考古学
長崎県松浦市鷹島海底遺跡の調査と研究
鷹島海底遺跡(海上から黒津浦を望む)撮影:池田榮史
1281(弘安4)年、日本への侵攻を図った元軍船団は閏7月1日(
鷹島海底遺跡と国指定史跡「鷹島神崎遺跡」
長崎・佐賀両県の県境に位置する伊万里湾は二度目の蒙古襲来(弘安の役)の際、博多への侵攻を目指して集結した元軍船団が暴風雨に見舞われ、壊滅的な被害を受けた場所として知られる。中でも、湾口の要衝である鷹島の南海岸一帯では漁業者が投じた網に中国陶磁器が入ることがあり、これらは蒙古襲来の際の元軍船に関わる遺物であるとされてきた。
このこともあり、昭和55(1980)年に採択を受けた文部科学省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」(研究代表者:江上波夫)では、「水中考古学に関する基礎的研究」(研究代表者:茂在寅男)を組織し、鷹島周辺海域での音波探査装置と水中考古学手法を採用した調査を試みた。この際、地元民が鷹島神崎港での潮干狩り中に採取した銅印を調査団に持ち込み、鑑定の結果、元軍が用いた「管軍総把印」(500人程度の部隊長印)であることが判明した。これを受け、当時の鷹島町(平成18年1月1日に松浦市、福島町と合併して松浦市鷹島町となる)では、昭和56(1981)年に鷹島の南海岸延長約7.5km、沖合200mの沿岸域について、「鷹島海底遺跡」として周知化を図った。以後、周知の遺跡範囲内に含まれる鷹島の床波港や神崎港で計画された改修工事の際には事前調査が行われ、中国陶磁器や甲冑や刀剣などの武器・武具類、船舶に用いた大型木材など多くの遺物が出土している。
また、平成17(2005)年度から連続して採択された筆者らの科学研究費補助金基盤研究(S)による調査・研究では、平成23・24(2011・2012)年度に鷹島1号沈没船、平成26・27(2014・2015)年度調査に鷹島2号沈没船を発見し、伊万里湾内の海底面下に船舶構造を保った状態で埋もれている元軍船の検出手法を確立した。
なお、鷹島1号沈没船調査成果を受け、文化庁では鷹島海底遺跡の周知化範囲の中から、これまで多くの元軍関連遺物が出土した神崎港を中心として、鷹島1号沈没船の検出位置を含む約384,000㎡の海域について、平成24(2012)年3月27日付けで国史跡「鷹島神崎遺跡」に指定している(注1)。
鷹島海底遺跡の特徴
図1 鷹島位置図(楮原作成)(『科研費調査研究報告書』2016より)
鷹島海底遺跡が分布する伊万里湾は東西約13km、南北約7.4km、面積約120㎢の広さがあり、最大深度は約56mを測る。湾内にかつては1島1町をなしていた福島とその属島のほか、大飛島、小飛島、二島、山島などの島々がある。また、伊万里湾を塞ぐ位置には鷹島や魚固島、伊豆島、青島、松島などが連なっており、伊万里湾は極めて閉鎖性の高い内海となっている。このため、伊万里湾と玄界灘の間を行き来するには佐賀県唐津市肥前町星鹿半島と鷹島の間に位置する日比水道、あるいは鷹島と青島の間の青島水道、及び青島と松浦市御厨半島の間の津崎水道の計3カ所に限られることとなる。
なお、伊万里湾内の海底地形を見ると湾内中央に位置する大飛島、小飛島、二島の周辺が浅瀬となっている。この浅瀬の北側と南側に海底谷が入り込んでおり、それぞれが前述した青島水道と津崎水道に繋がる。一方、鷹島の東端には鷹島と福島の間に入り込んだもう一つの海底谷があり、これが日比水道へ抜けている。元軍船をはじめとする蒙古襲来関係遺物の多くはこの鷹島南海岸沖に位置する二つの海底谷から見つかっているのである(中田敦之・池田榮史2021)。
この理由を想定できる事例に平成6・7(1994・1995)年度に行われた鷹島神崎港離岸堤設置に伴う事前調査の際に検出した大小4門の木製椗がある。これらの木製椗は全て先端部を南に向けていた。このことはこの椗を用いていた船舶は椗よりも北側、すなわち鷹島側に係留されていたことを示す。元軍船団は強風で荒れることの多い玄界灘から伊万里湾に避難したものの、台風の北上に伴った南からの暴風を受けて鷹島南海岸に吹き寄せられ、荒波に揉まれて遭難し、海底谷に沈んだと考えられる(鷹島町教育委員会_1996)。
