建築
石とロープ—古代ギリシア人の夢とかたち—
写真1 アテネのアクロポリス(撮影:筆者 以下同様)
写真2 鑿の痕跡 デルフィ遺跡
石灰岩の多い山がちな大地で、青い海、オリーブ林や深い緑にかこまれ、乾いた空に溶けこむ古代ギリシア建築の遺跡。かつて建物を構成していた散乱石材ひとつひとつに目をこらそうとするとき、そこにさまざまな痕跡が残されていることに誰しも気がつく。
表面を整形した際の鑿の痕(写真2)、金属クランプを用いて石材どうしを繋いだ痕など、その痕跡には古代の多くの情報が含まれる。巨大な岩盤上で永続にも思えるような長い命を吹き込まれた神殿のその建設時に、石に比して脆く儚い存在であるロープが用いられていた痕跡も現在に至るまで残されている。
このコラムでは、古代ギリシアにおける建物の建設、その僅かいっときのために石材に彫り刻まれた、ロープ使用のための痕跡を紹介する。
パルテノン神殿の建設と古代のロープ
紀元前478年、エーゲ海周辺の諸ポリス(都市国家)は外敵ペルシアとの戦いに備え、強力な海軍を誇るアテナイを盟主としデロス同盟を結成した。同盟国からは同盟貢租金が集められていたが、その財政とアテナイの財政が融合してゆくなかで、貢租金はパルテノン神殿の建設にも投入された(写真3)。
写真 3 パルテノン神殿
前447年の着工から僅か15年ほどの短期間で竣工したその建設には、石材や木材、青銅、象牙などの材料が用いられ、それに関わる様々な雇用を通じ人々に富が分配された1)。材料を加工する多くの技術者たちが携わり、その材料を供給するための多様な職能の存在も伝えられている。海上輸送に携わる貿易商や船員、陸上輸送に携わる車職人や道路工夫らに混ざって、ロープ職人の存在もまた確認される。
ロープ職人はκαλωστρόφοςと表記され、「ロープを編む者」を意味する。構成するκάλοςという言葉は綱や縄を、また、στρόφοςという言葉は、回転する、ねじる、撚るといったイメージをもつστρέφωという動詞を含み、撚り縄・編み紐を意味する2)。
古代ギリシアの植物学者テオフラストスは、ロープにあたる言葉として、上記の言葉よりもいくらか華奢な印象の縄・紐・糸にあたる言葉σχοινίονを用いているものの、ロープの材料としてシナノキ類の樹木が用いられた旨を書き残している。
古代ギリシアでは造船、建築、家具等に木材が用いられていたことが知られているが、丈夫で水平にかけられる耐力に強いモミ類やマツ類の樹木が造船や建築をはじめ広い用途に用いられたのに対し、軟らかい材質のシナノキ類は、その板材は軍船で漕ぎ手を保護する船縁板などをつくるのに用いられ、また、その繊維質の樹皮はロープや籠をつくるのに用いられた3)。
石の持ち上げ
古代ギリシアの建設現場では、石切り場から切り出された石材は、建設予定地に運び込まれ、整形され、所定の場所まで持ち上げられ、モルタルを用いずに空積みで順次設置され、仕上げが施された。石材を持ち上げるための巻上げ機も使用された。
石を持ち上げる最もシンプルな方法としては、単純に石材にロープをしっかりと巻きつけてつり上げる方法とされる。大理石など石材の端部が欠けてしまいやすいため、それを防ぐ目的で、ロープと石材端部との間には木片が挟まれていた。しかし、単純に石にロープを回して持ち上げる方法では、石材の形状にもより持ち上げている最中にバランスを崩すことも起こりえた4)。
また、単純に石をつり上げる行為とは異なり、建物の構築現場において石材を持ち上げ運び、所定の位置に積みあげてゆくことは、予定された箇所に石材を設置する際に、石材の底面にまわされたロープを石材どうしの間から引き抜くために再び同じ石を持ち上げる手間を要することについても想定されるべき問題だった5)。
こうして、ギリシアの古代において、単純に切石にロープを巻き付ける手段以外のさまざまな持ち上げの方法が工夫された。ロープを使用するための代表的な痕跡についてみてゆこう。
石材に残る U 字の溝
写真 4 中央部分の石材に U 字溝が確認される。建物内同じ高さの左側の石材も同様。エギナ島アフェア神殿
とりわけアルカイック期(前 8-6 世紀頃)の遺構に確認される手法として、石材の 2 つの側面に U 字の溝を彫り、その溝にロープを掛けて石を持ち上げる方法がある。エギナ島アフェア神殿でもその技法はもちいられた。幅 8 cm ほどの U 字溝は石材の短手側面に設けられ、その溝は隣り合う石材どうしで隠されるため、建物が完成したあとは仕上げ面からは見えなくなる(写真 4)。
