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大社基地遺跡群をめぐる保存運動の経緯と今後の展望

岩本 崇 / Takashi Iwamoto

島根大学 学術研究院人文社会科学系 准教授

大社基地遺跡群 主滑走路(Maps Data: Google, © SIO, NOAA, U.S. Navy, NGA, GEBCO Landsat / Copernicus)

島根県出雲市斐川町に所在する大社基地遺跡群は、アジア・太平洋戦争末期の海軍航空基地を中心とする戦争遺跡である。2021年に主要遺構である主滑走路の西側部分の長さ約600mが国から民間事業者に売却されることが明らかとなった。これをうけて学術団体・市民団体から調査・保存を求めることとなり、筆者もこの運動に深く関わってきた。ここではその経験をふまえて、戦争遺跡の保存をめぐる課題を整理し、今後の展望を述べる。

大社基地遺跡群をめぐる保存運動の経過

大社基地遺跡群は、航空基地遺跡を中心に空襲遺跡や軍用機墜落遺跡、戦時学校遺跡など基地遺跡に関連しながらも性格を異にする遺跡の集合体として把握できる(図1・写真1〜3)。保存問題の対象となった主滑走路は遺跡群の中核をなす遺構であり、建設当時は長さ1,700m×幅120mの規模をもち、長さ1,500m×幅60mがコンクリート舗装されていた。戦後は国有地として90,000㎡が管理されてきたが、2002年以降に旧斐川町への譲渡や民間への売却が進み、その姿を徐々に変えていった。そして、2021年1月に残る主滑走路の西側部分長さ600m×幅45mの27,000㎡を民間事業者が財務省より取得し、住宅地開発を計画していることが明らかとなった。

図1 大社基地遺跡群の主な遺構(モノクロ空中写真は国土地理院蔵)

写真1 主滑走路のコンクリート舗装面に残る型枠痕跡(撮影:筆者)

写真2 魚雷庫に使用された地下壕の内部(撮影:筆者)

写真3  魚雷調整場とみられる地下壕の内部(撮影:筆者)

折しも、市民団体である戦後史会議・松江が『島根の戦争遺跡』1)を刊行し、これに関連する講演会と現地見学会が2月前半に計画されていたため、ここに島根史学会/島根考古学会/戦後史会議・松江の関係者(以下、3者)が集まって対応を検討した。そこでまず3月に調査と現地保存を求める要望書を行政に提出した。また、その時点で判明していた大社基地遺跡群の学術的意義を広く発信するため、普及用リーフレットを作成した(図2)2)。つぎに、全国規模の団体や学会に協力を要請した。その結果、戦争遺跡保存全国ネットワークから遺跡群についての見解表明、文化財保存全国協議会と日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会から調査・保存を求める要望書の提出、考古学研究会では例会報告と会誌への展望記事3)掲載、文献史学7学会(歴史学研究会/石見郷土研究談話会/日本史研究会/広島史学研究会/歴史科学協議会/芸備地方史研究会/大阪歴史科学協議会)から3者要望への賛同署名などの取り組みがおこなわれた。

図2 大社基地遺跡群リーフレット

写真4 現地見学会のようす(撮影:筆者)

また、活動の幅と裾野を広げるため、3者メンバーが中心となって保存運動を推進する団体として「大社基地の明日を考える会」(以下、明日を考える会)を2021年3月に組織した。この明日を考える会では、市民講座(大社基地講座)および現地見学会の開催を中心とした活動を進めた(写真4)。大社基地講座は2021年4月の第1回から、2023年3月の第8回まで回を重ね、毎回50名前後の参加者を得た。講座会場には基地設営隊本部となった旧出西国民学校の一部が保存された出雲市斐川環境学習センターを主として利用し、戦争遺跡の活用実践を試みた(写真5・6)。現地見学会は希望者への随時開催だけでなく、大社基地講座と同時開催にすることで、講座参加者に戦争遺跡を体感してもらう工夫をした。また、地元新聞『山陰中央新報』で2021年5月に「語り始めた滑走路 戦争遺跡・大社基地」と題する計6回の連載を企画し、その後も講座開催や要望書提出などにあわせて戦争遺跡にかかわる論説の投稿を重ねた。これらを受けて、読者からも主滑走路の保存を求める投稿が頻繁になされた。また、明日を考える会のウェブサイト4)を開設し、オンライン署名活動5)やSNSによって幅広く情報発信に努めた。なお、大社基地講座の一部は、YouTubeを通して動画を公開した6)。ただ、保存運動を2020年以降のコロナ禍に進めざるを得ず、直接的な対話を通した活動が大きく制限された点が悔やまれる。

