本誌特集

HOME /  本誌特集 Vol.36「文化財保護法改正II」 /  破壊の危機からうまれたもの -中津市の事例-

Vol.36

Vol.36

破壊の危機からうまれたもの -中津市の事例-

高崎 章子 / Shoko Takasaki
中津市歴史博物館館長

中津城堀沿いの「中津市歴史博物館」 提供:中津市歴史博物館

「文化財の活用」はまず「保護」あってこそ。ここでは中津市が直面してきた文化財破壊の危機と、破壊から保護へ方針転換したことでどのような効果につながったか、二つの例を報告する。

中津市の文化財概観と保護の課題

中津市は大分県の最北端、福岡県との県境に位置する人口約84,000人の市である。市域の80%は山地で「耶馬渓」と称される奇岩の渓谷である。岩窟は祈りの地となり、岩石と渓流がつくる景観は文人墨客に愛され国指定名勝となっている。市内を縦断する山国川河口の平野には条里地割の水田が広がっている。海辺の城下町には黒田官兵衛が築いた中津城跡の石垣が残り、福澤諭吉旧邸や藩医の屋敷が往時の面影を伝えている(写真1、2、3、4)。

写真1 耶馬渓の石柱群「一目八景」 提供:中津市歴史博物館

写真2 岩窟の寺院「羅漢寺」 提供:中津市歴史博物館

写真3 条里水田をめぐる祭祀「鶴市神社傘鉾神事」 提供:中津市歴史博物館

写真4 中津城下町「福澤諭吉旧居」 提供:中津市歴史博物館

これら文化財の保護行政は教育委員会社会教育課が所管する。文化財専門の職員は2020(令和2)年4月1日時点で、正規7名、非正規2名の計9名。2019(令和元)年より、2名の美術専門の学芸員(正規)とともに新設された中津市歴史博物館に配属され、博物館学芸員としての仕事と文化財保護や調査の仕事を分担して行っている。

 

中津市が直面する一番の課題は「高齢化、過疎化で文化財を守る人がいない」という全国共通のものである。国や県の補助金を一時的にうけても、有形無形の文化財を維持管理する解決策にはならず、未指定まではなかなか手がまわらない。そこに、近年頻発する自然災害により、名勝耶馬渓の広大な範囲における現状変更の処理と文化財崩壊の危機が増大している※1。業務量に対して慢性的な人員不足であるにも関わらず、市の中で文化財保護業務は決して優先順位の高いものではない。

 

改正された文化財保護法には趣旨に「文化財をまちづくりに活かしつつ、地域社会総がかりで、その継承に取り組んでいくことが必要」※2と記されている。求められているのは「イベント的活用」ではなく、「継承につながる活用」である。それにはまずベースとして「保護こそが活用につながる」という認識が地域住民に根付く必要があるだろう。文化財担当ができることは何なのかを考えつつ、以下、破壊の危機から保存へと舵をきった文化財がどのような効果をもたらしたのか、中津の二つの事例をご紹介したい。

事例1:「整備」という破壊からの転換―中津城石垣―

2000(平成12)年、中津市は国交省の「まちづくり総合支援事業」を活用して「城下町の風情を持ったまちづくり」を進めていた。戦後埋め戻された中津城の内堀は、一部が沼地化し草木に覆われていた。中津城石垣は「改築され当初の状態では残っていない」というのが通説で、文化財としての調査は行われていなかった。市は、往時のような水堀を復活させることとし、未調査のまま石垣を解体し新たな石で積み直す計画をたてた(写真5)。

写真5 修復前の中津城の堀と石垣 提供:中津市歴史博物館

2001(平成13)年秋、その計画に文化財側が気づいた時、市は石垣解体業者との契約を終えていた。急遽現地にかけつけてくれた学識経験者の方々から「黒田官兵衛が築いた九州最古の近世城郭の石垣である」との評価をいただいたが、その時すでに11月。事業は国交省補助金の繰越予算であり、3月末までの事業完了が義務づけられていた。「私達には九州最古の石垣を壊す権利はない。未来のために『ほんもの』を残すべき」との文化財側の突然の主張は受け入れられるはずもない。ここまで未調査でいた文化財側の責任は重く、「今頃言うな。補助金返還は出来ない」との事業担当課の叫びはもっともである。しかし、あきらめた途端石垣は取り壊される。いくども議論を重ね、補助事業として成立できる計画変更を探りその都度調査を繰り返し、ついに市の上層部も納得し「石垣保存を前提とした工法」へ大きく方針を転換した。そこから調査とともに石垣の価値を落とさない修復工事につとめた結果、皆が「残せてよかった」と満足な気持ちを抱き数年がかりの工事が完了した(写真6)。