また、建物石材の上面にU字6)に穴を彫り込み、そこにロープを通して石を持ち上げたり、石材の位置調整を行うこともあった(写真 5)。
海を隔てたシチリア島(現イタリア)に築かれた古代ギリシアの植民都市遺跡でも、地面に散乱する無数の石材から同様の痕跡が確認される。ロープによる持ち上げのための U 字溝の幅は優に 15 cm を超えるものもあり、持ち上げる石の大きさを考慮するならば、これだけ大きな石材を持ち上げて所定の箇所に設置するのに耐えうるロープは相当丈夫なものだったことが想像され、黄褐色の砂岩に建設時の記憶が生々しく刻まれている。
中には、石材の同じ一つの面に U 字溝が 2 つ並ぶように設けられたものもあり、巨大な石塊を持ち上げた苦労が偲ばれる(写真 6)。
写真5 石材の頂部にU字穴が設けられている。エギナ島アフェア神殿
写真6 石材の同じ面にU字溝が2つ並ぶ例。アクラガス遺跡
彫り残された突出部
また、アルカイック期からすでに用いられていた方法ではあるが、クラシック期(前5-4世紀頃)に一般的に用いられた技法のひとつとして、石材側面の中央部分を彫り残し、四角形もしくは三角形の突出部を設ける方法がある7)。その突出部にロープを掛けたり巻き付けたりすることで石を持ち上げたとされ、突出部は最終的な仕上げの段階で切り落とされたとされる8)。
パルノン神殿の前身である古パルテノン神殿の円柱部材でもこの技法が認められ(写真 7)、また、一般的に建物の基壇部分や地面に近い位置に設置された石材でしばしば確認される(写真 8)。
しかしながらこの突出部が、石材を持ち上げるためのものであるという説には異論もとなえられており、突出部の浅さや、石材の外側へ向かって先細りに逓減する形状、また、通常突出部が石材側面の上方ではなく中央付近の高さに設けられることから、円柱部材に設けられた場合を除いて、この突出部がロープを掛けて持ち上げるためではなく、てこの原理をもちいて石材の位置調整をおこなう目的で設けられたとする説も有力視されている9)。
ただ、現在にまで残された突出部は、最終的に石材が整形され磨き上げられる以前の、石が石切り場から切り出された最初の工程におけるおおよその石塊規模を示すという見方もあり10)、石材が切り出されてから完全に整形されるまでの間に相当量の余剰部分が削り取られたことがうかがえる。
写真 7 円柱のドラム 右側に突出部が残る。古パルテノン神殿
写真 8 下から2段目の石材に突出部が残されている。ペラホラ ヘラ・アクライア神殿
紀元前 5 世紀のクラシック期を待たずして、ロープではなく金属製の器具を用いて石を挟み掴むなどの手段もとられた11)。だが、その場合であってもやはり、その金属製器具の上部をロープに接続することで石材はつり上げられた。
石切り場とロープ
ところで、建設に関わる場面で、ロープ職人の製作したロープは建設現場で石を持ち上げるときにだけ用いられたのだろうか。
古代ギリシア時代、建設に使われる石材が石切り場(写真 9)から切り出される際には、まず、堅い岩盤に石工たちが等間隔に穴を穿つところから始まる。鉄製の楔がその穴にハンマーで打ち込まれ、切り出す石材全体へ亀裂を入れ巨大な石塊がようやく切り出される。
その石塊を岩盤から運び出す際にも、ロープ職人の編んだ丈夫なロープは活躍する。石切り場から予定の建設現場に向かう道中、道路の脇や岩壁に打ち込まれた杭にロープを回し引っかける手法を用いて、運搬時に石材を制動する手段もとられた12)。
ロープは随所で活躍していた。
写真 9 石切り場の事例。ここでは海路で石材が運搬された。タソス島アリキ採石場
建設で活躍した職人たち
前5世紀のアテナイ社会は、市民・在留外国人(メトイコイ)・奴隷で構成され、市民はその中で自由を享受することのできる飛び抜けて特権的な身分であり、奴隷は市民に所有される存在であった。
威厳をはなつパルテノン神殿が立つアクロポリスの岩盤に、エレクテイオン神殿がひときわたおやかに佇む(写真10)。その建設にかかわる会計文書には、建築家、石工、彫刻家、木彫家、大工、木挽き、指物師、絵師、箔置き師、人夫などの職が記されており、建築家の職には2名の市民が就いていた。
興味深いことに、石工と大工の職には市民・在留外国人・奴隷の全ての身分から人員が充てられ、奴隷もまた市民や在留外国人と等しい賃金を受け取っていた13)。
