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動向

エジプト文化遺産の現在(いま)-「アラブの春」から生じた混乱ー(3)

長谷川 奏 / So HASEGAWA

早稲田大学総合研究機構客員教授

社会サービスと住民モラルの低下がもたらす影響

写真1:カイロ市の歩道を走る⾞とバイク 撮影:⻑⾕川奏

2011年に起きた「アラブの春」以後、エジプトは無政府状態になり、町から突然警察官がいなくなった。2011年3月には警察は名目上は社会に復帰したが、長年ムバーラク政権ではばをきかせてきた秘密警察は解体され、なんと「国民に奉仕する組織」となった。その折を狙って、ボルタギー(やくざもの)の横暴な振る舞いが横行した。ボルタギーは、カイロ市近郊では空き家になっているアパートに入り込んで一方的に占拠し、アレクサンドリア等の別荘地でも同様の無法を行い、都市環境を大きく劣化させた。就職難、物価高、生活苦、政治家の不正蓄財への不満等が一気に爆発したことは、30年続いた長期政権を倒す原動力ともなったが、その一方で、自由と無秩序を混同する若者の振る舞いが社会の至る所で目立っていった。正規の路線の混雑を待てないという理由で車とオートバイが気ままに歩道を走るといった無法な振る舞いは政変後に激増し、日常的な風景となった(写真1)。こうした綱紀の緩みは、交通の事故を初めとして、社会のさまざまなところで顕在化した。鉄道事故では、2012年11月に上エジプトのアシュート市でスクールバスに乗った52名の学童が踏切横断中に犠牲になった事故が痛ましい。自動車事故はエジプト全土で恒常的に起こっており、1,000kmにおける事故率が世界平均では20名であるのに対し、エジプトは10倍以上の222名を数えるほどの、世界的に悪名高い事故大国であり、薬物吸引の運転手が引き起こす悲惨な事故もあとを絶たない。

写真2:ゴミ投棄の場となったオスマーン朝建築(ラシード遺跡)撮影:⻑⾕川奏

社会的なサービス能力の低下は、こうした庶民のモラル低下と不可分に連動する。政府による運河の浚渫作業やごみの収集作業は停滞し、まちの中の空き地や歴史的な建造物が建つような人間活動が希薄な場はごみ投棄の場となり(写真2)、灌漑運河にはごみがうず高く堆積していった。こうした衛生環境の劣化は、本来ならば安全であるはずのミネラルウォーターの生産や、化学薬品を多く含む餌をもとしにて生産された養魚場の魚や乳牛から取れたミルクの品質劣化も顕在化した。またこうした問題は、生産物の安全性だけでなく、自然環境の保護とも深く関わっている。東方砂漠やシナイ半島など、エジプトは豊かな自然環境に恵まれているが、そのうち、地中海沿岸部は多くの野鳥が飛来する場として知られ、1994年の保護法や2009年の改正法によって、これらの野鳥の狩猟には厳しい制限がかけられてきた。それが2011年の「アラブの春」以降には、「ここには政府は無く、居るのはベドウィンと銃と違法薬物である」と言われるほどの無法な密猟の場になった。狩猟者の特にお気に入りの標的は、食料用としても高く売れるウズラや、湾岸ではよく狩猟用に飼育される鷹などであるという。また中東アフリカの架け橋であるエジプトは、アフリカの密林で行われる象牙や猿類の密猟の中心的なハブとなっている状況が報じられた。これらは、ケニアやタンザニアといったアフリカの中央部やカメルーン、象牙海岸といった西アフリカからスーダン等を経由してカイロに齎され、それがさらに湾岸やアジアに拡散している現実が、2012年月にカイロ空港の税関で捕縛された密輸集団から改めて知らされることとなった。

