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歴史・民俗学

ヘレニズム時代のアコリスにおける都市生活

周藤 芳幸 / YOSHIYUKI SUTO

名古屋大学 人文学研究科 教授

平野から見上げたプトレマイオス5世のための磨崖碑文  撮影:著者(以下、撮影はすべて著者)

ヘレニズム時代のアコリスでは、土着のエジプト人と外来のギリシア人、そして彼ら相互の通婚によって生まれたその子孫たちが、首都アレクサンドリアや州都ヘルモポリスとのネットワークを維持しながら都市生活を営んでいた。ここでは、アコリス遺跡の調査によって得られた知見と同時代の史料を手がかりとして、この時代のアコリスの人々の暮らしを垣間見ることにしたい。

ヘレニズム時代の到来

前332年秋のこと、ペルシア帝国に対する東方遠征の途上にあったマケドニアのアレクサンドロス大王は、当時ペルシアの支配下にあったエジプトを「解放」し、地中海に面したナイルの河口近くに新たなギリシア様式の都市アレクサンドリアの礎を据えた。大王自身は、翌年の春にはエジプトを進発し、まもなくペルシア帝国を滅ぼした後、前323年には熱病のためにバビロンで急逝してしまうが、その後に行われた大王の部下たちによる会談でエジプトの統治を任されることになったプトレマイオスは、一転してかつての僚友たちと繰り返し戦場で相まみえながら、前4世紀の末までにはアレクサンドリアを首都とする独自の王国の確立に成功する。土着のエジプト文化と外来のエジプト文化が混淆するプトレマイオス朝エジプト王国の誕生である。

 

ヘレニズム時代の到来を告げるこの政治情勢の変化は、アコリスの位置する中エジプトにも大きな影響を及ぼすことになった1。アコリスの南約45kmに位置する第15ノモスの州都ヘルモポリスの墓域であるトゥーナ・アル=ジャバルでは、プトレマイオス1世の統治の最初期に大規模な神殿の建造が行われている2。また、この時期に拡張された迷路のようなトゥーナ・アル=ジャバルの地下回廊には、ヘレニズム時代を通じて膨大な数のヒヒやトキ(いずれもヘルモポリスで信仰されていたトト神の聖獣)のミイラが埋納されているが、これはギリシア人によってヘルメス神と関連付けられたヘルモポリスのトト神へのエジプト人の崇拝が、王権によって篤く保護されていたことの証であろう(写真1)。トト神官職を世襲していたエジプト人有力家系に属するペトシリスの墓のプロナオスの彩色レリーフ彫刻にギリシア美術の様式が現れていることも、この点に関して興味深い3

 

エジプトの最北端に位置するアレクサンドリアに統治の拠点をおくプトレマイオス朝にとって、その豊かな富の源泉である広大な領域部を安定的に支配することは大きな課題だった。上エジプトの前進基地プトレマイスとアレクサンドリアとの間に広がる中エジプトに対するプトレマイオス朝の関心は、何よりもこのような統治政策に由来していたのである。ヘレニズム時代のアコリスを理解する鍵もまた、この都市がおかれたその特殊な地政学的条件にあることはいうまでもない。

写真1 トゥーナ・アル=ジャバルで崇拝されていたヒヒの姿のトト神

プトレマイオス5世のための磨崖碑文

プトレマイオス朝の最盛期にあたる前3世紀のアコリスについては、残念ながらこれまでの調査を通じても、ごく限られた情報しか得られていない。しかし、西方神殿の参道の東側から出土した建築部材に彫られたカルトゥーシュには、ベレニケ(プトレマイオス3世の王妃ベレニケ、あるいはその娘のベレニケ)の名の一部を読み取ることができることから、州都のヘルモポリスの場合と同様、この時代のアコリスにもプトレマイオス朝の王朝祭祀のための神殿が存在した可能性は高い4。また、都市域の南に位置するアコリス南採石場では、プトレマイオス3世の治世第4年から第5年(前243年)のグラフィティが確認されているが5、このことは既にこの頃までには周辺の石灰岩の岩山での採石活動がアコリスの住民にとって重要な生業の一部となっていたこと、さらには採掘された石材の搬出を通じて、アコリスがアレクサンドリアなどのナイル下流域と経済的にも密接に結びつくようになっていたことを示唆している(写真2)。