残念ながらパルテノン神殿の建設に携わったロープ職人が受け取っていた賃金の仔細は不明であるが、通常「彫刻家フェイディアスと建築家イクティノスによる作品」と語られるパルテノン神殿の建設を、当時多くの人々が支えていたことを記憶にとどめながら、現在まで残されたその姿を堪能いただきたい(写真11)。
写真10 エレクテイオン神殿
写真 11 アテネ市街とアクロポリス
現代ギリシア、遺跡の発掘現場では古代の建物それ自体を深い地中から掘り起こすことも今なお行われている。重機を用いては建物や遺物を破損する恐れがあるため、作業は全て手作業ですすめられる。金属の杭に巻き付けた細いロープを張りトレンチ(発掘溝)を示す境界線とし、乾燥した陽に焼かれながら、各時代の崩壊層に到達するまで掘ることと記録とを繰り返し、ようやく古代ギリシア時代の目的の床面にたどり着く。出土した遺物や建物の状況から、その場所で当時何が起きていたかを、人種も性別も年齢もあらゆる差異を超越しさまざまな角度から共に考える。
2000年以上もの歳月をかけて踏み固められた土は、ときに実際の建物を構成する片岩以上に堅い。しかしながら、ふと時おり、古代ギリシア時代の石切り場や建設現場にて、良質密実で透明な大理石を当時の技術のみで扱うとはいかばかりの力仕事だったであろうかと、汗が眼にしみることも、下手な道具の扱いで手の皮が剥けて痛むこともいっとき忘れ、思いをめぐらせる。
一日の終わりの夕暮れどきに、汗と土埃にまみれた素肌で乾いた風に涼みつつ、ふと眼前に広がる土にかつて確かに触れたであろう古代ギリシア人の背中を夢想する。
(1) | プルタルコス『英雄伝2』柳沼重剛訳、京都大学学術出版会、2007年、24頁。(Plut. Per. 12. 7) |
(2) | 辞書にはLiddell and Scott, An Intermediate Greek Lexicon: founded upon seventh edition of Liddell and Scott’s Greek-English lexicon, Oxford: Oxford University Press, 1889を用いた。 |
(3) | テオフラストス『植物誌2』小川洋子訳、京都大学学術出版会、2015年、241、299頁。(Theophr. 5. 7. 5) |
(4) | R. Martin, Manuel d’architecture grecque, tome I, Paris: Picard, 1965, p. 209. |
(5) | 西本真一「石で建物をつくること」『世界建築史論集』中央公論美術出版、2015年、6頁。 |
(6) | V字の穴と表現されることもある。Martin op. cit., p. 210. |
(7) | M.-Chr. Hellmann, L’architecture grecque, tome 1 : les principes de la construction, Paris : Picard, 2002, p. 87. |
(8) | Martin, op. cit., p. 209. |
(9) | J. J. Coulton, “Lifting in Early Greek Architecture,” JHS, vol 94, 1974, pp.4-6. |
(10) | A. K. Orlandos, Les matériaux de construction et la technique architecturale des anciens grecs, tome I, Parie : E. de Boccard, 1966, p. 92. |
(11) | Hellmann, op. cit., p. 88. |
(12) | M. Korres, From Pentelicon to the Parthenon: the ancient quarries and the story of a half-worked column capital of the first marble Parthenon, Athens: Melissa, 2001, p. 103. |
(13) | Richard H. Randall, Jr., “The Erechtheum Workmen,” AJA, 57(3), Jul., 1953, pp. 199-210. |