考古学
古代エジプトの装身具
装身具の種類
古代エジプト人は、日常生活や葬送に際して頻繁に装身具を利用しました。彼らがどのように装身具を使っていたのかを知るためには、考古遺物に加え、壁画や彫像などに描かれた図像資料も大きな手がかりとなります。たとえば、中王国時代(前2055〜1650年頃)には、魚の形をした金・銀製のペンダントが流行しましたが、これは壁画や石製小像における表現から、女性・子どもが髪飾りとして利用していたと推測できるのです(図1)。考古・図像資料をもとに装身具の種類を挙げてみると、頭飾り、髪飾り、耳飾り、首飾り、指輪、腕輪、腰飾り、足輪など、あらゆる装身具が存在したことが分かります。そして、これら各装身具のデザインは、それぞれさらに豊富だったのです。
図1. 魚形ペンダントの実物と壁画における描写(Walters Art Museum: http://art.thewalters.org/detail/489/nile-catfish/(左)、筆者による描画(右))
様々な装身具が利用された古代エジプトにおいて、特に重要視されたのは、首や胸部を飾るものでした。その中で、古代エジプトに特徴的な装身具の一つとして挙げられるのが襟飾りです。襟飾りとは、大量の円筒形ビーズを何段も連ね、その両端をターミナルと呼ばれる大型のビーズで固定した装身具です(写真1)。襟飾りは、その形状をほぼ保ったまま王朝時代を通して存在し、木棺やミイラマスクに頻繁に描かれる装身具としても知られています(写真2)。また、襟飾りと同じく古代エジプトに特徴的な装身具として、ペクトラルが挙げられます。これは、方形や祠堂の形をした大型のペンダントで、首にさげて使われました(写真3)。考古遺物として見つかった最古の例は、中王国時代に年代付けられます。王女の墓から見つかったそのペクトラルは、精巧且つ美しい装飾が準貴石1)の象嵌によって施され、古代エジプトの装身具の中でも最高傑作と言われるほどです。新王国時代(前1550〜1069年頃)になると、ペクトラルは王族以外の墓から見つかるようになり、ファイアンスなど比較的安価な素材でも作られるようになります。より大衆的な装身具に変化したと言えるでしょう。同じ種類の装身具でも、時代によってそれらを取り巻く様相は変化していったと考えられます。
写真1. 中王国時代の墓から出土した襟飾り(Metropolitan Museum of Art: https://metmuseum.org/art/collection/search/544168)
写真2. 箱型木棺の内側に描かれた襟飾り(カイロ・エジプト博物館にて筆者撮影)
写真3. 中王国時代の王女の墓から出土したペクトラル(Metropolitan Museum of Art:https://metmuseum.org/art/collection/search/544232)
古代エジプトの装身具には、現代と同じように「流行」がありました。中でも、耳飾りは外国の影響を受けて第二中間期(前1650〜1550年頃)から利用され始め、一気に広まる装身具です。次第に女性だけでなく男性も利用し始め、王までもが耳にピアスの穴をあけるようになりました(Andrews 1990: 109-111)。また、古代エジプトには指輪も存在しましたが、中王国時代まではさほど一般的な装身具ではありませんでした。中王国時代には、スカラベ形護符を留めた指輪が主なデザインでしたが、新王国時代になると、デザイン・素材ともに豊富になっていくのです。特に、ファイアンス製の指輪が鋳型(mould)によって大量に生産され、植物やウジャトの眼などをモチーフとする指輪が広まりました。新王国時代は、ファイアンスの製作技術が大きく進歩した時代で、それが装身具製作にも影響したのです。それまでとは異なり、多彩色のファイアンスが装身具に使われることで、装身具のデザインにも大きな変化が生まれました。このように、古代エジプトにおける装身具の流行には、外国からの影響や製作技術の変化がその要因の一つとして挙げられるのです。
中王国時代における襟飾りの利用
古代エジプトの歴史の中でも、とりわけ装身具製作の技術が高かったと言われるのが中王国時代です。ファイアンスによる大量生産とは違って、準貴石や金・銀が用いられた非常に精巧で美しい装身具がいくつも作られました。たとえば、リシェト遺跡に埋葬されたセネブティシという女性は、紅玉髄やトルコ石、金などが豊富に用いられた頭飾り、髪飾り、首飾り、襟飾り、腕輪、腰飾り、足輪とともに棺に入れられていました(Mace and Winlock 1916)。中でも襟飾りは3点副葬されており、重要視されていたと言えます。
中王国時代の襟飾りをよく見てみると、実用性の無いものがあることが分かります。襟飾りを首にさげるためには、ターミナル先端の穴に紐を通し、それを首の後ろに回して結ぶ必要がありますが2)、ターミナルにその穿孔がされていない場合があるのです。つまり、これらは現世で身に着けることがそもそも想定されていないということです。また、襟飾りは、中王国時代の埋葬に使われた人型木棺やミイラマスクに必ず描かれることが分かっています(写真4)。以上のことから、襟飾りは現世における単なるおしゃれとは異なる意味合いを持っていたと考えられるのです。無事に来世へ辿り着くために、必要とされたものの一つだったのではないでしょうか。そして、中王国時代の墓における襟飾りの出土傾向を分析した結果、地域によって違いがあることが分かりました(山崎 2016)。当時の中心地域であった北部のメンフィス・ファイユーム地域でのみ主に利用されていたのです。図像としてはエジプト全土で見られる襟飾りですが、実際に所有できるかどうかは、地域あるいは社会階層によって差異が生じていたと考えられます。
おしゃれの道具として日常的にも使われた古代エジプトの装身具ですが、中には宗教的背景や当時の社会状況を強く反映したものが存在したと言えます。これらを丹念に見ていくことで、当時の社会を新たな視点から復元できる可能性もあるでしょう。
写真4. 襟飾りが描かれたミイラマスク(カイロ・エジプト博物館にて筆者撮影)
注
(1) | 準貴石とは、ダイヤモンドやルビーなど貴石とされる以外の宝石(鉱物)を指すが、明確な定義分けはされていない。ここでは、紅玉髄、ラピスラズリ、トルコ石、アメジスト、石榴石、緑柱石、瑪瑙、碧玉、水晶を総じて準貴石とする。 |
(2) | バランスをとるために、首の後ろに錘がさげられる場合もある。 |
参考文献
山崎世理愛 2016「エジプト中王国時代における襟飾りの副葬:図像表現との比較から見た副葬品選択の一側面」『西アジア考古学』第17号、日本西アジア考古学会、149-167頁。Andrews, C. 1990 Ancient Egyptian Jewellery, London.
Mace, A.C. and H.E. Winlock 1916 The Tomb of Senebtisi at Lisht, New York.