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動向

錦町における戦争遺跡をめぐる様々な取り組み

平本 真子 / Maco Hiramoto

錦町立人吉海軍航空基地資料館(山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム)副館長

人吉海軍基地・地下魚雷調整場跡(提供:錦町立人吉海軍航空基地資料館)

「山の中の海軍の町  にしき  ひみつ基地ミュージアム(以下、ミュージアム)」(写真1)は、熊本県錦町にある旧日本海軍の航空基地跡(人吉海軍航空基地跡)を通し地域の歴史を知ることができる戦争博物館であるとともに、町の観光拠点施設である。正式名称を「錦町立人吉海軍航空基地資料館」と言い、年末年始のみ休館日を設け、土日も営業を行なっている。常設展示室や視聴覚、ライブラリなどの利用と、資料館の地下に現存する戦争遺跡「地下魚雷調整場跡」の1時間に1回(1日7回)の専任ガイドによるガイドツアーが入館料に含まれる。公営の施設として2018(平成30)年に開館し、今年で5年目を迎えた。

 

本稿では人吉海軍航空基地跡の発見からミュージアムの開館、そして現在に至るまでに錦町とミュージアムが行なってきた取り組みとその成果、見えてきた課題などをまとめたい。

 

なお、本稿中にある意見に係るものは筆者の私見として捉えていただきたい。

写真1 山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム(提供:錦町立人吉海軍航空基地資料館)

人吉海軍航空基地跡の発見

熊本県の最南部、九州山地に囲まれた東西約30km、南北約15kmの盆地の中に錦町は所在する。町の約8割が森林の人口約1万人の町で、2014(平成26)年末、地元の郷土史家らが終戦時に作成されたある資料1)を発見したことにより、錦町及び相良村に残る大小数多くの防空壕だと思われていた素掘りの横穴が、大戦末期、旧日本海軍指導のもと建設された地下施設群である事が確認された。これを機に郷土史家らは「人吉海軍航空隊を顕彰する有志の会」を立ち上げ、さらなる現地踏査を行なった。踏査の結果、基地跡は想像をはるかに超える規模であった。基地跡は海軍及び海軍工廠が活動していた三つのエリアに分類され、それらに建設された地下施設がほぼそのままの形で現存していることに加え、地上部分でも戦後に大きな開発がなかったことで、滑走路跡や軍用道路、集落の場所などほぼ全てが終戦時から変わらぬ景色のまま現在まで残っていることが確認されたのだ。会はこの結果を人吉海軍航空隊についての冊子にまとめて2)「基地跡を錦町の特徴ある地域資源として活用してほしい」という要望を錦町に提出したことで、錦町はこの戦争遺跡の活用の取り組みを開始した。

戦争遺跡活用のための拠点施設建設計画

活用のタスキを受けた錦町であったが、すぐに役場職員だけでどこまでできるかという懸念が生じた。基地跡の確認の事実が戦後70年の節目の年と重なり、各種メディアに取り上げられた事で、役場担当課に問い合わせや案内の申し込みが増え、担当職員による基地跡の対応だけで手一杯の事態となったのだ。約1年で1000名以上が、人吉海軍航空基地跡へ訪れていた。町は来訪者が増えたこの機会に、急ぎ案内の拠点となる施設を計画した。

戦争遺跡で集客する

戦後、戦争遺跡の保存活動や慰霊顕彰、史跡認定などの取り組みを行っている民間団体や自治体は数多くあるが、錦町の取り組みはそれとは少し異なった。それは、施設建設の財源として国の地方創生推進交付金、地方創生拠点整備交付金を充てたことにより「交流人口を促進させるための拠点施設」としての役割を持たせる必要があったのだ。言い換えると「戦争遺跡で集客する」を錦町は実現させなければならなかった。これは戦争遺跡を観光資源として捉えることに他ならない。凄惨な戦争遺跡として注目され多くの見学者が集まった結果「観光地」化した例3)はあれども、当初より「戦争遺跡での集客」を目的とした公立の戦争博物館の事例はあまり聞いた事がない。事実、持続可能な観光を町内に生み出し、町の活力とするビジョンを実現させる事と、戦争の歴史を継承し、戦争とは平和とは何かを問い続けられる、価値のある戦争博物館を創設する事は、全く別のベクトルと言える。

