Vol.25
Vol.25
特集4
石見銀山の取り組み──これまで・今
島根県大田市教育委員会教育長
「石見銀山遺跡とその文化的景観」は2007年に世界遺産に登録され、指定範囲は約520ヘクタール、緩衝地帯を入れると約3,600ヘクタールで広大である。
一方、遺産登録によって急増する来訪者(観光客)の来訪地は限られたものの、直前の30万人から93万人/年に急増し、今は約50万人くらいである。
図1 世界文化遺産石見銀山遺跡と主な構成資産 ※石見銀山世界遺産センターのホームページ(http://ginzan.city.ohda.lg.jp)から転載
はじめに
石見銀山遺跡は1996年から具体的な世界遺産登録を目指した総合調査を開始し、2007年に世界遺産登録された。
その範囲は、史跡、重要文化財、重要伝統的建造物群保存地区の3種の国指定(選定)文化財からなり、遺産登録の基準※1への適応は、基準(ⅱ)に沿って銀を通した文明間の交流、基準(ⅲ)では、遺跡に残る銀生産の技術、基準(ⅴ)では銀の生産から搬出に至る全体像を不足なく示す、の3つの基準を満たし、その上で、「停止」、「継続」の2側面を持つ文化的景観を加え、全体を「石見銀山遺跡とその文化的景観」としている。
世界遺産としての特徴は以下のとおりである。
① | 「文化財を活かしたまちづくり」のモデルとして取り組んでいる。「考古学的遺跡」、「人が住んでいる」、「町並み・集落の維持がうまく図られている部分とそうでない部分がある」など、大規模開発以外の世界遺産の課題や成果などについてほとんど全ての要素が見て取れる。 |
② | 遺産のある大田市は人口約4万人、遺産のコアである大森には390人、温泉津には340人ほど、沖泊、鞆ケ浦の2つの港町は各10数人のみ。遺産の面積のほとんどは遺跡で、かつ種々の面で脆弱な資産。 |
③ | 遺産登録は初め県主導、次に共同して取り組むこととなり、登録前から県市と民間のパートナーシップを模索して基金を設けるなどし、銀山学習やガイドによる資産の紹介などに取り組んでいる。 |
④ | 観光は世界遺産を支える側面と世界遺産の脅威となりうる面をもつ。駐車場を遺産の外に設け、かつ400台に限定したのは、持続可能な賑わいと穏やかさの両立を目指したから。よって連休など観光のオンシーズンには仮設駐車場からのシャトルバスや駐車待ちの車列が公道に生じている。 |
⑤ | 登録直後の観光客急増を経験しているため、「もっと観光客に来てもらいたい」、「宿泊や観光周遊も」との期待も高く、世界遺産登録10周年を前に行政と民間での検討・協議が進んでいる。 |
1.遺跡の概要
石見銀山の再開発は、1526年。1533年に東アジア伝統の「灰吹法」(精錬技術)を導入したことにより、銀生産量が飛躍的に増え、その技術は全国の鉱山に伝播し、銀生産の隆盛をもたらした。
こうして生産された石見銀など大量の日本銀は、16~17世紀初頭の東アジアに流通し、大きな影響を与えるとともに、ヨーロッパ人の東アジア進出を促す一因ともなり、東西の文明を結びつける文化的交流を促進した。
江戸時代前期をピークとして徐々に銀生産は衰退し、明治期には産業革命による新技術を導入し、採掘が再開されたが、1923年に事実上閉山し、その結果、鉱山活動にも影響された森林景観と一体化して、主に前近代における鉱山の伝統的技術の痕跡は考古学的遺跡となり、また銀生産に関わっていた人々の集落地域も含め、良好に残存している。
遺産はまず、①「銀鉱山跡と鉱山町」が中心的な構成資産である。そこには600カ所以上の採掘と空気・水抜きなどの跡、隣接する1,000カ所以上の小規模な平坦地があり、選鉱から精錬までの作業と生活が一緒に営まれたことが発掘調査で分かっている。区域内には多くの寺院や寺院跡、神社があり、支配関連の遺跡も存在する。城跡は鉱山と離れ、単独に存在する。
「鉱山町」は「大森銀山重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、その中には重要文化財「熊谷家住宅」、「代官所跡」、「羅漢寺五百羅漢」、「宮ノ前」などがある。
