、奈良県広陵町巣山古墳の周濠の底からは、直弧文が彫られ赤く塗られた実物大の船が発見されたが、それは7世紀の『隋書』倭国伝に記された「葬に及んで屍を船上に乗せ、陸地これを引くに…」の船を髣髴とさせるものであった。たぶん当時は有力者が死ぬと、その魂が船に乗って他界へと赴く様子を、葬送儀礼の葬列で擬似的に再現し、屍を船に乗せて他界である古墳へと牽引していったものと思われる。そのためにも古墳の表面には他界が表現されている必要があったのである。古墳は大規模な葬送儀礼を執り行う舞台の一部でもあったのである。
埴輪の役割 ―他界の可視化―
古墳に立てられた埴輪の役割は、他界を目に見えるものとして表現することにあった。
今、墳丘の表面における主要な埴輪の配置を検討すると(図1)、各種の埴輪の配置には一定の約束・筋書があったことがわかる。その大筋は以下のようであったかと思われる。
他界への長い船旅を終えた死者の魂は、他界の出入口で船を降り(船、魂が確実に他界に着いた証)、浄水で禊をし(導水施設などのある囲)、儀礼の場(造出)で儀式を行った後、岩山(葺石で覆われた墳丘)を登り、頂上にある防御堅固で(武器・武具)威儀を正した(蓋)屋敷(家)に住むことになるが、屋敷には、日々、海の幸・山の幸が供えられた(小型土器、笊形土器、食物形土製品)。埴輪列はおもに、飲食物を入れた壺とそれを載せた器台を一体で表す朝顔と、器台である円筒から構成されているが、それは兆域の結界として用いられたとともに、他界は飲食物に充ち満ちていることも表していた。
他界は当時の人々にとっては理想の世界だったのである。古墳の表面は悲しくも賑わいのある華やかな世界だったと推測する。
また、埴輪は、他界の死者の生活に必要なものでもあった。当時、他界での死者の生活に必要な品々は、一部は棺・槨内に納められた副葬品として届けられ、他は、埴輪などとして他界に備えつけられたのである。
埴輪の意味については多くの意見があるが、埴輪はすべて死者に奉仕するものだったのである。古墳時代中期中葉(5世紀前葉)の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)のころになると、これらに人物・動物埴輪が加わった。同様な性格をもつ中国の明器や俑の影響が考えられる。
なお、古墳の表面に他界が表現されているならば、死後の世界を可視的に表現した日本で最初のものとなる。古墳の最大の文化史的・精神史的意味はここにあるとも言える。
おわりに
百舌鳥、古市古墳群の世界遺産としての新しいレベルでの調査・研究・保存・活用等はこれから始まる。ここでは、日本の古墳や埴輪の魅力の一端について述べたが、それらの価値は計り知れず、始皇帝陵やピラミッドにもつながり、それらに優るとも劣らない魅力をもっている。それらをうまく世界に発信することが望まれる。