フィールドミュージアム構想

写真2 地下魚雷調整場跡の入口(提供:錦町立人吉海軍航空基地資料館)

一方で、関係者内では人吉海軍基地跡の観光資源としての評価は当初より高かった。なぜならば、現存する地下壕の中でも最大規模の「地下魚雷調整場跡」(写真2)は、そこに足を踏み入れるだけで当時の空気感や時代背景を体感させる迫力があり、戦争遺跡という分野に軸を置きながら、歴史を「体感する」という観光体験としても集客の間口を広げていける可能性を充分に持ち得ていたからだ。実際に、当初より役場職員が来訪者を案内していたのがこの地下魚雷調整場跡であるが、手堀りの跡がはっきりと残る大きな地下施設は見学者から好評であった。よって、この地下施設を中心に現存する各遺構を屋外展示物と位置づけ、それらが分布する地域一帯をフィールドとし、博物館施設はそのガイダンス兼交流人口促進拠点施設とする「フィールドミュージアム」構想が掲げられた。

集客と博物館、両立のための地元ガイド育成

集客ができる戦争博物館の運営を実現させるための取り組みとして、町はまず「地元出身のガイド人」の育成を進めた。そこにはいくつかの理由がある。

 

数年後には戦後80年を迎えようとしている今、戦争遺跡は物言わぬ歴史の証言者としてその価値が見直されている。しかし、「物言わぬ証言者」である。戦火の明確な痕跡が残っていない遺構は説明や解説がなければどのような戦争遺跡なのか伝える事が困難である。解説板を置く事も可能であったが、敢えて地元出身のガイド人を選んだ。これは、観光における満足度向上の一因に地元住民との交流があるからであり、地元住民であるガイド人が、この地で起きた出来事や発見された遺跡を案内し、来訪者と語らう事により、交流という観光要素を含みながらも戦争の歴史の継承も可能で、何より会話というコミュニケーションを通して、ガイド人も来訪者も相互に多様な価値観に触れることができる機会を生み出す事が可能だからだ(写真3)。

写真3 地元出身ガイド人によるガイドツアー(提供:錦町立人吉海軍航空基地資料館)

愛称「山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム」の採用

施設名に関しても町はこれまでの戦争博物館ではあまり見ない「集客」に重きをおく手法を用いた。それは施設名に愛称を用いたことだ。これは、愛称をつけることによって認知度や期待度の向上、来館促進につながる効果を狙ったものである。そして、現在その愛称は「錦町の『戦争博物館』は気負わずに立ち寄れる場所」として、低い敷居を作り出し集客に大きく貢献している。

マンガで伝える戦争

また、ミュージアムでは戦争の歴史に興味を持ってもらう手段として、マンガの可能性にも注目している。博物館内のライブラリに近現代の戦争をテーマとしたマンガを配架し、2022(令和4)年度はマンガをテーマとしたシンポジウムを開催した。シンポジウムのタイトルは「マンガが伝える戦争〜戦争表現の多様性と可能性〜」である。第一部で京都精華大学マンガ学部教授 吉村和真氏に「マンガが伝える戦争」として基調講演を頂き、第二部ではペリリュー島の凄惨な戦いを三頭身のキャラクターで描いた『ペリリュー―楽園のゲルニカ―』の作者武田一義氏、戦闘機で登校する女子高生の学園生活を描いた『紫電改のマキ』の作者野上武志氏、湯前まんが美術館(那須良輔記念館)職員の中尾章太郎氏、そして筆者をパネリストとしたパネルディスカッションを行った(写真4・5)。マンガというコンテンツの持つ可能性について3時間に渡り開催したが、事後アンケートからは来場者の満足度の高さがうかがえた。来場者の年齢層は50代が最多であったが、マンガというコンテンツに対しての価値観の変化や戦争マンガというものに興味が湧いた等、マンガが戦争を伝える上で有効なコンテンツである事が実証された。

