レポート

HOME /  レポート /  古代エジプト埋葬文化の周縁1-ナイル川と死者-

考古学

古代エジプト埋葬文化の周縁1-ナイル川と死者-

和田 浩一郎 / koichiro WADA

國學院大學文学部史学科兼任講師
早稲田大学エジプト学研究所招聘研究員
国際文化財株式会社

古代エジプトの埋葬と聞いて、色鮮やかな墓壁画やミイラ、金色に輝く副葬品の数々を思い描く人は多いだろう。だが現実にこうしたものの準備を整えて死を迎えることができたのは、社会の上位にいるごく一握りの人々だった。長いあいだ古代エジプト研究は、こうしたステレオタイプのイメージに結びつく、エリート文化の究明に偏重していた。しかし近年では、このような研究のあり方に対する反省から、もっとバランスのとれた古代エジプトの社会像を描き出そうという気運が高まってきている。私もそのような問題意識を持って研究を行っている一人である。

 

拙著『古代エジプトの埋葬習慣』(ポプラ社、2014)のなかで、私は「庶民」の埋葬を紹介することを試みた。括弧付きの庶民としているのは、考古学的に確認できる事例が、農民を中心にした平民階層をどこまで含んでいるか不明瞭なためである。墓地で確認される死者の数が、地域内の死亡者数を十分に反映していると判断できる例は極めてまれであり、それは正規の墓地に埋葬されなかった人々が少なからずいたことを物語っている。消えてしまった人々の葬法として、私は古代エジプトにも水葬があったのではないかと考えている。

 

古代から現代に至るまで、遺体や遺灰を川に流す習慣は世界各地に見られる。とりわけインドのヒンドゥー教徒が、神聖視するガンジス川に死者を委ねることはよく知られている。しかし古代エジプト人の一般的価値観からすると、このような葬法は信じがたいものだったに違いない。彼らにとって肉体(遺体)は来世で再生するための不可欠な要素であり、墓室に厳重に保存しておくものと考えられていたからである(図1)。遺体の重要性は、古代エジプト王国が成立する1000年以上前から、ミイラ製作が行われていたことからも窺われる。

図1 人間の構成要素 著者作図

水葬を異常な行為とみなし、川と死者の結びつきを不吉なものと捉える感覚は、古代の文字史料の中に認めることができる。『イプウェルの訓戒』という文学作品は、古代エジプト人自身が水葬に言及したおそらく唯一の史料だが、王国が分裂状態にあった第一中間期(紀元前2180〜2040年ごろ)という時代の悲惨さを伝える描写として、ナイル川に多くの人が葬られている様子が述べられている。また『ウェストカー・パピルス』の名で知られる魔術士の物語では、不貞を働いた神官の妻が火刑に処せられ、その灰をナイル川に流すことが王によって命じられている。水葬ではないが、川での死がネガティブなものと考えられていたことを示す史料として、『エドウィン・スミス・医術パピルス』を挙げることができる。この史料には、病気や怪我をもたらす「ムウト」と呼ばれる悪霊が、川で溺死した者やワニに襲われて命を落とした者から生じるという記述が認められる。

 

このように見ていくと、古代エジプトにおける水葬はかなり例外的な葬法と感じられるかもしれない。しかしこうした文字史料は、「正統な」葬送観念に従っていた識字者層によって残されたものである。庶民が自分たちの現実に即した、異なる解釈を持っていなかった証明にはならない。興味深いことに、『エドウィン・スミス・医術パピルス』と真逆に思える習慣が、ヘロドトスによって記録されている。それによると川で事故死した者は、その遺体が発見された土地の人々によってミイラにされ、神聖な墓所に、可能な限り丁重に埋葬されたという。このような習慣が実際に存在したのであれば、川と死者の結びつきには時代や地域による相違が存在していたことになる。そして水葬を肯定的に捉える見方が存在していた可能性は、識字者層が残した文字史料や図像資料の中にも見いだすことができる。

 

新王国時代(紀元前1550〜1070年ごろ)に主に王墓に記された、『アム・ドゥアト書』という宗教文書がある。これは太陽神が日没に死を迎えてから地下世界を移動し、次の朝に再生した姿で東の地平線に現れるまでの道程を、12の章(時間)で記述したものである。その第6時には、地下世界の最深部が登場する。そこは太陽神が世界を創造する前に存在していた、「ヌン」という原初の海が水面をのぞかせる場所と考えられた(写真1、2)。地下世界の底までやってきた太陽神は、自らを生み出したヌンから新たな力を得て再生し、東の地平線に向かう旅を続けるのである。この描写からわかるように、古代エジプト人は神を含むすべての生命はヌンから生じると考えていた。

写真1 地下世界の底に横たわる太陽神の肉体 (『アム・ドゥアト書』第6時) 撮影:著者

写真2 太陽神の船を持ち上げるヌン 撮影:著者

世界が創造された後もヌンは世界を取り巻いており、すべての海と川はヌンから発すると古代エジプト人は考えた。これは現世を流れる川、彼らの生活の根幹をなすナイル川にもヌンの生命力が宿っていることを意味する。そうであるならば、ナイル川における水葬は、太陽神にならって死者をヌンに浸す行為と解釈することができたのではないだろうか。この推測を裏付けるように、『アム・ドゥアト書』やその類書である『門の書』では、ヌンの中をただよう死者の姿が描写されている(写真3)。

写真3 ヌンの中をただよう死者たち 撮影:著者

もちろん庶民は、このような宗教文書の内容を把握してはいなかっただろう。だがナイル川が人間や動植物の生命を支える大きな存在であることは、その流域に住む者には自明のことだったと言える。その意味で上述したような世界観は、古代エジプト社会全体で共有されていたと考えることができる。ナイル川に死者を委ねることは、来世での再生を放棄したのではなく、エリート層とは異なるかたちで来世への望みを実現しようとした意志の表れと捉えることができるのではないだろうか。

公開日:2016年1月13日最終更新日:2017年11月27日

和田 浩一郎わだ・こういちろう國學院大學文学部史学科兼任講師
早稲田大学エジプト学研究所招聘研究員
国際文化財株式会社

1968年青森県生まれ。英国・スウォンジー大学古典古代史学部大学院修士課程、國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。博士(歴史学)。2016年より国際文化財株式会社に所属。著書に『古代エジプトの埋葬習慣』(ポプラ社、2014)、『古代オリエント事典』(日本オリエント学会編、岩波書店、2004)など。