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科学・化学

考古学の新しい研究法「考古生化学: Biomolecular Archaeology」5 ―人類進化の温泉説?土壌に遺された有機化合物からの新仮説

庄田 慎矢 / Shinya SHODA

(独)国立文化財機構奈良文化財研究所国際遺跡研究室長、英国ヨーク大学考古学科名誉訪問研究員、同セインズベリー日本藝術研究所客員研究員

イラスト 蒸気の湧くオルドヴァイ峡谷(画:伊東菜々子)

進化を支えた食行動

人類が、ゴリラやチンパンジーなど他の類人猿の祖先から分かれて独自の進化の道筋を辿り始めたのは、今からおよそ700万年前と言われています。そしてその人類の中でも、私たちヒト(ホモ・サピエンス)が現れたのは、それよりはるかに後の、今から20万年ほど前のことです。その間に、チャド猿人、ハビリス原人、ホモ・エレクトス、ホモ・エルガスタなどのさまざまな人類(ヒト属)が、太古のアフリカ大陸に存在していたことが知られています。ヒト属は時代とともにその脳容量を大きくしていきましたが、反対に、ヒト属の消化器官はチンパンジーなど他の類人猿よりも極めて小さいことが特徴です。ここでいう消化器官には、口、顎、歯、胃、大腸、小腸などが含まれます。

 

ハーバード大学のリチャード・ランガム博士は、「ヒト属の出現をうながしたのは、火の使用と料理の発明だった」という仮説を提示しています。それは、料理(この場合は加熱調理を指します)したものは生のものより消化しやすいため、料理の出現によって、食べ物の咀嚼や消化吸収に必要な時間や労力を大幅に削減できるようになったことが想定できるからです。ランガム博士は、ヒト属の小さな消化器官は、食べ物を採取したその場で食べてしまうのではなく、運搬して調理・加工して食べる食行動と関連するものと説明しています。

加熱の効果

食べ物を加熱することによって、そこに含まれる澱粉がゲル化したり、タンパク質が変性したりして、あらゆる食べ物が柔らかくなります。料理をされる方なら、火を通すことで肉が柔らかくなったり、香ばしくなったりすることは実感として理解できるでしょう。また、私の最近の個人的な体験からいうと、鳥肉の刺身と焼き鳥を並べて食べてみると、前者のムニムニとした噛み切りにくさと、後者のホロリとした肉の崩れ方はとても対照的ですし、咀嚼にかかる時間に大きな差があることは言うまでもありません。

 

しかし問題はそれだけではないのです。例えば、20世紀末にドイツで行われた観察では、生食しかしない(加熱調理されたものを食べない)人々は、生殖機能が衰える傾向があったといいます。つまり、生食しかしない人は子孫を残す確率が減るため、現在の私たちの多くが加熱食に適応するように進化してきている、という考え方もできるわけです。すなわち、ヒトの消化器官が類人猿と比べて小さいのは、調理されたものを食べるという行動や習慣に適応した結果だという考え方に有利な材料を提供しています。

 

ランガム博士以前にも、かのチャールズ・ダーウィンは火をおこす技術を「言語を除いて、おそらく人類がなしとげたもっとも偉大な発明」と呼んだり、また著名な文化人類学者であるレヴィ=ストロースが「料理によって動物と人間のちがいが歴然とする」と述べたり、さらには美食家として有名なジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランが、「人類が母なる自然を手なづけたのは火によってである」と書いていることなど、火の使用が人類の歴史において画期的な出来事であったことは、古くから注目されてきました。

火と加熱の歴史

それでは、人類が火の使用を始めたのはいつ頃のことなのでしょうか。考古学的には、40万年前のイギリスのビーチズ・ピット(Beeches Pit)や、ドイツのシェーニンゲン(Schoningen)で炉の跡(火を焚いた痕跡)が見つかっているのが、遺跡においての証拠として最古級の事例のようです。しかし、ランガム博士は、これらの事例をはるかに遡る190〜180万年前、つまりハビリス原人からホモ・エレクトスへの移行の時期に、すでに人類が火を使用していたと推測しています。これは、ハビリスからエレクトスへの移行にともなって、歯のサイズが縮小し、体のサイズが大きくなる一方、胸郭や骨盤が狭くなる、つまり胃腸の容量が小さくなるという変化がみられるためです。火の使用が遺跡で確認される時代よりも100万年以上前から人類が火を使っていたという大胆な仮説ですが、果たして、これは正しいのでしょうか?

