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遺跡・史跡

特別史跡 加曽利貝塚 (千葉県千葉市)

佐藤 洋 / You SATOU

千葉市立加曽利貝塚博物館 学芸員

加曽利貝塚 航空写真(平成8年撮影)

加曽利貝塚は昨秋に貝塚として初めての特別史跡に指定された。加曽利貝塚は明治期より多くの人類学者が足を運ぶなど「本邦第一の貝塚」として広く知られていた。土器研究においては、山内清男、宮坂光弐等による発掘において、加曽利E式・B式が設定されただけでなく、日本で初めて土器の変遷が層位的に確認されるなど、その後の縄文土器研究の基礎を築く契機となった。

遺跡の保存においては、郷土史家である武田宗久が保存の必要性を提起したことを契機に市民による保存運動が拡がり、国会でも議論が繰り広げられるなど、その後の文化財保護の在り方に一石を投じたことが特筆される。博物館を含む遺跡全体は「野外博物館」として遺跡そのものを保存し見学することができる「貝層断面観覧施設」等の野外施設が整備されている。また、全国に先駆けて土器の製作技術研究がすすめられ、その成果は全国の博物館等で行われている土器づくり等に活かされている。遺跡そのものの重要性に加え、日本考古学の発展に大きく寄与してきた遺跡としても極めて高い評価を得ている。

特別史跡に初めて指定された貝塚

加曽利貝塚は平成29年10月、貝塚として初めての特別史跡に指定された。縄文時代の遺跡としては、尖石石器時代遺跡(長野県茅野市)、大湯環状列石(秋田県鹿角市)、三内丸山遺跡(青森県青森市)に次いで4例目となる。特別史跡とは「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」と規定されており、遺跡の国宝に相当する。まさに日本の歴史を語るうえで欠くことのできない「貝塚」の代表として、加曽利貝塚は特別史跡に指定された。

貝塚とは何か?

一般的に「貝塚」と聞くと、「縄文人のゴミ捨て場」を連想する方が多いのではないだろうか。貝塚には、縄文人が食べた食糧の残滓(ざんし)である貝殻や動物、魚の骨などの他、壊れた縄文土器や石器、骨角器などがまさに山のように積み重なった状態で残されている。この状態だけ見るとゴミ捨て場であることは間違いない。しかしながら、自分たちが暮らしている場所に高さ2mを超える貝の山を築くだけでなく、その場所に亡くなった人や飼っていた犬のお墓を作っていることなどを考えると、ただのゴミ捨て場とは言い難い。縄文人にとっては意味のある行為として、大切な場所として構築されたと考えることができる。貝塚の意味についてはこれまでに多くの議論がなされ、多くの説が提唱されてきたが、いまだ確かな答えには至っていないが、少なくとも縄文の人々が意図的に作った場所であることは確かであり、縄文時代における一種の記念物(モニュメント)的な性格を持つことも確かととらえることができよう。

そして幸運なことに、貝塚はアルカリ性である貝殻のカルシウム分が酸性の土壌を中和し、通常の遺跡では分解され残らない貝や骨などの動物遺存体を良好な状態で保存してくれることから、貝塚を調べると縄文人骨はもとより、当時の食生活を解明することができる。まさに我々の祖先である縄文人が残したタイムカプセルと言えるのである。

加曽利貝塚の価値

加曽利貝塚は、直径140mで環状を呈する北貝塚(縄文時代中期)と、直径約190mの馬蹄形を呈する南貝塚(縄文時代後期)を含む集落遺跡である。北貝塚と南貝塚は継続して構築されたと考えられ、2つの貝塚が連結して「8字」状の平面形を呈することが特徴的である。時期の異なる2つの大型環状貝塚が継続して構築された例は他になく、およそ2,000年におよぶ長い期間、継続して集落が営まれていたことが明らかとなっており、東京湾東岸に集中する大型環状貝塚はもとより、全国的に見ても最大級の貝塚である。貝塚構築以前は縄文時代早期にまで遡り、貝塚の構築が終了した後の縄文時代晩期まで、各期の遺構が発見されている。遺跡の面積は20haを超え、現在約15.1haが特別史跡として保存されている。

遺跡の概要を明らかとする目的で、これまでに試掘・確認調査を含め14次37地点の発掘調査が行われているが(戦前の調査は除く)、総調査面積は約14,000㎡と全体のおよそ8%にすぎず、残りの92%はほぼ手付かずの状態で保存されている。多くの遺跡がその姿を失いつつある中、遺跡のほぼすべてが良好な状態で保存されていることは他に例を見ない貴重な財産と言えるだろう。