発見した2艘の元軍船
鷹島1・2号沈没船はいずれも鷹島の南海岸近くで見つかっている。ともに中国江南地域から発進したとみられる船体構造を持つ。
図2 鷹島1号船 俯瞰画像(町村剛作成)
1号沈没船は南海岸の最奥部に位置する黒津浦の沖合約200m、水深約23〜25m、海底面から1mほど掘り下げた位置に埋もれていた。発掘時の船体は基底部分をなす竜骨(キール)材が東西方向に伸びており、竜骨の北側と南側に両舷の板材(外板)が残っていた。竜骨には幅約50㎝の木材を用いており、長さ約12mまで確認できた。竜骨の西端先端部分には別の竜骨木材と組み合わせるための「枘(ホゾ)」状の加工が見られる。東側先端部分はフナクイムシに侵蝕されて原形を留めていないが、約1.5m先まで割れ落ちた漆喰が残っている。割れ落ちた漆喰部分までを加えると、竜骨の復元長は最短でも約13.5mとなる。
竜骨に並行して横たわる外板材を含めた船体は魚を開きにしたような状態に見える。外板材は竜骨に近い側が厚く、竜骨から遠ざかるにしたがって少しずつ厚みが薄くなる。観察できた竜骨脇の外板材の幅は北側で約30㎝、南側で約45㎝の部材がある。外板材の厚さは竜骨と接する部分では30㎝を超す。竜骨から離れた北側の外板材の寸法は基本的に幅20〜30㎝、厚さ10〜15㎝である。これに対して南側の外板に用いた木材は竜骨と並行に並んだ状態で残っており、幅15~20cm、厚さ約10㎝のものが多く、長さは1m程度から6mに及ぶものまである。竜骨北側の外板材の上には竜骨や外板に対して直交する木材2〜3枚ずつが間隔を置いて配置されており、これらは船体内部を仕切る隔壁(仕切り板)とこれに沿って用いられる支えの肋材(添え木)と考えられる。
図3 鷹島2号沈没船俯瞰画像(町村剛作成)
2号沈没船の検出位置は国史跡「鷹島神崎遺跡」指定範囲の東脇にあり、海岸線からは約200m、水深13〜15mの位置で船首を南に向けて沈んでいた。船首部分では外板材を船首竜骨に向けて狭めながら仕上げた構造が確認できる。しかし、船首竜骨材は残っていない。船首から北側に向かって次第に船体の幅が広がり、残存する船首部材の先端から約5mで幅3.0mとなる。その後、船首部材の先端から9mの位置で最大幅の3.2mとなり、10mほどまでは残存部幅3mが続く。そこから次第に狭まり、先端から約12mまで船体の外板や隔壁などの木組み構造がよく残る。
船内を区切る隔壁が9カ所確認でき、これによって仕切られた部屋(船艙)8区画が明瞭に確認される。船首部分を第1室とすれば、上記の8区画は船艙の第2〜9室となる。なお、第5・4・3室の船艙には大きさが20~60㎝の不定形石材が満載されており、これらは船のバランスを取るために積んだバラスト材と考えられる。船艙を仕切る隔壁材は厚さ9〜15㎝の板材を用い、船底部に向かって逆台形状に狭まる。隔壁材に打ち付けた外板材は厚さ約5㎝、幅約20~50㎝の板材を用いているが、長さについては船底部分を掘り下げていないため不詳である。
鷹島1号沈没船と2号沈没船の構造は基本的に同じである。ただし、1号沈没船は竜骨材と外板が残っていたものの、隔壁材は外板材に接した一部が残るのみであり、船首、船尾の部材もほとんどが無くなっていた。これに対して、2号沈没船では隔壁と隔壁に打ち付けた外板材の中の竜骨に近い部分が船体構造を良く残した状態で残存している。また、1号沈没船と2号沈没船では用いた木材の厚さや隔壁間の奥行長に若干の違いがあり、1号沈没船に比べて2号沈没船がやや小型になる(池田榮史編2016)。
鷹島1・2号沈没船の比較資料