写真5 大社基地講座の会場となった旧出⻄国⺠学校校舎(撮影:筆者)

写真6  大社基地講座のようす(撮影:中原斉)

大社基地遺跡群と戦争遺跡保存の現状と課題

主滑走路をめぐって地元3者や全国学会が行政に要望したのは、①遺跡群全体の総合的な調査の実施、②史跡としての現地保存、③整備と活用を視野に入れた保存管理計画の策定の3点である。とりわけ①の総合調査を強く要望したのは、②・③の保存・整備・活用を実現するにも調査成果にもとづく遺跡の評価が不可欠だからである。この要望にたいし、出雲市からは市が所有する主滑走路の一部約2,900㎡を民間事業者が取得した土地と交換したうえで現地保存しこれを活用すること、主滑走路の開発対象部分について詳細な表面情報の記録をおこなうこと、関連遺構の考古学的調査や文献調査さらには聞き取り調査など総合調査を今後計画的に進めることが示された。しかし、島根県からは近現代の戦争遺跡を埋蔵文化財とする判断基準が明確ではないため、文化財保護法に即した対応はできないといった趣旨の回答があり、主滑走路の一部保存を決定した出雲市もその前提のもと遺跡の価値づけにふれることなく結論を示した点で課題を残した。また、開発による消滅が決定した主滑走路の範囲について発掘調査の実施を要望したが、部分的な調査にとどまった。

地元3者を含めた学術団体が保存をめざすうえで根拠としたのは、1998年に文化庁次長名で出された「埋蔵文化財の保護と発掘調査の円滑化等について(通知)」(以下、平成10年通知)である。この平成10年通知には、「4(1)1)埋蔵文化財として扱う範囲に関する原則」に「3 近現代の遺跡については,地域において特に重要なものを対象とすることができる(原文ママ)」とある。しかし、たとえ平成10年通知があったとしても、遺跡の重要性をめぐる評価が後手に回るとその枠組みの効力が発揮されない現実に直面した。

また、保存運動を通じた行政とのやりとりのなかでは、この平成10年通知にある構造的な問題を強く認識した。その問題は、大社基地遺跡群の主滑走路が「特に重要なもの」だとしても、そうした重要性の評価が体系的かつ具体的でなければほとんど意味をなさなかったという保存運動の結果とも深くかかわる。すべての遺跡を残すことは現実にはできないため、遺跡保存にどうしても選別がはたらく。だからこそ基準は明確でなければならず、基準の妥当性を裏づけるには調査研究の蓄積が必要である。しかし、戦争遺跡を含む近現代の遺跡の多くは、平成10年通知に示された「特に重要なもの」でなければ埋蔵文化財として取り扱うことができないため、行政的には調査がままならない現状にあり、いわば負の連鎖のなかにある。

保存運動を進めるうえでいま一つ痛感した障壁が、地元での保存の機運を高めることの難しさである。大社基地遺跡群の場合は、2002年に新川元滑走路周辺対策協議会が斐川町にたいして陳情をおこなっており、主滑走路の払い下げに際して県立施設の誘致や公園整備、宅地化などの要望が出されている7)。そして当時の報道資料に、「残された負の遺産解消と地域振興を目的」にした要望であると明記されている点はみのがせない8)。必ずしも多数派を占める意見ではないにしても、遺跡に近い住民には「戦争遺跡=負の遺産」との見方が少なからずある。これは戦争遺跡に特徴的な側面としてあり、わたしも実際に運動の過程でそうした声に幾度か接した。