写真2 アコリス南採石場のギリシア語グラフィティ、「治世5年ハテュル月7日、(幅) 4 x (奥行き)1+1/2 x (高さ)1」

しかし、アコリス遺跡には、前2世紀の初めまでに、この都市がプトレマイオス朝との間で特別な関係を確立していたことを示す、より雄弁な証拠が残されている。それが、都市域南西部に屹立する岩山の麓に近い断崖面を縦3m以上(下部が崩落しているため、元の高さは不明)、横約6mにわたって平坦に削り、そこに端正なアルファベットで3行のギリシア語テクストを刻んだ磨崖碑文である6。そのテクストは、ヘルゲウスの子ハコリスなる者が「顕現神であり偉大な恩恵者であるプトレマイオス王」のために、救済女神イシス・モキアスに何らかの奉納を行ったことを、典型的なギリシア語奉納碑文のフォーマットに則って伝えている(写真3)。プトレマイオス朝では、歴代の王の名はいずれもプトレマイオスであるが、この碑文のプトレマイオス王は、顕現神というその添名からも、前3世紀の末から前2世紀初めにかけてエジプトを統治したプトレマイオス5世であったことが明らかである。さらに、この添名が有名なロゼッタ・ストーンに記録された前196年のエジプト神官団の決議で王に贈られたこと、また、テクストに王妃の名が現れないことは、この磨崖碑文が刻まれたのが前196年から前194年(あるいは前193年)の間のことだったことを示している。それでは、この碑文はどのような歴史的背景のもとで刻まれたのだろうか。

写真3 プトレマイオス5世のための磨崖碑文

この頃、プトレマイオス朝によるエジプト統治体制は、前206年頃に始まったいわゆる南部大反乱によって大きく揺らいでいた。テーベ管区で蜂起したエジプト人たちは独自のファラオを擁立し、前186年にようやく反乱が鎮圧されるまで、エジプトの国土は南北に分断されていたのである。アコリス磨崖碑文は、この反乱の渦中にあって、中エジプトの有力者であったエジプト人ヘルゲウスの子ハコリスが、同じエジプト人の反乱軍の側ではなく、プトレマイオス朝側に与することを高らかに告げるメッセージだった。彼の決断が王権側から高く評価されたことは、後に彼の息子エウフロンがセレウコス朝への内通の罪で捉えられた際、「その父親であるハコリスの功績に免じて」保釈されたことからも明らかである7。またパピルス史料は、南部大反乱のさなかにあって、アコリスがナイル河川交通の要衝としてプトレマイオス朝にとって重要な役割を果たしていたことも伝えている8

アコリス出土のギリシア系アンフォラ

このような経緯を通じて、前2世紀のアコリスに暮らしていた人々が首都のアレクサンドリアと、さらには遠く地中海世界とさらに密接な繋がりを持つようになっていたことを伝える重要な考古学的証拠が、1997年から始められた都市域北端部の発掘で出土したギリシア系のアンフォラの破片と、その把手に押されたスタンプである(写真4)。

写真4 ロドス産のアンフォラ把手に押された紀年名のスタンプ「アステュメデスが神官を務めていた年(前144年頃)のテスモフォリオン月」

アンフォラとは、肩部に二つの把手をそなえた尖底大型土器の総称であるが、このような器形は、中身が詰まった重い状態でも、片手で一方の把手を、残りの手で細くなった底部を掴むことによって、肩に担ぎ上げたり中身を注ぎ出したりすることが可能となる。そればかりではなく、直立した状態で肩部相互の隙間に底部を差し込むことによって、船倉などの限られた空間に安定した状態で大量に積載することができるため、ギリシア世界では早くからオリーブ油やワインなどの液体産物の海上交易に用いられていた。これらのアンフォラは、器形や胎土の違いから、しばしば容易に産地や年代を推定できるばかりか、前4世紀以降になると、アンフォラの把手に工房や生産年を示すギリシア語のスタンプを刻印する習慣が広がったために、遺物としてのアンフォラの情報量は飛躍的に増大する。なお、エジプトでは、伝統的にこれとは形態の異なるフェニキア系のアンフォラが用いられていたが、前4世紀の末には両者が併用されていたことは、上述したトゥーナ・アル=ジャバルの「ペトシリスの墓」のレリーフにも示されている(写真5)。

