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ヘレニズム期〜ローマ期の採石技術の変遷

堀 賀貴 / YOSHIKI HORI

九州大学大学院 人間環境学研究院 教授

古代建築の魅力

古代建築の魅力に、エジプトを代表するピラミッド、あるいはコロッサス(巨像)や人体柱を含め、巨大な切石を精緻に加工して積み上げた巨大構築物がある。ゴシックの大聖堂のように軽やかに天へ舞い上がる無重力のような架構体とは異なり、大地に根を張った力強い積層物である古代エジプトやギリシアの神殿は、重力に抗って建つという建築の宿命を背負っているかのごとく屹立した姿が我々を魅了して止まない。

 

これらの構築物がどのようにして造られたのか、あるいはこれらを構成する巨石がどこから、どのように切り出され、運ばれたのか、こうした自然に生まれてくる疑問あるいは興味も、その魅力の一部であろう。数トンから数十トンにも達する巨石をどのように切り出したのか? 本稿ではこの疑問に答えなければならない。アコリス遺跡周辺には、古代から中世はじめと推測される採石場が広く分布している。調査隊では、北からディオクレティアヌス帝の採石場、アコリス南採石場、ナズラ・フセイン・アリ採石場、そしてニュー・ミニヤ採石場という名前で呼んでいる(図1)。そもそも、ナイル川東岸にはほぼ全域にわたって石灰岩による河岸段丘が連なり、良好な石質の石灰岩の層が露出し、ときには亀裂沿いにアラバスターに変質した層も含まれ、現在も採石が盛んに行われている。本稿では、この河岸段丘を舞台に営まれた採石の実態をその技術、工程の面から復元してみたい。

図1 アコリス周辺の古代採石場群

「溝法」と「クサビ法」

全エジプトをサーベイ(測定や調査)し組み立てたアーノルドの石造建築物に関する研究は、おそらくもっとも体系的に古代の採石技術を解説した参考書であり、アコリス周辺の採石場にみられる採石技術も、本書に掲載された採石法の派生形でしかない。

 

結論的にいえば、採石、特に石を切る、あるいは割る技術は、基本的には二つしかなく、あとは目的・用途に応じてどう使い分けるか(従って時代編年には使えない)という問題に帰着する。オベリスクやコロッサス、あるいは一本柱のような狙った大きさの石を切り取るための技術、もう一つは大きさにはこだわらず手早く切り取る技術である。前者では狙った場所に溝を徐々に掘り下げていく方法(溝法)、後者ではクサビ(割矢)を使って亀裂を発生させる方法(クサビ法)が採られる。

 

写真1はアコリス遺跡のすぐ南側の丘の上に残る採石場であるが、広く観察されるのはクサビ(割矢)を打ち込んで亀裂を発生させ「割り採る」方法、つまりクサビ法である。この矢穴(クサビ穴)の大きさによって年代を判定する試みもあったが(参考文献1)、現在では否定的である。ピーコックも解説するように(参考文献2)、近代に入り鋼鉄と呼ばれる炭素量の多い硬くて靭性の大きい(粘り強い)鉄が生産されるようになって、小型(2cmから3cm程度)の割矢が可能になった。これは突然の変化、進化であり、時代を経るに従って割矢が徐々に小さくなっていったとは考えにくい。他に、いわゆる「フェザー」(羽根)とよばれる薄い板状の金属板2枚を使い、その間にプラグ(栓、こちらを割矢と呼ぶ、この場合は金属でなくても可能)を打ち込む方法も存在し、アコリス周辺で使用された可能性も否定できない。この方法では、大きな矢穴が残ることから、矢穴が大きければ古いという推論には説得力はない。近代以前、中世も含め、矢穴の大きさで年代を推定することは難しいだろう。

写真1 アコリス南採石場 撮影:筆者

さて、クサビ法には、採石殻(チップ)があまり発生しないという利点がある。溝型の場合、溝の容積分が殻になるため単純に計算しても、生産する石材に比して半分近い容量の殻が発生する。下に掘り下げるには、この殻を常に排除しないと作業にならない。

 

アコリス南採石場のさらに谷を越えた南にある採石跡では、両脇にうずたかく殻が積まれており(写真2)、もしこの作業区画を広げようとすると殻の山を移動させなければならない(従って、拡張する予定は無かったと考えられる)。こうした大変な手間がかかるにも関わらず、古代エジプトでは以下に説明するように、たとえクサビを使ったとしても溝法を併用し、必ず溝を切ってから採石するという手順が支配的である(写真3)。クサビと溝の併用法である。