加曽利貝塚の全体図

①近代考古学の発展に寄与

明治10(1877)年にエドワード・S・モースによる大森貝塚(東京都品川区)の発見によって、日本の近代考古学は幕を開ける。その10年後である明治20(1887)年、上田英吉が「下総国千葉郡貝墟記」(人類学雑誌)を発表し、加曽利貝塚の名が初めて学界に登場する。明治40(1907)年には、東京人類学会の遠足会で多くの学者が加曽利貝塚を訪れ、初めての発掘調査が行われた。しかしながら、明治から大正期にかけての発掘調査は、人類学者が日本人のルーツを探るため古人骨が良好な状態で保存されている各地の貝塚を訪れ、人骨とともに珍品ばかりを掘りあさるといった状態であり、考古学的な発掘と呼べるものではなかった。それでも、繰り返し多くの学者が加曽利貝塚を訪れることで、加曽利貝塚は「本邦第一の貝塚」として、その規模の大きさが学会で認識されるようになった。

加曽利貝塚が考古学発展の大きなきっかけとなったのは、大正13(1924)年に行われた東京帝国大学人類学教室の山内清男と宮坂光弐等によるB・D・E地点の発掘であった。この調査では層位学的な発掘調査が行われ、B地点からはすでに堀之内貝塚(千葉県市川市)で見つかっていた特徴の土器(縄文時代後期の堀之内式土器)と、その上層から新たな特徴の土器が出土した。また、E地点では堀之内式土器と、その下層からB地点とは異なる新たな特徴の土器群が検出された。この新たな特徴の2つの土器群には、それぞれ加曽利貝塚の調査地点名から「加曽利B式」・「加曽利E式」の二つの土器型式が設定された。この調査の大きな成果は、地層の上下関係により、「加曽利E式⇒堀之内式⇒加曽利B式」という土器の変化の新旧関係を層位的にとらえることに初めて成功し、縄文の人々が時期ごとに異なる特徴の土器を作り出していることを層位学的に証明したのである。これがいわゆる「土器型式編年」であり、その後の縄文土器研究を飛躍的に発展させる契機となった。

左:加曽利E式土器 深鉢(縄文時代中期) 右:加曽利B式土器 深鉢(縄文時代後期)

②市民主導による遺跡保護の実現

加曽利貝塚E地点発掘調査風景(大正13年 左:宮坂光弐 右:山内清男)

昭和30年代の高度経済成長期、日本各地が好景気に沸く中、数多の遺跡が開発により破壊されその姿を失いつつあった。千葉でも京葉工業地域の開発に伴い幾多の遺跡が消滅しており、加曽利貝塚もまさに破壊の危機を迎えようとしていた。

昭和36(1961)年、県立千葉高校教諭で市の文化財保護審議委員を務め、また郷土史家としても精力的に活動していた武田宗久氏は、写真を撮りに訪れた加曽利北貝塚でまさに開発が進められようとしているのを目にし、衝撃を受ける。武田氏は加曽利貝塚を何としても後世に継承すべきと保存の必要性を訴え調査団を結成し、遺跡の重要性を証明する目的で昭和37(1962)年に北貝塚の一部の発掘調査が行われた。この調査で、分厚い貝層の下から竪穴住居や埋葬された人骨などが多数見つかり、その成果が広く市民に公開された。これを契機に「加曽利貝塚を保存すべき」の声が多く聞かれるようになり、加曽利貝塚の保存運動が幕を開ける。

昭和38(1963)年になると、日本考古学協会文化財保護対策協議会は「加曽利貝塚の保存に関する要望」を国会に提出し、これと並行するように地元紙である「千葉日報社」は紙上に「加曽利貝塚を守ろう」の記事を掲載するなど、機運の盛り上がりを見せる。時を同じくして武田氏が千葉市長への直談判をを行った結果、市長は武田氏の熱意に打たれ土地の買収と保存の支持を確約する。地元でも保存運動は高まりを見せ、同年6月に「加曽利貝塚を守る会」が発足し、署名運動を展開する。短期間の署名活動にも関わらず、10,768名もの署名が集まり、衆参両院への保存の請願が行われた。昭和39(1964)年3月、市は国と県の協力のもと北貝塚の全面保存と博物館の建設を決定した。当時、国会の場で特定の遺跡の保存問題について本格的な議論が行われたのは初めてであった。ここに、武田宗久という一人の郷土史家の声が国を動かし、遺跡を後世に継承していくという、その後の文化財保護の在り方に一石を投じたのである。なお、加曽利貝塚を守る会は保存の決定と同時に発展的に解散し、現在は「NPO法人 加曽利貝塚博物館友の会」として、博物館を支える様々な活動を行っている。