写真5 ペトシリスの墓のプロナオスのレリーフ(ワイン生産風景の一部)、右側の把手が大きく頸部が細長い容器がギリシア系のアンフォラ、左側の胴部の寸胴な容器がフェニキア系のアンフォラ

アコリスの都市域北端部では、スタンプが付されたギリシア系アンフォラの把手が350点以上も出土しているが、そのおよそ8割を占めているのが、エーゲ海の南東部に浮かぶロドス島に由来するアンフォラの把手である。その鋭角に折れ曲がる独特の形態の二つの把手の上に押されたスタンプは、「工房銘」と「紀年銘」の2種類からなっているが、このうち「紀年銘」のスタンプは、ロドス産アンフォラに比類のない考古学的な価値を与えている。というのも、研究者による長年の分析によって、ロドス産アンフォラの「紀年銘」と暦年代との対応関係が明らかにされた結果、これを利用してこの時期の地中海各地の遺跡や遺構の実年代を突き止めることが可能になっているからである。それによると、同時代のギリシア世界と共通する遺物が数多く含まれていた都市域北端部のヘレニズム時代の文化層の年代は前2世紀で、ここから出土したロドス産のアンフォラの年代は前150年をピークとする見事な正規分布を描いていることが判明した。これは、南部大反乱の鎮圧から間もない時期を頂点として、アコリスとアレクサンドリアとの間で盛んに物資の取引が行われていたことを示している。アコリスに搬入されたワインのアンフォラと引き換えにアレクサンドリアに向けて搬出されていたのが、アコリス周辺の採石場から切り出された石灰岩の石材であったことは、都市域北端部に残された加工途中の巨大な石材の数々が示唆している通りである(写真6)。それでは、前2世紀のアコリスで暮らし、ギリシア産のワインなどを享受していたのは、いったいどのような人々だったのだろうか。

写真6 都市域北端部で発掘された石材

パピルスが語るアコリスの都市生活

プトレマイオス朝支配下のエジプトからは、多くのファミリー・アーカイヴと呼ばれるパピルス文書群が見つかっている。これらは、法的な権利などを主張する目的で特定の家族のもとで受け継がれたり、あるいは役所などに保管された契約書類などがミイラのカルトナージュ棺に再利用されたりした結果、現在にまで伝わっているものであり、領域部の人々の日常生活について知る上で、極めて貴重な同時代史料となっている。

 

ケファラスの子ディオニュシオスのファミリー・アーカイヴは、前2世紀の末にアコリスで暮らし、おそらくギリシア人とエジプト人との通婚によって形成された家系に属していたディオニュシオスという人物に関わるギリシア語とデモティックのパピルス文書群である9。ディオニュシオスの父親ケファラス(本人の表記ではケファロス)が「傭兵(ミストフォロス)」を名乗り、また彼の兄パエシスが騎兵隊に勤務していることからも明らかなように、この家系は軍と深い関わりをもっていた。おそらく彼の祖先はギリシアからの入植者だったが、その子孫はこの頃までには他のギリシア人とエジプト人との通婚から生まれた人々と同様、在地社会にすっかり溶け込み、必要に応じてギリシア語の名前とエジプト語の名前を使い分け、バイリンガルな環境のもとで暮らしていた。プトレマイオス朝は、南部大反乱の鎮圧後、領域部の支配の安定のためにアコリスや上エジプトのパテュリスのようなナイル沿いの要衝の地を要塞化し、駐屯軍を配置したが、これを構成する部隊の兵士の多くは地元で採用されたエジプト人、もしくはディオニュシオスのようなギリシア系のエジプト人だった10。ディオニュシオスは、ギリシア語パピルスでは「ペルシア人(ペルセース)」もしくは「ペルシア人の後裔(ペルセース・テース・エピゴネース)」を名乗っているが、これはペルシア人という実際の民族性とは何の関わりもなく、エジプト在地住民から採用された職業軍人たちに与えられた擬制的な民族表示だったと考えられている11