写真6 修復後の中津城の堀と石垣 提供:中津市歴史博物館

幸運なことに2014(平成26)年のNHK大河ドラマに「軍師官兵衛」が決定し、市は「官兵衛の石垣が残る町」としてPRをした。水を抜いた堀底から黒田の石垣を見る見学会を開催した際には多くの人が訪れた。

 

その年、市は修復した石垣前に中津市歴史博物館を新設する計画をたて、2019(令和元)年開館の運びとなった。設計で気を配ったのは、「石垣の眺望を最大限に活かすこと」である。石垣側を総ガラスにし「眺望ラウンジ」やカフェを設置。「石垣シアター」は石垣を深掘りする内容にこだわった。映像が終わると目の前のスクリーンが上がり、野面積みの石垣が現れる仕掛けは好評で、そのまま外にでて石垣の撮影をする方も多い(写真7)。また石積み体験用の立体模型を常設し、本物の小さな石を使う石積み体験も開催している。来館者に石積み指導をしているのは、かつて文化財担当に苦しめられた石垣解体業者(=修復業者)の元現場監督である。

写真7 石垣シアターからの眺め 提供:中津市歴史博物館

博物館では折に触れ「目の前の石垣が当館一の展示物です。かつて破壊される運命にあった石垣は、保存が活用につながることを象徴しています」と伝えている。石垣修復への流れは、毎年市の新入職員研修で話をしてきたが、今後は博物館でパネル展示での常設を予定しており、学校での出前授業でも取り上げる計画となっている。「壊さなかったから、この石垣があるんだ」と、市内の子どもたち皆が語れるようになることが目標である。

事例2:自然災害からの再生―馬溪橋―

2012(平成24)年7月の九州北部豪雨は耶馬渓に甚大な被害をもたらした。記録的な大雨により、各所で川が氾濫し集落が浸水した。その中で1923(大正12)年架設の五連石橋アーチ橋「馬溪橋」は、欄干と橋脚の一部が破損したものの本体は良好な強度を示していた。しかし、馬溪橋は洪水の主原因とみなされ、周辺住民より「石橋を壊し橋脚の少ない現代の橋に架け替えてほしい」という要望書が県知事と河川事務所長宛に提出された(写真8)。

写真8 九州北部豪雨時の「馬溪橋」 提供:中津市

ただ橋は国指定名勝耶馬渓の構成文化財であり、簡単に撤去が許されるものではない。河川事務所の見解は「橋を残したままの改修工事は不可能」。当時の情勢では撤去は事実上決定事項であったが、文化財側は「橋を残した上での洪水対策はできないのか」と訴え「命と文化財どっちが大事なんだ」との批判をあびた。しかし、橋のみに目をむけ、さまざまな要因を追究し対処しなければ、また同様に被災することにならないか。こうして文化庁、国交省、県、学識経験者の方々と研究、協議を重ねた結果、橋のみが洪水の原因ではないこと、対策の余地があること、橋をかえることに集中するのではなく、今後の想定外の事態に備え住民避難等のソフト対策も含めた総合的な防災対策をとる必要があることへの理解がすすんだ。災害から2年5カ月後の2014(平成26)年11月、市は「馬溪橋を残した上での河川改修工事」の方針を決定。国交省側も同意し、橋を残した改修方法(河床掘削や堆積土砂除去、流木対策、堤防設置などで流下断面を拡大)をとり、馬溪橋は生き延びたのである。

 

さらに、市は馬溪橋のある平田集落をモデル地域として、橋とともにある未来を描く「名勝耶馬渓 馬溪橋周辺整備活用マスタープラン」※3を2015(平成27)年12月に策定した。庁内各課と県と国も参加して、防災・流木対策・観光・文化財等多方面から対策を考えたものである。橋を残したことで、国・県・市・住民が集まり防災や地域活性化についての話し合いが定期的に開催されるようになった。住宅移転で生まれた川沿いの土地は集落を訪れる人達のための駐車場となり、橋は平田集落への導入路として耶馬渓の景観の中で強い存在感を放っている(写真9)。