とはいえ、主滑走路の保存が実現しなかった最大の要因は、保存運動の遅れにある。同地は2002年の陸上自衛隊出西訓練場の用途廃止以降に国から払い下げがおこなわれ、東側を中心に県警訓練場や公園の整備、葬祭会館、メガソーラーなどの建設によって開発が進んだ。そして、本格的な保存運動を開始した2021年には全体の半分以上がすでに消滅していた。2002年以降の動向をみれば、主滑走路のさらなる開発は十分に予測しえたが、実際には開発計画が発覚してから保存運動を開始しており、遅きに失したのである。とりわけ、2001年7月に新川飛行場跡を考える会が旧斐川町に大社基地遺跡群の保存を求めて陳情をおこなっていたにもかかわらず9)、こうした市民団体の動きが学術団体に波及しなかった点は重く受け止めねばならない。保存運動の着手が遅れた背景には、戦争遺跡にたいする考古学サイドの意識不足と、それを招いた戦争遺跡にかかわる情報の少なさがある。

戦争遺跡の保存活用をめぐる展望

以上、戦争遺跡の基礎的な調査研究の不足や、戦争遺跡と戦争をめぐる多様な価値観との不可分性といった課題を個人的な経験にもとづいて述べた。一見すると、これらの課題には関連がないようにみえるが、戦争遺跡にそれぞれの価値観が結びつきがちなのは、遺跡の実態が把握できていないためにすでにあるイメージにひきずられることと無関係ではないだろう。だとすれば、必要なのは戦争遺跡の実態把握を目的とした調査研究にほかならない。

写真7 主滑走路のコンクリート舗装面のサンプリング(土木工学研究者とのコラボレーション。撮影:筆者)

しかしながら、戦争遺跡の調査研究を行政的に進めることは現在の埋蔵文化財保護の制度では困難な点が多い。だからこそ、戦争遺跡の調査研究を学術的に実施できる主体として、大学と大学研究者が果たしうる役割は小さくないのである。そもそも現代社会に直結する戦争遺跡は構成要素がきわめて多様であり、考古学だけで評価が可能な研究対象ではない。考古学を核にしながら、多様な学問領域が集まる大学と大学研究者が学際的に取り組むことが望ましい研究対象だといえよう(写真7)。

 

保存活用にかかわる戦争遺跡をめぐる価値観についても、その多様性をある程度許容しつつ、中立的な立場をとりうる主体として大学と大学研究者がコミットできる部分は大きい。大社基地保存運動においても、市民や行政はもちろんさまざまな分野の研究者とともに講座や現地見学会を重ねるなかで認識したが、戦争遺跡はそれぞれがコミュニケーションを交わし、自他の価値観を相対化する場となっていた。そうした場にさまざまな学問領域に根ざした客観的な情報を提供しつつ、場をコーディネートしていく役割が、専門知の融合から総合知の創造をめざす大学と大学研究者には求められている。


1)戦後史会議・松江(編)『島根の戦争遺跡―満州事変、日中戦争、アジア太平洋戦争期の松江市・出雲市・雲南市ー』2021年
2)島根史学会・島根考古学会・戦後史会議・松江(編)『旧海軍 大社基地遺跡群』リーフレット 2021年
3)出原恵三「『旧海軍大社基地遺跡群』(島根県出雲市)の保存について」『考古学研究』第68巻第3号、考古学研究会 2021年、pp.1-5
4)https://www.taishakichi.com(最終確認日:2023年6月13日)
5)https://www.change.org/(最終確認日:2023年6月13日)
6)https://www.youtube.com/channel/UCNK4SvFUszEdRdSIo2-4jnw(最終確認日:2023年6月13日)
7)島根日日新聞社「旧海軍出西飛行場新川滑走路跡地 宅地化など要望の声」『島根日日新聞』2002年7月30日第1面
8)山陰中央新報社「出西の旧海軍滑走路跡地 斐川町が取得へ」『山陰中央新報』2002年6月14日第28面
9)島根日日新聞社「大社基地、保存求め陳情 新川飛行場跡を考える会が斐川町教委へ」『島根日日新聞』2001年7月5日第5面

公開日:2023年8月21日

岩本 崇いわもと たかし島根大学 学術研究院人文社会科学系 准教授

奈良県出身。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。専門は考古学。大手前大学史学研究所研究員、日本学術振興会特別研究員を経て、2009年島根大学法文学部准教授、2018年より現職。主な著書に『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(六一書房、2020年)、『黄泉国訪問神話と古墳時代出雲の葬制』(共編著、今井出版、2019年)、『前期古墳編年を再考する』(共編著、六一書房、2018年)などがある。