 

アコリスの都市域北端部から出土した前2世紀の遺物は、当時のアコリスの人々の暮らしがギリシアを中心とする東地中海のヘレニズム世界と共通する物質文化のもとで営まれていたことを明らかにしている。パピルス史料は、そのような物質文化が、駐屯軍の設置にともなって新たにアコリスに定住したギリシア人と、ディオニュシオスのような在地住民との日常生活の場における日々のさまざまな交渉によって生み出されたものであったことを示唆しているのである。

(注)
  • 以下、ヘレニズム時代の中エジプトとアコリスの詳細については、周藤芳幸『ナイル世界のヘレニズムーエジプトとギリシアの遭遇ー』名古屋大学出版会2014を参照。
  • M. Minas-Nerpel, “Pharaoh and Temple Building in the Fourth Century BCE,” in P. McKechnie and J. A. Cromwell (eds.) Ptolemy I and the Transformation of Egypt, 404-282 BCE, Leiden/Boston 2018, 150-152; I. Worthington, Ptolemy I: King and Pharaoh of Egypt, Oxford 2016, p. 197; D. Kessler and A. el. H. N. el-Din, “Tuna al-Gebel, Millions of Ibises and Other Animals,” in S. Ikram (ed.) Divine Creatures: Animal Mummies in Ancient Egypt, Cairo/New York 2005, pp. 131-135.
  • Y. Suto, “Archaeology and Cultural Change in Early Hellenistic Period: Reconsidering the Wine-making Scene in the Tomb of Petosiris,” Journal of School of Letters, Nagoya University 1, 2005, pp. 43-51.
  • Akoris, 310-3, Pl. 118, 1, 3.
  • Preliminary Report Akoris 2008, Tsukuba 2009, pp. 19-21.
  • 磨崖碑文とは、崖や岩石に神仏の像や碑文を彫ったもの。

    É. Bernand, Inscriptions grecques et latines d’Akôris, Caire 1988, 1-4; Y. Suto, “Text and Local Politics in the chora of Ptolemaic Egypt: The Case of OGIS 94, Journal of Studies for Integrated Text Science 1 (2003), pp. 1-12.

  • P. Köln. 4. 186 = Trismegistos 65863
  • P. Col. 8. 208 = Trismegistos 43871
  • E. Boswinkel and P. W. Pestman, Les archives privées de Dionysios, fils de Kephalas, (P.L. Bat. 22). Leiden 1982.
  • K. Vandorpe, “Persian Soldiers and Persians of the Epigone. Social Mobility of Soldiers-herdsmen in Upper Egypt”, Archiv für Papyrusforschung, 54, 2008, 87-108; Ch. Fischer-Bovet, Army and Society in Ptolemaic Egypt, Cambridge 2014, 177-195.
  • S. Coussement, ‘Because I Am Greek’: Polyonymy as an Expression of Ethnicity in Ptolemaic Egypt, Studia Hellenistica 55, Leuven 2016.

周藤 芳幸すとう よしゆき名古屋大学 人文学研究科 教授

1962年、神奈川県横須賀市出身。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専門はギリシア考古学、東地中海文化交流史。著書に『ギリシアの考古学』(同成社、1997) 、『古代ギリシア 地中海への展開』(京都大学学術出版会、2006)、『ナイル世界のヘレニズムーエジプトとギリシアの遭遇ー』(名古屋大学出版会、2014)、『パウサニアス ギリシア案内記2』(京都大学学術出版会、2020)など。

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