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Vol.35

Vol.35

わが国の世界遺産登録を顧みて

岡田 保良 / Yasuyoshi Okada
国士舘大学イラク古代文化研究所教授 / 日本イコモス国内委員会委員長

日本が発信する世界遺産リストへの登録(記載)は、1993年に初登録を果たして以来、今回の『百舌鳥・古市古墳群』で23 件、うち文化遺産は19件を数える。最初の10年余りの間、『原爆ドーム』登録の際に世界遺産委員会の議場が一時紛糾したことがあったというが、2004年に登録を果たした『紀伊山地の霊場と参詣道』のころまでは、文化庁のリーダーシップのもと、当該自治体とそれぞれの分野の専門家との連携が奏功して推薦候補が世界遺産委員会で差し戻されることもなく、登録手続きはほぼ順調だった。しかしその後のわが国の世界遺産事情は、登録を果たすというそれまで当たり前のように繰り返されていた事業が決して容易でないことを思い知らされるのである。

 

 

日本の世界遺産一覧(2019年8月現在)

日本の世界遺産一覧(2019年8月現在)

 

 

日本の暫定一覧表記載資産(2019年8月現在)

日本の暫定一覧表記載資産(2019年8月現在)

世界遺産登録、苦難の始まり

毎年世界中から世界遺産の登録を目指して多数の推薦文書がユネスコに提出されるのだが、そのうち文化遺産のカテゴリーにあたる候補については審査をゆだねるイコモスにその文書は送られる。『石見銀山』の登録に「待った」がかかったのは、筆者がイコモス本部の世界遺産パネルと呼ぶ審査会にはじめて加わった2006年のことだった。パネルの結果、イコモスは石見銀山の登録は延期すべしという勧告で世界遺産委員会に臨むことになった。理由を簡潔に記せば、顕著な普遍的価値を示すには調査研究が不十分で、どの評価基準も証明できていないというものだった。これに対して日本は、イコモスのきびしい勧告を本委員会で覆すという、そのころまではきわめて稀な採決に「成功」したのだった。委員国への説明と説得にユネスコ日本政府代表部大使(後に文化庁長官)が自ら奔走したというエピソードとともに当時話題となった。イコモスの勧告を超えたこうした委員会採決は、その後まもなくして常態化するようになり、定番であったはずの登録審査のプロセスを巡って、いまも委員会やイコモス内部で議論と試行錯誤が続いている。

 

石見につづく『平泉』の推薦では、再びイコモスから「延期」の勧告がなされ、このときは国として受け入れざるを得なかった。その詳細は措くとして、含まれる構成資産について少々欲張りすぎた結果だったといえば単純に過ぎるだろうか。勧告を受けて地元と文化庁ではやむなく構成資産を改めて絞り込み、登録に漕ぎ着けたのは最初の推薦から4年を経た2011年のことだった。2013年、『富士山』が辛うじて登録を果たす。他方古くに暫定候補だった『鎌倉』が、同時に推薦されながら不登録の勧告という衝撃を受けて推薦そのものを取り下げている。顕著な文化財を並べ立てた京都や奈良との差異化を目論んで『武家の古都Home of Samurai』というコンセプトで敢えて挑んだものの、イコモスの理解を得ることができなかった。世界遺産のブランド化が進む一方、こうした流れを通じ、登録の実現がいかに容易ならざるものであるか、それを期する人たちの間に広く認識されるようになったことは間違いない。