鷹島1・2号沈没船に類似する構造を持つ同時期の中国船発見例を探してみると、中国福建省泉州市后渚港発見船(泉州船)や広東省南海Ⅰ号沈船、韓国全羅南道新安郡新安海底遺跡出土船(新安船)があげられる。ともに中国宋・元代の船舶であり、泉州船と南海Ⅰ号沈船は南宋代、新安船は積荷の文字記録から1320年代に沈没したとされている。いずれも船底中央に竜骨を据え、竜骨と直交する仕切りのための隔壁材が複数存在する。また、隔壁材は竜骨から船体上部に向けて「V」字形に広げて配置し、外側から外板材を釘で打ち付けて船体を構築する。船首部分は船底に据えた竜骨に船首の竜骨を組み込み、これに外板材を釘留めして、波切り効果を持たせた鋭角に作る。これに対して、船尾部分は「V」字形をなす船尾の外板材端部に横板を打ち付けて、やや斜めに立ち上がる平たい構造を持つ点に特徴がある。
これらの沈没船では船長を復元する方法として、船底の竜骨長を基準とし、そのほぼ2倍を船長と推定している。これを参考にすれば、鷹島1号沈没船の場合、復元した竜骨長が13.5mであることから復元船長は27m前後となる。これに対して、2号沈没船は現存長12m内に竜骨長が収まることから、船長20m以下となる(池田榮史2018)。
鷹島海底遺跡の今後
図4 大型木製椗引き揚げ状況 撮影:宮武正登(佐賀大学)
現在、鷹島1・2号沈没船は篩にかけた砂で埋め戻しを行い、その上を酸素不透過シートで二重に覆って現地保存を図っている。これは発掘後の船体木材周辺に酸素が供給される状態に置くとフナクイムシの蚕食に晒されることを防ぐための対策である。調査後しばらくは北海道江差港で確認された開陽丸の現地保存手法を参考にして特製銅網で覆う保存手法を採用していたが、周辺海底で行った劣化実験の結果、銅網ではフナクイムシの侵入を完全には排除できないことから、新たな埋め戻し実験を行った上で現在の埋め戻し手法へと変更した。変更後、6カ月ごとに継続しているモニタリング調査では船体周辺は無酸素状態の環境にあることを確認している(池田榮史編2021)。
しかし、海底で現地保存を図った船体は公開することができない。調査中に作成した画像を基にしたAR(Augmented Reality)やVR(Virtual Reality)映像、三次元模型などを製作しているが、現物を視認できないもどかしさは否めない。将来的にはいずれかの船体を引き揚げて保存処理を施し、公開することが望まれる。そこで、鷹島海底遺跡を管理する松浦市では新たな元軍船の確認調査を進めるとともに、これまでに引き揚げた船体木材資料を対象とするトレハロースによる保存処理実験を進めており、令和4(2022)年10月に実施した大型木製椗の引き揚げ作業はその一環である(伊藤幸司2020)。トレハロースはこれまでのPG(ポリエチレン・グリコール)に比べて、「安く、早く、安全に」保存処理できることが明らかとなりつつあることからすれば、鷹島海底遺跡において元軍船を引き揚げる日は限りなく近づいている。
- 1. 鷹島海底遺跡における調査研究のあゆみについては各報告書を参照すべきであるが、ここでは「鷹島神崎遺跡」国史跡指定後に松浦市教育委員会が策定した『国指定史跡鷹島神崎遺跡保存管理計画書』(2014年3月)に詳述されていることを記して、これに替えたい。
参考文献・資料
- 池田榮史『海底に眠る蒙古襲来−水中考古学の挑戦−』、歴史文化ライブラリー 478、吉川弘文館 2018
- 池田榮史編『平成23〜27年度科学研究費補助金基盤研究(S)(課題番号23222002)「水中考古学手法による元寇沈船の調査と研究」研究成果報告書』第3冊(最終報告書) 2016
- 池田榮史編『平成30〜令和2年度科学研究費補助金基盤研究(S)(課題番号18H05220)「蒙古襲来沈没船の保存・活用に関する学際研究」研究成果報告書』 2021
- 伊藤幸司『トレハロースを用いた文化財保存の研究と実践−糖類含浸処理法開発の経緯と展望-』、三恵社 2020
- 鷹島町教育委員会『鷹島海底遺跡Ⅲ−長崎県北松浦郡鷹島町神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査報告書−』、鷹島町文化財調査報告書 第2集 1996
- 中田敦之・池田榮史『元軍船の発見−鷹島海底遺跡−』、シリーズ「遺跡を学ぶ」150、 新泉社 2021
公開日:2023年1月16日最終更新日:2023年4月24日