写真2 アコリス南採石場からさらに谷を越えた採石跡 撮影:筆者

写真3 写真1の亀裂の位置に破線と番付(後述)を加えたもの 撮影:筆者

従ってエジプトの採石においては、早さにも増して狙った大きさが重視されたと推測される。例えば、アコリス遺跡北端には、直径2mを越える柱材が放棄されているが(写真4)、これは加工途中で割れてしまい、狙った大きさではなくなったために見捨てられた。合理的に考えれば、長距離を苦労して運んできたのだから、もっと小さな石材ブロックに分割して利用しようと考えそうなものであるが、惜しげもなく放棄された。狙った大きさを失った時点で価値が消失したのである。

写真4 アコリス遺跡北端から見つかった加工途中で放棄された柱材 撮影:筆者

この例は特別としても、古代エジプト人は溝型とクサビ型の両技術をうまく駆使・併用して、狙った大きさを最優先にしつつ、できるだけ手早く、そしてたくさん切り出すための工夫も重ねた。具体的には、クサビを使って亀裂を発生させ、その亀裂に沿って溝を切っていく方法である。実は写真1は、クサビで割ったあと、溝を切っているため、併用法としなければならない(写真3)。すでに割れている岩盤を切り開くのであるから、いくぶんか作業ははかどるはずである。

 

こうした工夫を可能にするためには、岩盤の石目、つまり亀裂の走りやすい方向が、鉛直あるいは水平方向に走っていなければならない。そうでないと亀裂を追いかけて鉛直の溝を掘ることができないからである。アコリス周辺を観察すると、自然に発生した亀裂の多くが鉛直方向に走っており、まさに溝型とクサビ型を併用できる理想の岩盤であった。ただし、この便利な石目にも不利な点はある。それは亀裂のコントロールが難しい点である。発生させた亀裂がどこまで走るかは、熟練した石工でも予想は難しいだろう(もちろん、そこまで見抜ける職人もいたかもしれないが)。鉛直方向への亀裂は大きな問題にならないが、水平方向の亀裂の拡大は、その後の採石工程にも影響するため、運任せに亀裂を生じさせることは生産的ではない。

 

そうした観点でアコリス南採石場を観察すると、クサビを打ち込む「順番」を読むことができる(写真3丸付数字)。一見して明らかなように、ここでは亀裂によって亀裂をコントロールしている。亀裂がT字型に交わる場所を探して、横棒にあたる亀裂が縦棒にあたる亀裂を止めていることが理解できれば、横棒が先で縦棒は後とわかる。こうして亀裂の「番付」を決めていくと、自然に発生していた亀裂も利用しながら、亀裂が工区以外に不用意に広がらないよう考えた上でクサビを打ち込んだことがわかる。とはいえ、クサビ法には予想外に亀裂が走る、あるいは発生する危険性は常につきまとう。実際に矢穴の列から亀裂が外れている例も観察される。確実に狙った大きさの石材を切り出すには、クサビ法は避けたほうが良いのかもしれない。

「狙った大きさ」が大きい場合:巨石の採石

アコリス周辺の採石場では、コロッサス用あるいは長い一本柱用の巨大な石材の場合、クサビは使わずに周囲に溝を深く掘り込んで作業を行う(図2左)。竪溝の底では、石材の底面もクサビを使わずに慎重にノミを使って削り出していたようである。やはり安全第一である。

図2 アコリス南採石場実測図(レーザースキャニングにより生成されたもの)

ニュー・ミニヤ採石場では、長さ6mに達する石材の切り出しを試みている場所(N区)があるが、その工程ではクサビは使わない(写真5、図3)。もちろん、ニュー・ミニヤ採石場では、多くのクサビ穴が確認されているにも関わらずである。

写真5 ニュー・ミニヤ採石場 N区 撮影:筆者

図3 写真5の巨石の採石過程

「狙った大きさ」が中くらいの場合:中型石材の採石

アコリス南採石場ですでに見てきたように、それほど巨大でないにしても、大型の石材であれば、クサビを使ってうまく亀裂をコントロールしながら発生させ、それを追いかけるように溝を掘り、おそらく最後は水平方向にクサビを打ち込んで割り取っていた(図4)。四周に溝が切ってあれば、水平方向に亀裂を発生させても、それらを超えて亀裂が広がることはない。結果として、かなり規格のそろった石材を割り取る予定であったようである。