暫定リスト見直し以後

他方国内では、2008年ころまでに公募にもとづく暫定リストの見直しが一段落し、新たな世界遺産候補が一斉に頭出し競争を始める。宮内庁の了承を得て百舌鳥・古市古墳群もその一団に加わった。『富岡製糸場』『宗像・沖ノ島』『長崎の教会群』も横並びでスタートを切り、一団からまず抜け出したのが富士山だった。とはいえ、三保の松原を省くようにとのイコモス勧告に戸惑っただけでなく、富士山の登録には、登録延期と査定されても仕方ないほど多くの宿題が課せられ、担当した人たちにはまことに手離れのよろしくない世界遺産だった。宗像・沖ノ島でも、イコモスが価値を認めたのは無人の離島で沖津宮が祀られた沖ノ島と付随する岩礁だけで、他の二つの宮と遥拝所、さらに古墳群は不要という、日本としてはきわめて不本意な勧告内容だったため、最終結論はまたまた委員会の議場に持ち込んで勝ち得たものだった。長崎の場合は、現存する離島を中心とした教会群を軸としながらも、4世紀近いキリスト教受容の歴史全体を評価しようと練り上げた理屈がイコモスには通用せず、鎌倉以来の推薦取り下げという道を選ぶことになった。幸いなことに、従来なら世界遺産途上国を対象としていたイコモスと推薦国との直接対話が、新たな試みとしてその直後に実現し、キリスト教潜伏期に重きを置くというイコモスの受け入れ可能なコンセプトを採用することで2018年の登録が実現したのだった。

 

『明治日本の産業革命遺産』も当初は『九州・山口の近代化産業遺産群』という名称で同列に位置していたのだが、文化庁が持て余し気味だったことを受け、推薦書づくりは例外的に内閣官房が仕切ることとなった。注意したいのは、例外は違法でも規則破りでも何でもないという点である。これだけ市民権を勝ち得ている世界遺産だが、その推薦について法的な裏付けのあるルールはなく、しいて挙げれば、ユネスコへの推薦書提出には閣議了解が必要という、2012年閣議決定があるにすぎない。ダムや運河などの巨大土木事業の遺産の推薦を国土交通省が取りまとめることは可能といえるし、広大な田園景観の推薦を農水省が仕切って閣議に持ち込むこともあり得ないことではない。もちろん現実的にはその保存を如何に担保するか、あるいは仮に登録したとしても、ユネスコ対応やモニタリングの実務をそうした省庁が負えるのかという、その後の責任の所在は見定めておかねばならないが。

富岡製糸場と百舌鳥・古市古墳群

2019年5月14日未明のテレビ画像で、文化庁の担当課長さん室長さんらが「イコモスから満点の評価をいただいた」と眠気顔の中に満面の笑みを浮かべていた光景が印象的だった。沖ノ島の場合を想起すれば、巨大陵墓のみ登録の価値あり、などという勧告案が発せられることも、可能性としてはあるのではないか、だとすればどう対応すればよいか、実際のところ関係者間では大いに気を揉んでいたようだが、幸いなことにそれは杞憂に終わった。その折の課長さんたちの言は、5年前の同じ頃にも耳に入っていたことを、筆者は思い出していた。富岡製糸場と絹産業遺産群推薦に対するイコモス勧告が初めて公表された時のことである(写真1)。

写真1 富岡製糸場 東繭倉庫 撮影:著者

そこでこの二つの推薦事例に何か通じるところはないか、満点に近い評価をいただけなかった推薦とどこが違うのかそれぞれを振り返ってみると、特筆してしかるべき共通項があることに思い当たる。一言でいうと、論理のスリム化、あるいは明快化ということになるだろうか。

 

富岡の場合、暫定リスト入りした当時、世界遺産としての価値はまだ漠然としていて、群馬県下の絹産業の中心に製糸場を置くという程度で、関係する資産を10前後連ねていた。しかし何といっても富岡製糸場の存在感はあまりにも大きい。そこでまず、製糸業に直接関係する資産とはいえない、つまりは製糸の先にあるような絹織物や紡績、あるいは倉庫という業態の資産は除き、次いで、蚕種養蚕業でも、取引や研究面で富岡製糸場と直接の関係を証拠立てることのできる資産のみを残すこととした。結局、富岡市の製糸場以外には2市1町に所在する3資産のみが推薦候補内にとどまることになった。しかしその作業は決して容易ではなかった。当初世界遺産に期待を膨らませて協力していた市町村を外していく過程にほかならなかったからである。そういう点では、学術面での調査研究を先行させた点も重要だが、全ての構成資産が一県内にあり、県庁に置かれた担当部局のスタッフの長期にわたる固定と、それによる世界遺産に対する理解度の深化が指導力として有効に働いた点も見逃せない。