 

最近、この問題に関しての新しい仮説が、考古生化学の研究から提示されています。2020年の「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に掲載された、マサチューセッツ工科大学のアイナラ・システィアガ博士らによる論文です。この論文では、人類が確実に火を操っていたことが明らかな時代である数十万年前よりもはるかに遡る時代に、ヒト属が定住した場所の近くに、地熱的に活発な水源、すなわち温泉があったという考古生化学的な証拠が提示されました。私はこれを勝手に、「人類進化の温泉仮説」と呼ぶことにしています。

オルドヴァイ峡谷からうまれた仮説

この研究の舞台となったのは、鮮新世から更新世にかけて、170万年前頃のオルドヴァイ峡谷(現在のアフリカ、タンザニア北部に位置します)です。オルドヴァイ峡谷は、イギリスの古人類学者メアリー・リーキー、ルイス・リーキー夫妻によって学史上極めて重要な古人類化石やそれに伴う石器が発見されたことが有名で、人類の歴史を探る上で、地球上で最も重要な地域の一つです。

 

システィアガ博士らが用いた研究手法は、古い地層に残された生物の化学的指標を見つけ出す方法です。連続的に堆積する古い地層に含まれている、過去の植物や微生物に由来する脂質生物指標は、その分子構造や組成から周囲の自然環境に関する情報を含んでいます。特定の植物や微生物に特徴的な生体分子に着目して検出を行うことで、その地層が形成された時代の周辺の自然環境について、明らかにすることができます。この連載の第2回「土器残存脂質分析」でも紹介した、ガスクロマトグラフ質量分析計(GC-MS)を用いた有機化合物の同定が、ここでも活躍しています。

 

オルドヴァイ峡谷において、石器や動物の骨が出土したのと同じ地層からサンプリングした土壌試料を、真空凍結乾燥(フリーズドライ)処理した後、粉末の状態にして、化学薬品を用いて脂質を抽出します。そして抽出物をGC-MSを用いて分析した結果、さまざまな有機化合物が検出されました。これらの分析結果をもとにすれば、当時のこの地では、サバンナ草原が拡大する中で、地下水を水源とする河川、水生植物、被子植物低木林、食用植物が生息する資源豊かなモザイク生態系が存在していたことが明らかになりました。そしてさらに興味深いことに、米国のイエローストーン国立公園に見られる熱水の存在と一致する特異な生物指標が、分析対象とした試料から得られたことから、この場所が地熱的に活発な地域であったことが明らかになりました。

 

考古学的遺跡の近くに温泉があることは、他の地域でも見られる現象ですが、過去の環境における熱水の研究や、ヒトの進化への影響は、それまで取り上げられたことがありませんでした。この画期的な研究によって、オルドヴァイ峡谷に存在した熱水や、周囲の利用可能な自然資源をふまえるならば、この地における初期のヒト属は食用植物や肉を熱処理することが可能であった、という仮説が提示されました。

 

つまり、火によって加熱するのとは違う方法で、食物に対する同じような加熱調理の効果が得られることを想定したわけです。ランガム博士が指摘したヒト属の中での解剖学的な変化と、最も古い火の使用の考古学的証拠の間に100万年をこえる時間差があることについてどう説明するのかが難問となっていた状況で、この問題をうまく説明するユニークな仮説といえます。

 

 

ところで、私が先日訪れた別府温泉では、今も地熱や蒸気を利用して温泉卵や温泉野菜を楽しむことができます。

写真1 別府・海地獄で温泉卵が調理されている様子(撮影:筆者)

写真2 別府・鉄輪(かんなわ)温泉街で現在も体験できる「地獄蒸し料理」の様子(撮影:筆者)

温泉の中に卵を直接入れて茹でる(写真1)ことや、高温の水蒸気に卵や野菜、肉、魚介類などをさらす(写真2)ことで、生のものに火を通してより安全な食物にしたり、繊維質のものを柔らかくしたり、風味を豊かにしたりと、加熱調理と同じような効果を得ることができます。

 

私たちが現在親しんでいる、このような水蒸気を利用した食物加工の伝統は、ひょっとしたら、数百万年前のアフリカにまで遡るのかもしれません。

 

 

 

<参考文献>

リチャード・ランガム(依田卓巳訳)2010『火の賜物:ヒトは料理で進化した』NTT出版

レヴィ・ストロース(早水洋太郎訳)2006『クロード・レヴィ=ストロース 神話理論Ⅰ 生のものと火を通したもの』みすず書房

Sistiaga, A., Husain, F., Uribelarrea, D., Martín-Perea, D. M., Ferland, T., Freeman, K. H., Diez-Martín, F., Baquedano, E., Mabulla, A., Domínguez-Rodrigo, M., & Summons, R. E. (2020). Microbial biomarkers reveal a hydrothermally active landscape at Olduvai Gorge at the dawn of the Acheulean, 1.7 Ma. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 117(40), 24720–24728.

庄田 慎矢(独)国立文化財機構奈良文化財研究所国際遺跡研究室長、英国ヨーク大学考古学科名誉訪問研究員、同セインズベリー日本藝術研究所客員研究員

1978年北海道釧路市生まれ。東京大学大学院修士課程、韓国忠南大学校博士課程修了。文学博士。編著書に『アフロ・ユーラシアの考古植物学』(クバプロ、2019)、『青銅器時代の生産活動と社会』(学研文化社、2009)、『炊事の考古学』(共著、書景文化社、2008)、『AMS年代と考古学』(共著、学生社、2011)、An Illustrated Companion to Japanese Archaeology 2nd edition(共編、Archaeopress、2020)など。