動向
ウクライナ戦争(1)文化遺産への挑戦
図1 ポパスナ市(ルハンスク州)の一部を写した地図。赤丸内はポパスナ博物館で、破壊された住宅に囲まれている(出典 :HereWeGo 2023)
2014年にロシアがウクライナに対して開始した戦争は、多くの苦しみと人的・物的損失をもたらした。そして、ロシア武装勢力による砲撃の結果、ドネツク、ルハンスク、スタニツィア・ルハンスク地方史博物館や、ルハンスク市歴史博物館が被害を受けた。また、いくつかの博物館では展示物の一部が不可逆的に失われたとの未確認情報がある。2014年夏には、ルハンスク地方郷土史博物館の主任管理者が、砲撃の際に殺害された。2014年以降、ロシアに占領された地域には、数十の博物館、考古学的保護区、数百の考古学的遺産(クリミア、ドネツク、ルハンスク地方)が所在しており、近い将来の見通しはかなり複雑である。
図2 ポパスナヤの美術館の展示の一部(撮影:Serhiі Telizhenko、2020年)
戦争が本格化したことで、さらに大きな損失が発生した。数万人のウクライナ人が死亡し、都市全体が破壊され、数百万人のウクライナ人が生まれ故郷を離れ、ウクライナ国外を含む安全な場所に移動せざるを得ないという悲劇が、世界の目の前で繰り広げられている。
2022年2月以降、ウクライナの文化や科学は、さらに大きな損失を被り、現在も苦しめられている。ライマン市(ドネツク州)の地方史博物館の完全破壊、クピャンスク市(ハリコフ州)の博物館の破壊と館長および職員の死亡、マリウポリ国立大学の考古学博物館の破壊を挙げるだけでも十分であろう。 ポパスナ市とルビズネ市(ルハンスク州)の郷土史博物館からのロシア軍による展示品の盗難、メリトポリの博物館からの金コレクションの盗難、ケルソン郷土史博物館と美術館から占領地クリミアへの展示品の略奪など、ロシアによるウクライナの文化遺産に対する犯罪は、枚挙にいとまがない。
図3 ロシア軍がポパスナを占領し、博物館を占拠した後の同博物館の展示物の一部。前の写真との違いが確認できる--いくつかの展示物が欠けており、スタンドやいくつかの展示物には弾痕が見られる。(画像提供:ロシア通信社「RIA Novosti」2022年)
戦争は、ウクライナ国立科学アカデミー(NAS)考古学研究所にも大きな影響を与えた。同研究所はウクライナの主要な科学機関であり、ウクライナ領土内の考古学的遺産の科学的・救出的研究を組織して実施している。また、考古学研究報告書の完全な科学的アーカイブを収集し、収蔵庫に移された動産文化財の保存と管理を行っている。ロシアのウクライナに対する本格的な侵略が始まって以来、研究所は活動を止めることなく、ロシア軍がキーウに非常に接近していたときでさえ、ほぼ通常通り活動していた。
現在、研究所の職員16名がウクライナ軍の隊列に加わり、侵略者から国を守っている。命の危険があるため、残念ながら一時的に国外に出なければならない科学者もいるが、ウクライナの外でも科学活動を止めることはない。
2022年9月より、助成プロジェクト「戦争に脅かされるウクライナの考古学的遺産:保存と保護」(ドイツ考古学研究所/ベルリン)の枠内で、考古学研究所の科学者が、ロシア軍による破壊や被害を記録する目的で、キーウとチェルニヒフ地方の考古学的遺産のモニタリングを行っている。被害があった遺跡からは、最近、銅器時代から中世にかけての貴重な遺物が発見された。
図4. ウクライナのNAS考古学研究所の学術収蔵庫(撮影:Serhii Telizhenko)
考古学研究所の組織としては、考古学博物館部門の下に展示部門、学術保管部門、キーウ考古学博物館部門の3部門が設置されている。ロシア軍がキーウの行政境界線から3.5km、考古学研究所から20kmの距離に迫っていた当時も、研究所のスタッフは作業を中断することはなかった。2022年2月から4月にかけての砲撃の際、研究所の職員は考古学博物館の展示物の保存に協力し、展示ケースから取り出して梱包し、安全な場所に移動させた。砲撃時だけでなく、2022~23年の寒冷期における長期停電の際も、考古学研究所の学術保管部門やその他の部門の職員は業務を継続した。
考古学研究所の学術保管庫はウクライナ最大であり、ヨーロッパでも最大級の考古学的遺産保存機関であることは言うまでもない。そのため、極めて厳しい条件下で、絶え間ないストレスの中で働き続けた学術保管部門の職員の肩にかかる責任の重さは想像に難くない。特に、構成員の一部が海外に出たり、軍隊に動員されるなど、彼らの仕事量がほぼ倍に増えたという事実を考えれば、その責任の大きさが計り知れよう。
2022年、学術保管部門は、発掘調査隊からのコレクションの受け入れ作業だけでなく、それらの科学的処理と保管場所への配置も実施した。さらに、2022年、考古学研究所の学術保管部門は、国際的な研究プロジェクトに参加し、また、リトアニアとデンマークで開催された考古学展に参加し、遺物を移送して展示した。
このように、今この瞬間にも起きている恐ろしい出来事にもかかわらず、ウクライナ国立科学アカデミー考古学研究所の各部門の科学者たちは、定期的に仕事を続け、共同研究にも積極的に応じている。
(翻訳:庄田慎矢 / 国立文化財機構奈良文化財研究所国際遺跡研究室長)
公開日:2023年6月2日