写真3:政府によって取り壊された違法建築(カイロ市郊外) 撮影:⻑⾕川奏

違法建築はエジプト全土で進行したが(写真3)、文化遺産の遺跡景観と深く結びつく問題の地区の一つがギザ地区であろう。カイロの中でも砂漠地域に近いエリアは、50年ほど前には緑の田園が広がっていた地区であるが、この地区に違法建築の建物が、10万軒以上も乱立した。これらは概ね、建築素材である赤い煉瓦づくりの壁体がむき出しになっているもので、屋根には鉄筋が付き出たままになっているものが多い。これらの違法建築は2つのパターンがみられる。一つは居住空域の床面積を大幅に拡大するものであり、もう一つが本来は禁止されている農地に建造物建設を行うものだ。特に後者の進行は深刻であり、2011年の「アラブの春」以前は毎年の農地消失が1,200haだったのが、政変以後のたった3年間で60,000haが失われたと言われる。エジプトは古来より豊かな農業立国として知られていたが、現在では農業生産が人口増大に追いつかず、世界的な小麦輸入国に転落している。それにさらなる農地の喪失が襲っている。多くの住民が住宅地の供給を欲しているものの、政府から供給される住宅価格が住民の生活水準と大きく乖離している現実があり、治安が喪失されてからは、多くの建設者が自治体に贈賄を行うことによって建設が進められているという。政府の側も、これらの全ての案件に警察を出動させるゆとりもなく、これまでのところごく僅かな対象が撤去されたにすぎない。

ポートサイド市には、19~20世紀の近代建築が多く残っている。スエズ運河が開通したのは、1867年であるが、1858年にスエズ運河会社は、既に労働者用の小住宅建設プロジェクトに着手しており、翌年にはオーストリア・ハンガリー帝国が中心となって中央ヨーロッパから、またオスマン帝国下の中央アナトリア等から、多くの木材が運ばれて、住宅建設が始まった。スエズ運河が完成した後には、ギリシア、イタリア、マルタ等の地中海沿岸や、オーストリア、トルコ等から、多くの商人や建設事業関係者らが居住した。これらの住宅の特色は、ニューオーリンズやセントルイスといったアメリカ、東インドや西インド、西アフリカのセネガル等のさまざまな地域で特徴的なベランダを持つものである。1921年には建築条例でこうしたベランダ建築は禁止されたが、豊かなベランダ建築が残る建築遺産はスエズ運河建設直後の活気を物語る。これらの建造物は、欧米では、「ヨーロッパ・地中海遺産(Euromed-Heritage)」と称され、ヨーロッパ共同体EUとエジプト政府CULTNATによる保存修復プロジェクトも進められており、ポートサイド市の文化遺産協会は、505件の重要な遺産を登録しているが、2011年の政変以後の騒乱以後に、その15%が失われたという。

アレクサンドリア市では赤レンガ作りが特徴的なアギオン邸(1927年にフランスのペレ兄弟が設計)は、20世紀前半に活躍したイギリスの作家で『アレクサンドリア四重奏』の著者として知られるロレンス・ダレルの邸宅であった。1996年にそれまでの所有者から新たな管理者に移ったが、その段階で邸宅は住めるような状況になっておらず、また修復して直るような状況でもなかったといわれる。邸をどうするかは、査察官を務める市民の技師が判断するとされたが、その結果は「所有者が望む取り壊しが可能」という結論になり、さらにアレクサンドリア市の遺産登録からはずされる判決がなされ、取り壊しが実行された。所有者はダレルの邸宅であった価値を充分理解していたといわれるが、政府が何らかの援助をすること、もしくはダレル愛好家が何らかの処置を講じることを期待していたものの、何らそのような策が講じられることがなかったことが、最終的な取り壊し許可の判断に繋がったという。このように、2011年の政変以降には、開発の息吹が保護の最も脆弱な近代遺産に向けられており、アレクサンドリアでは近代建築遺産の70%が失われたと言われる。

公開日:2017年8月8日最終更新日:2017年8月8日

長谷川 奏早稲田大学総合研究機構客員教授

考古学者(文学博士)。早稲田大学エジプト学研究所准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター長を経て現職。専門は古代末期の物質文化研究と中東の文化財保存史。著書に『図説・地中海文明史の考古学』(彩流社 2014年)、「遺跡の破壊と保存活動」鈴木恵美編著『現代エジプトを知るための60章』(明石書店 2012年)等がある。