写真4「マンガが伝える戦争」シンポジウムの様子(提供:錦町立人吉海軍航空基地資料館)

写真5「マンガが伝える戦争」パネル・ディスカッション(提供:錦町立人吉海軍航空基地資料館)

ミュージアムがマンガに注視する理由は、若い世代に寄り添う媒体としてマンガが大きな比重を占めているからである。歴史書や専門書では心理的な敷居が高く感じられるが、娯楽性を内包するマンガであれば読んでみようか、と敷居が下がる。そして何より、マンガには戦争の惨状や当事者の気持ちをその紙面に、画と共にとどめておける伝承性がある。画は、当時を知らない者でも当時を見ることができ、物語には生々しい感情を想起することもできる。もちろん、マンガにはフィクションもノンフィクションも存在する。しかし、それらを踏まえた上で、その時代を知る一つのきっかけとして成立するコンテンツと考える。

成果と課題

錦町の取り組みは戦争博物館としては異質のアプローチに映るかもしれない。しかし、これらの取り組みは、地方が抱える課題を解決し、持続可能な観光地づくりを推し進める上で有効ではなかろうか。事実、錦町では、ガイド人や施設スタッフという雇用を創出し、開館から5年で来館者数6万人に達した。開館後間も無く突入したコロナ禍での人流の規制や2020(令和2)年7月豪雨災害での交通インフラの被災など様々な制約があった中でも、年間平均1万2千人の来館者は成果と言えよう。これらは、負の遺産やダークツーリズムなどと言われる戦争遺跡の従来の概念に囚われることなく、それらが内包する多様な価値をそれぞれに磨き上げた結果である。

 

2020年5月、文化施設と観光を連携させる文化観光推進法が施行されたが、これはまさに錦町の取り組みと同じ方向性を感じる。文化施設の目的を忘れず、集客のための視点も持ち、持続可能な地域のサイクルを生み出すことは、これからの地方創生の基本形の一つと捉えて良いだろう。だが、地方には課題も多く、交通インフラや専門スキルを持つ人材の雇用及び育成、遺跡保存、など課題を上げ出したらキリがない。だからこそ、それぞれのバランスを見極め、地域の描く目標へと前進することを重視した各所の協力体制が必要である。

おわりに

「戦争」や「戦争がもたらすもの」というものを知るための遺跡であれば、一方向の視点でのみ知るものではなく、多種多様な価値観や様々な角度からの視点で捉える事が重要であるし、それらは一人一人異なる。その、自らの捉え方や意見が他人と異なることを知り、この相違をさらにどう捉えるのか、という自分の内面と向き合うことこそ「戦争」とは何かの本質を考えることではないか。それが可能になった時、戦争遺跡は、より自分らしい価値観に気づくための場として、何者をも区別しない、開けたコミュニケーションの場となる可能性がありはしないか。

 

戦争遺跡は、間違いなく多様な価値を内包している。これらを後世に残すためには、その価値を見つけ出し、活用し、来訪者を増やす取り組みが必要だ。そして、戦争とは何かを問い続け気づきを得る場でありながら、歴史を俯瞰で捉え未来へとつながる思考が出来る場でもあるミュージアムの姿を将来に描きたい。


1)『軍需品引渡目録 人吉航空基地地下施設』、防衛研究所戦史研究センター 1945年
2)『人吉球磨は秘密基地 人吉海軍航空基地跡のご紹介』、人吉海軍航空隊を検証する有志の会 2016年
3)広島県の原爆ドーム、沖縄県のガマ、鹿児島県の知覧など

公開日:2023年8月25日最終更新日:2023年11月7日

平本 真子ひらもと まこ錦町立人吉海軍航空基地資料館(山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム)副館長

1979(昭和54)年生まれ。熊本デザイン専門学校卒業。グラフィックデザイナーとして数社の広告代理店にて勤務後デザイン事務所を独立開業。2016年、熊本地震被災後、熊本県錦町へ地域おこし協力隊として赴任。任期満了を経て、現在、一般社団法人錦まち観光協会職員兼錦町立人吉海軍航空基地資料館(愛称:山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム)副館長。