 

遺産の種類は全く異なるが、百舌鳥・古市の場合も状況は似ている。宮内庁の所管を別にすれば、構成資産となる古墳群は3市にまたがるため、事務局を置く大阪府の指導力が問われる局面が少なくなかった。ここでも長年にわたって主要スタッフの異動は最小限にとどめられ、学術レベルの向上と指導力の源となると信頼性の維持が図られたように思う。とはいえ、満点に近い成績で世界遺産登録を果たした最大の貢献は、日本考古学の学術レベルの高さに帰されるのではないかと、筆者はみなしている。推薦書の完成、つまりは到達点に至る過程は、日本の古墳時代考古学積年の成果を一層研ぎ澄ませる努力そのものだった。40数基の古墳のうち、天皇陵古墳をはじめ主要な大型墳のほとんどは本格的な発掘成果をもたらしてはいない。そのため、当初は期待された大陸との文化交渉を観点とする評価基準は見送られた。にもかかわらず、墳形と規模の多様性や全国的な調査の蓄積を根拠とした当古墳群の価値の説明が、海外の専門家に対しても十分に説得力があったことを、今回の結果は物語っている。

百舌鳥・古市に求められること

しかし残された課題がないわけではない。イコモスによる勧告に基づいた世界遺産委員会の決議には、8項目の付加的勧告が列挙されている。なかでも、遺産影響評価「Heritage Impact Assessment:HIA」に関する指摘は、近年のイコモス勧告の多くが執拗なまでに強調している項目である。資産のほとんどが密な市街地環境の中にある百舌鳥・古市では、ともすれば箱物への過度な期待が寄せられるかもしれないことに加え、緩衝地帯の建築ガイドラインに懸念を拭いきれないこともあって、このHIAは、今後しばしば惹起される可能性のある課題として留意しておく必要がある(写真2)。

写真2 仁徳天皇陵古墳周辺 撮影:著者

さらに勧告は、予定されている史跡整備基本計画の完成を求めるとともに、墳丘に悪影響を与えない方法でその構造安定性を査定する技術の適用を期待している。前者については英文で「Basic Seibi Plans」と表記されており、私たちが当たり前のように使用する「整備」という単語の意味するところがいまだ十分な理解を得ていないことを示唆する。この問題については、当勧告に先立ってイコモスから追加情報の請求があり、事務局から丁寧な回答を返しているのだが、まだ十分ではないらしい。元の英文推薦書では「整備」をそのまま「seibi」などと用いたことはなく、これは2018年イコモス本部の委託を受けて現地に入った調査担当官が、陵墓とは好対照をなす日本流の古墳整備を目の当たりにし、「seibiとは何ぞや」と問題を提起したことに起因する。日本から考古遺跡を主役として世界遺産としたのは、この百舌鳥・古市がはじめてのこと。日本流の史跡整備が、イコモスが求める「OUVを損なわずに保存活用を図るべし」という勧告に応えているのか、今後、縄文や飛鳥の考古遺跡群が次なる推薦を心待ちにしている状況の中、「seibi」 が注目される国際語になりそうだ(写真3)。

写真3 群馬県保土田八幡塚古墳「整備」状況 撮影:著者

世界遺産がその国その地域の歴史と基層文化を解きほぐすきわめて有力な手掛かりとなることは言を俟たない。これは、世界遺産登録の条件ないしは基準として、個々の資産が、歴史を生きた人々の優れた叡智や創造性、あるいは顕著な文明や文化的伝統の物的証拠でなければならないことを規定していることと大いに関係する。日本を例にとれば、法隆寺や奈良の文化財が、奈良時代や日本の仏教文化の源流を反映し、姫路城は近世武家の社会を投影する。百舌鳥・古市古墳群はいうまでもなく、そこにある巨大古墳の強烈な印象とともに、日本がようやく大陸との関係において国家の形を成し始めた時代の様相を代弁するのである。世界遺産はそうしたものでなければならないし、日本の「Kofun」とその時代が国際社会に認知される大きな契機となるにちがいない。今回の登録の意義として強調しておきたい。

 

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