千葉駅前での署名活動①

千葉駅前での署名活動②

③南貝塚の大発掘

南貝塚についても、北貝塚の保存運動の最中に開発の危機が訪れる。北貝塚と同様に南貝塚も保存すべきとして、遺跡としての価値を明らかにするための発掘調査の必要性が唱えられ、日本考古学協会が総力を挙げての発掘調査が行われた。これは戦後まもなく、文化財保護法の制定と時を同じくして行われた登呂遺跡(静岡県静岡市)の発掘調査以来のものであった。早稲田大学の滝口宏教授を団長、明治大学の杉原荘介教授と慶応大学の清水潤三教授を副団長とし、早稲田・明治・慶応の大学生を中心に、地元の高校生や下総考古学研究会などで調査団が結成された。南貝塚の全容を探るべく、幅2m×長さ170mのトレンチを東西南北に計6本設定して行われ、当時の考古学会としては過去に例を見ない空前の大発掘調査であった。

この調査の結果、縄文時代後期主体の大規模貝層を伴う集落の存在や、晩期の土器を伴う中央窪地の存在などが明らかとなり、加曽利南貝塚は全面保存の必要性があることを証明した。この成果を受けて、日本考古学協会は国に保存を要望し、北貝塚に続いて南貝塚の保存についても国会で議論が行われた。かくして、昭和41(1966)年、市は保存の決定を行い、市民運動を契機とした北貝塚と南貝塚の全面保存が実現した。

④野外博物館「遺構の現地保存と公開」

南貝塚発掘調査風景(昭和39年)

加曽利貝塚博物館は昭和41(1966)年11月の開館以来、遺跡全体を保存・活用する「野外博物館」構想に基づき整備が行われてきた。開館直後の昭和43(1968)年から野外施設の整備が始まり、発掘されたままの状態で竪穴住居跡群の見学ができる「竪穴住居跡群観覧施設」、貝塚そのものを見学できる「北貝塚貝層断面観覧施設」が北貝塚に整備・公開された。この両施設は、発掘された遺構そのものを保存処理し、遺構の上に覆屋を建設し公開している。同様の施設は当時、三殿台遺跡(神奈川県横浜市)に次いで全国で2例目の取組として画期的なものであった。しかしながら、遺構を現地保存し同時に公開するというこの取り組みは困難を極める。三殿台遺跡の前例があるとはいえ、遺跡ごとに立地する環境は異なり、遺構自体は地面の下でつながっていることから、地下水や大気に含まれる菌類などの影響を受け続ける。遺構を維持し公開し続けるためには、遺構の環境に合わせた特殊な保存処理が必要となる。また、公開の観点からは見学者に不快感を与えぬよう、見学環境の維持との両立が求められるのである。国立東京文化財研究所をはじめ多くの研究者や専門家とともに様々な保存方法が試行錯誤されたほか、外気の影響や結露の防止など建物自体の構造に改修を加えるなどの試みが繰り返されてきたのである。このような取り組みとその経験は、その後各地での遺跡や遺構保存のあり方に大きな影響を及ぼしたのである。現在も、コケ類や汚れの除去、薬剤処理等を定期的に実施することで、遺構そのものを迫力ある状態で見学してもらえるよう維持管理に努めている。

現地保存された竪穴住居跡群(竪穴住居跡群観覧施設)昭和42年

発掘された北貝塚(現:北貝塚貝層断面観覧施設)昭和42年

保存された貝層断面(南貝塚貝層断面観覧施設)平成6年

⑤縄文土器づくり研究の先駆け

現在、多くの博物館で土器づくり講座や体験などが行われているが、博物館が開館した昭和40年代初頭、遺跡から出土する土器に対しての編年研究等は行われていたものの、縄文土器の製作技術に関する体系的な研究はほとんど行われていなかった。実際に煮炊きに使用する土器を作るにはどのような技術が必要なのか?土器はどれくらいの温度で焼かれたのか?など、技術的な研究はなされていなかったのである。

博物館の開館から間もない昭和44(1969)年、全国に先駆け「加曽利貝塚土器製作研究所」を開設した。当時、群馬県桐生市で縄文土器づくり研究を進めていた新井史郎氏を招聘し、土器づくりの体系的研究に着手した。新井氏は、粘土の採取から粘土への混和材など素地土の研究、焼成温度や焼成方法、焼きあがった土器の使用実験と、実際に使える土器を作るための研究を精力的に行った。中でも特筆されるのは焼成温度の研究であり、粘土と混和材ごとに試験版を作成し、度重なる焼成実験を行った。当時は焚火の温度を測るような高性能の温度計はなかったため、融解温度が一定である陶器用の釉薬を土器に付着させて焼き上げることで焼成温度を確かめていったほか、粘土ごとに異なる収縮率の実験などを精力的に繰り返した。

新井氏は研究の最中である昭和46(1971)年に病によって急逝されるが、在任中のわずか2年あまりの間に100点を超える土器を実験製作し、生涯ではおよそ10年の間に3,000点を超える土器を製作している。博物館は新井氏の遺志を継いで土器の製作技術研究を継承し、縄文土器の基本的な製作方法を明らかとしていく。