図4 アコリス周辺の採石における標準的な方法(中型より小さい石材)

もう少し小さい石材、おおむね一辺が1mから1.5mの石材だと溝型が優位になる。同じアコリス南の採石場には、一辺1.5 m程度の正方形の底面をもつ石材を切り出していた遺構が残る(写真6)。写真6右方には、自然の亀裂、ここでは亀裂に沿って石質が劣化している帯がはっきり判るが、お構いなしに格子状に溝を掘っている。なお、溝の底面に鉛直方向の亀裂は見られないのでクサビは使われていないことを確認している(写真7)。

写真6 アコリス南採石場に残る溝型の遺構 撮影:筆者

写真7 格子状の溝の底面(亀裂の痕跡はない) 撮影:筆者

古代の石工は石材の用途、具体的には大きさと数に応じて両技法を巧みに使い分けていた。つまり「どれくらいの大きさ、あるいはどんな形状の石が、何個くらい必要か」によって使う技法が異なるのである。では、小さな石材が大量に必要な場合はどのように採石していたのであろうか。アコリスの北、ディオクレティアヌス帝に奉献した碑文が残る広大な採石場には、これまで報告されたことのない採石法が残る(写真8)。

 

碑文によれは、アレクサンドリアに舗石として搬出されたとされる1.2m×1.5m、厚み45cm程度の板状の石材を大量に生産した痕跡が、東西・南北1km以上にわたって広がる。ここでも例にたがわず、ある日突然放棄されたかのような状態であるため、採石の工程を簡単に復元することができる(図5)。

写真8 ディオクレティアヌス帝の採石場 撮影:筆者

図5 ディオクレティアヌス帝の採石場の切り出し工程

溝切りからクサビによる切り離し、そして最後の外転(これは作業エリアを確保するためと考えられる)まで、おそらくそれぞれの工程を担当する数人のチームが連携して作業を行うことで、連続的に石材を生産できたはずである。ただし、石材の搬出は全ての採石工程が完了しないとできない(最後に外転させた石列が、一番上に載るため)。古代ローマの工兵隊らしい組織的な採石であるが、道具類、あるいは土器もほとんど見つからず、ここでも焼き入れ施設は確認できていない。

 

さらに小さいブロックの例としては、アコリスから5km程度南に位置するナズラ・フセイン・アリ集落の東にあるコプト期と思われる採石場がある(写真9)。30cm×30cmの断面をもつ立方体あるいは倍の60cmの長さの直方体を産出しており、その工程は図6のように復元され、ディオクレティアヌス帝の採石場と最後の外転を除けば、ほぼ同じである。おそらく、1名ないし2名の作業員で持ち上げられる重さであるため、岩盤から切り離した直後に担いで搬出されたと考えられる。

写真9 ナズラ・フセイン・アリ採石場 撮影:筆者

図6 ナズラ・フセイン・アリ採石場での作業工程

最後に

アコリスから12kmほど南にニュー・ミニヤと呼んでいるミニヤ市の新都市開発区域があるが、その東端、河岸段丘の崖の上に、プトレマイオス2、3世治世下のものと考えられる広大な採石場がある(写真10)。この採石場では、大きいものでは、一辺が2mに達するもの、小さいものでは、60cm角程度のブロック状のもの、あるいは形状では、直方体ブロックだけでなく、板状の石材を切り出した痕跡もある(写真11)。このように、ばらばらの大きさ、形状の石材が生産される場合、採用される技法もさまざまで、工区によって技法はまったく異なる。

 

さらに、多く発見される横穴の天井には朱書きの線、数字、名前が残り、単に横穴から石材を採掘するという坑道掘りのためだけではない横穴掘削の目的もありそうであるが、それはまだ不明である。今後の課題として本稿を締めくくりたい。

写真10 ニュー・ミニヤ採石場(奥はナイル川) 撮影:筆者

写真11 板状の石材の切り出し 撮影:筆者

【採石遺跡に関する追記】

クサビ法は近代以前まで世界中に共通して見られる方法で、例えば日本の幕末から明治初期の石切とローマ時代(と推測される)アコリス周辺の石切の工程もほぼ同じであり、これらに見かけ上の違いはない。一つ違いが在るとすれば、硬い花崗岩が多い日本では溝法はまれで、クサビ法だけで切り出すため、石材表面は割面(切り出してから整形したタタキ仕上げやスダレ仕上げを除く)であることが多い。柔らかい石灰岩が主流のエジプトにおいては、鉄器の普及によって、硬いノミやクサビが登場するヘレニズム期以降、併用型が普及していく。残念ながら、アコリス周辺では採石に関わる鉄器はいっさい見つかっていない。