写真9 河川改修後の馬溪橋 提供:中津市歴史博物館

日本遺産認定から地域で守る組織の誕生へ

苦しい思いをして石橋を残した地域に光をあてたい……その思いが発端で日本遺産のストーリーづくりがはじまり、2017(平成29)年4月、大正時代に鉄道が通り石橋が架けられ耶馬渓が観光地となっていったストーリー「やばけい遊覧〜大地に描いた山水絵巻の道をゆく〜」は日本遺産に認定された。馬溪橋、平田集落、橋をつくらせた人物の邸宅「平田家住宅(以後平田邸)」は日本遺産の構成文化財となった。橋の保存と日本遺産認定により地域の動きは活発化した。文化財の保存会の発足、草刈り、自主的なイベント開催……地元高校生がつくったパンフレットは集落の観光看板となった。

 

日本遺産で観光客は増えたものの※4、私達は一度立ち止まり地域の声を聞くことにした。子どもから大人まで誰でも自由に地域の未来を語る100人規模のワールドカフェを三度開催し、「たくさんの観光客が押し寄せなくてもいい、地域の宝をしっかり伝えていけるふるさとがいい」という声が多勢を占めることに気づかされた。成功の指標とされる「たくさんの観光客・インバウンド」は必ずしも求められる未来ではない。「保護と調査」に集中していた文化財担当が日本遺産を機に「活用」という視点で地域と向き合うようになったことは決してマイナスではなかったと思う。

 

その後、日本遺産事業で出会った地域メンバーが中心となり、ストーリーの核となる平田邸を守り伝えるための「平田邸活用推進協議会」が発足した。この住宅は豪邸ゆえに維持管理の問題がクリアできないでいたものだ。協議会による邸宅の掃除、庭の草刈り、邸宅の公開イベント……平田邸の活動と並行して、平田邸ゆかりの古い郵便局の活用もはじまった。地域だけでなく、外からも人が集って、平田集落全体の活用を考える流れへと徐々に変化してきた(写真10、11)。

写真10 馬溪橋をつくらせた平田吉胤氏の邸宅「平田邸」 提供:中津市歴史博物館

写真11 平田氏庭園での協議会イベント 提供:中津市歴史博物館

「稼ぐ」ことへのハードルは高いが、地域の活発な活動は行政を動かす。観光・まちづくり・文化財担当がオブザーバーとしてかかわり、協議会は国交省や中津市の補助金、中津玖珠日本遺産推進協議会交付金を活用して、トイレ・Wi-Fiの整備、HPの製作を行った。メンバーは平田邸だけでなく広域の文化財保護と活用へ目線を向けている。橋の保存問題にゆれた集落が、地域活性化のモデルケースとして育っていくのが今はとても楽しみである。

「保護」にかかわる市民を増やす

2019(令和元)年11月、中津市歴史博物館開館時の企画展「未来へ伝えたい中津の宝―学芸員こだわりの文化財展―」は、各学芸員が顔写真入りで専門分野ごとに「未来へ伝えたい中津の宝」を紹介するもので、文化財保護への思いを表現し好評を得た。私は平田邸を取り上げ、協議会に同時に開催してもらった平田邸のイベントへ観覧者を誘導した。地方の小さな博物館ゆえ派手な展示はできなくとも、文化財の課題に日々直面している文化財担当の思いを展示や企画に反映できる。文化財担当にとって、博物館業務の増加は負担にはなっているが、各分野の学芸員が一つの部屋に集まり、日々話し合いながら調査成果を展示や体験学習に活かしていくことに、新しいやりがいと今後への手ごたえを感じている。将来人員が増えたとしても、文化財保護の問題に対峙する担当者の思いが博物館の運営に反映される体制は維持すべきと考えている。

 

博物館では開館前から学校と連携し、学校教育に博物館をスムーズに活かしてもらうための取り組みを進めてきた。また12年目を迎えるアーカイブズ講座※5では、学生や市民に向けて資料の保存や修復技術のセミナー、襖の下張り文書を剥がし資料化するまでの実習を開催し、市民有志には古文書整理作業に携わってもらっている。自然災害が頻発するであろうこれからは、文化財防災や保存事業に市民の力を借りる時代となるだろう。文化財保護に接する機会を提供すること、「本質的価値を大切にした文化財保護が描く未来」をイメージさせることが保護にかかわる市民を増やすことにつながるのではないか。かかわる市民が増えれば、行政も無視できなくなる。これからの文化財行政に欠かせない部分になっていくと感じている。

PAGE TOP