昭和47(1972)年からは市民向けの講座「土器づくりの会」を開催し、昭和49(1974)年には「加曽利貝塚土器づくり同好会」が結成され、現在に至るまで博物館とともに土器の製作技術研究が続けられており、各地の博物館で土器づくりの技術指導や実演を行うなど、土器の製作技術の究明と普及に努めている。

縄文土器を焼く新井司郎氏

ボランティアの活躍

加曽利貝塚博物館では、平成15年度より市民ボランティアの活動が開始された。博物館にボランティア登録をしたメンバーによって「加曽利貝塚ガイドの会」が結成され、およそ60名の方がボランティア活動を行っている(平成30年7月現在)。 

一般来館者や小・中学校などの団体来館者への展示解説を中心に、定期的に開催される「縄文ひろば」(火おこし体験、弓矢体験、アンギン編体験、貝のアクセサリーづくりなどの縄文体験)の準備・運営や、博物館主催イベントの補助などその活動は多岐にわたる。

今や博物館における教育普及事業の一翼を担っている存在であり、博物館と地域や市民をつなぐ存在としても重要な存在である。

これからの加曽利貝塚

平成30年で博物館の開館から52年を数えた。博物館入館者数の推移をみると、昭和41年の開館以来、徐々に増加し、昭和57年には年間73,225人とピークを迎えるものの、その後は徐々に下降を続け20,000人を下回る年が長く続いていた。しかし、平成24年度からは特別史跡指定を目指した活動を開始したことで、平成27年度26,320人、28年度43,374人、29年度71,510人と、ここ数年は右肩上がりの推移を見せるなど、加曽利貝塚は、特別史跡指定を追い風に、「新たな加曽利貝塚」へ移行しつつある。

さらに昨秋からは、これまでに解明されていない加曽利貝塚の姿を明らかにするため、およそ半世紀ぶりとなる本格的な発掘調査を開始した。より多くの方に縄文文化に触れてもらうべく、誰でも参加できる体験プログラムの開催や地域の方の協力を得て開催するイベントなどを積極的に実施している。

今後はさらに、新博物館建設構想や、日本の貝塚研究の拠点とするための貝塚研究所構想など、日本を代表する貝塚としてのあるべき姿を模索している。日本で最大級の貝塚の上に立ち、いにしえの縄文人の姿に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

大型建物跡 直径19mの大型建物跡で、異形台付土器や土偶、石棒など祭祀遺物が多く出土。

異形台付土器 大型建物跡から2個体セットで出土。

上段:土製耳飾り 下段:石製垂飾(左:蛇紋岩 右:ヒスイ)

写真左:鹿角製漁労具 左2点:銛 上段3点:ヤス 下段2点:釣り針

写真右:骨格・歯牙・貝製装飾品 上段左から:垂飾(イノシシ犬歯・ツキノワグマ犬歯・キツネ犬歯・ツキノワグマ指骨・鹿角)上段右:針(鹿角)下段:貝輪(オオツタノハ)

【特別史跡 加曽利貝塚】

名  称 特別史跡 加曽利貝塚(かそり かいづか)

住  所 千葉県千葉市若葉区桜木8丁目33番1号

面  積 15.1ha

立  地 東京湾東岸 標高約30mの台地上に立地

現  状 加曽利貝塚縄文遺跡公園

時  代 縄文時代早期~晩期(貝塚形成期は中・後期)

種  別 貝塚・集落

特  徴 北貝塚(径約140m)と南貝塚(径約190m)が連結、8字形をなす

指  定 昭和46年 史跡に指定、平成29年 特別史跡に指定

協力団体 NPO法人加曽利貝塚博物館友の会・加曽利貝塚土器づくり同好会・加曽利貝塚ガイドの会

【千葉市立加曽利貝塚博物館】

所在地:千葉市若葉区桜木8丁目33番1号

休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合その翌日)、年末年始(12/29 ~1/3)

時 間:9:00~17:00(最終入館は16:30まで)

入館料:無料

博物館HP https://www.city.chiba.jp/kasori/

参考文献

2017 千葉市教育委員会『史跡 加曽利貝塚 総括報告書』
2017 千葉市教育委員会『史跡 加曽利貝塚 保存活用計画書』

佐藤 洋さとう よう千葉市立加曽利貝塚博物館 学芸員

國學院大学文学部考古学専攻卒 専門分野:実験考古学、民俗考古学
1981年千葉県千葉市生まれ 学生の頃より加曽利貝塚に足しげく通い、実験考古学や体験学習に魅力を感じ、学芸員を志す。
福島県・宮城県仙台市にて遺跡調査や博物館勤務等を経て、2015年千葉市入庁。2016年より現職。

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