 

アコリスあるいはエジプトに限らず多くの採石場遺跡で、まるで突然作業を停止したかのように切り出し途中の石材が放棄され、まるで突如として訪れた破局的な終わりのように受け止められることがあるが、古代における石材生産が需要に対して必要量を供給するという近代的な計画性によって成り立つのではなく、プロジェクトごとに採石場が開発され、建設現場(消費地)から「建設完了」という連絡が入るまで継続的に生産が続けられたと考えれば当然の結果である。言い換えれば計画的な終業という概念は存在しないので、「いらない」といわれるまで掘り続ける。「止め」が入ったときには、もちろん採石途中の石材もたくさんある。そして、職人は作業を止めて道具を持って次の採石場に向かうのである。従って高価な道具が採石場に残されることもない。アコリス周辺の採石場では、ノミの加工痕から使われた道具を推定するのみである(参考文献3)。

 

また、不思議なことに、アコリス周辺では焼き入れを行う施設が見つかっていない。ノミやクサビなどの鉄器は使っていくと摩耗したり、変形したりするため、必ず焼き入れが必要になり、近代まで多くの採石場には焼き入れのための施設があった。アコリス南の採石場には、その候補となる遺構があるが未発掘のため詳細は不明である(浴場との見方もある)。「通い」の石工が採石場ではなく、集落内で焼き入れを行ったのではないかと想像されるが、アコリス北のディオクレティアヌス帝の広大な採石場では、古代ローマの工兵隊が作業を行っており、焼き入れ施設が存在したはずであるが、踏査によっては見つかっていない。

 

こうした採石場に共通する遺物、遺構の欠如は、「年代判定」の難しさをもたらす。アコリス周辺において、年代が確定できる採石場は、アコリス北のディオクレティアヌス帝の碑文が発見された採石場と12km南のニュー・ミニヤと呼んでいる採石場だけであり、後者は横穴天井や竪溝側壁に残された朱書きの治世年から判定されたものである。例えば、ナズラ・フセイン・アリという名前の集落近くの採石場は、少ない数であるが採石殻に混じっていた土器がコプト期であったこと、露天掘り採石坑の側壁にうっすら残る朱書きの痕跡がアラビア文字ではないことから、古代末期から中世はじめと判定している。逆にいえば、年代が確定できる遺構が2カ所あるという点で、アコリス周辺の採石場はディオクレティアヌス帝時代、あるいはプトレマイオス2、3世時代の採石法の基準遺跡となる可能性があり、精密な実測と記録が必要である。

(参考文献)
  • J. Röder, Zur Steinbruchgeschichte des Rosengranits von Assuan, Archaologischer Anzeiger 1965, pp. 467–552.
  • D. P. S. Peacock, The archaeology of stone: A report for English Heritage, Swindon 1998.
  • J.-C. Bessac, L'outillage traditionnel du tailleur de pierre, de l'Antiquité à nos jours (supplément 14 de la Revue archéologique de narbonnaise), Editions du CNRS, Paris 1986.
  • R. Klemm and D. D. Klemm, Stones & Quarries in Ancient Egypt, London 1993.

堀 賀貴ほり よしき九州大学大学院 人間環境学研究院 教授

1964年三重県生まれ。1988年京都大学卒業。1994年京都大学大学院工学研究科建築学専攻単位修得の上退学。日本学術振興会特別研究員、海外特別研究員(マンチェスター大学美術史および考古学学科)を経て1997年山口大学講師、1999年同准教授。2003年から現職。2012・2013年ケント大学ヨーロッパ文化・言語学部客員教授。専門は古代ローマ建築・都市史。2001年よりアコリス遺跡調査に参加。2003年に採石場の調査を本格的に開始。2010年頃よりレーザー・スキャニング技術を遺跡調査に導入。ポンペイ、ヘルクラネウム、オスティアなどの古代ローマ遺跡でもレーザー・スキャニングによる実測を進める。2019年「レーザー・スキャニング技術を応用した古代ローマ建築・都市に関する一連の研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞。著書に『古代ローマ人の危機管理』(共著、九州大学出版会、2021)、『古代ローマ人の都市管理』(共著、九州大学出版会、2021)。

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