銀に関わる流通の資産として②「港と港町」及び「街道」がある。
大森代官所跡上空から大森の町並みと銀山「仙ノ山」を望む 提供:大田市教育委員会
「代官所跡」 提供:大田市教育委員会
「代官所地役人 旧河島家」 提供:大田市教育委員会
2.登録の前後
(1)登録まで
石見銀山は1923年の休山以来、大森町では、「地域住民の誇り」として、行政とは全く関わりなく、全戸加入の大森町文化財保存会が1957年に結成され、以降、1969年に、鉱山初の国史跡指定や民間による資料館の開設、1987年には、伝統的建造物群保存地区選定となった。
従って、世界遺産登録の話も文化財保護や伝統的建造物群保存地区(町並み保存)の延長線上にあることとして、比較的すんなりと受け入れられたところがある。特に、伝統的建造物群保存地区は「文化財と住民との共生」を大きな柱としており、市行政との信頼関係もあって、世界遺産登録に伴う観光・受け入れ対策に向けた協議の場を設け、丁寧な議論を重ね、幾度かの対応変更を行い乗り切った。
(2)来訪者・観光客の急増
30年ほど前には年間10万人と言われていた観光客だが、地元でつくられた石見銀山資料館への入館者は年間2万人ほど。食堂やおみやげ店も限られ、知名度はあったが、町全体が観光一色と言うほどであったわけではない。
1989年の観光坑道「龍源寺間歩」の開設、毛利元就など戦国歴史ブームにより、1996年ごろには年間20万人ほど、以降世界遺産の暫定リストに登載された2000年4月ごろから世界遺産効果(「登録前に見たい」などPR効果)により、年1~2割ほど来訪者が増加し、世界遺産登録前々年の2005年には30万人、前年に40万人、登録の翌月、2007年7月からの1年間は93万人となった。
こうした来訪者増は当然想定していたが、その想定をさらに上回る急激な倍増で混雑したことも事実である。
具体的な見学者数が明らかである有料施設「龍源寺間歩」で見ると、登録の前々年は6万人弱、登録前年に10万人ほどになり、登録後の1年間に44万人、登録2年目はそれより減ったが、約30万人となった(図2)。
図2 石見銀山・観光坑道(龍源寺間歩)の見学者推移
長さ3km程の狭い谷に100万人近い観光客が一気に押し寄せたことになり、ゴールデンウィークなどは人口400人の町に来訪者が1万人を超え、住民生活や観光の両面で困った事態が生じた。
世界遺産としての石見銀山はこの坑道だけではなく、「銀生産から流通の全体像」なのだが、来訪者のほとんどがとにかくこの坑道を目指すため、①世界遺産・石見銀山を目指す来訪者の交通面での受け入れ対策とともに、②坑道を目指す来訪者をどうやって導くかが大きな課題となった。
1)まず遺跡にやってくる方々のために
急増すると想定された多くの来訪者の大半は「春のゴールデンウィークや夏休みには自家用車、秋の観光シーズンには大型観光バス」というのが遺産登録までの理解であった。
まず駐車場対策を最初の課題とし、鉄道・空港からのアクセスは接続などのアナウンスを重点とした。
また、遺産へのアクセス道路網は、完全2車線化していない、大型バスの通行不可能トンネルがあるなど十分でないため、受け入れ対策と併行して主要地方道の整備を県へ要望し、登録までに間に合わせた。
次に、現地までたどり着いた自家用車、バスの駐車場確保については、遺産のビジターセンター(総合ガイダンス)として新たに建設する「石見銀山世界遺産センター」(以降、「センター」と略記)の駐車場に加え、その近くへ新駐車場を設けることとした。
このセンターは、ガイダンスとパーク&ライド、県市の共同調査・研究拠点でもある。無料のガイダンス部分と有料の展示部分があり、遺産登録の年、2007年10月に駐車場と共に一次オープン、翌年10月にフルオープンしている。
センターに隣接する新駐車場を作るにあたっては、「大森の町並み」の住民生活との調和も必須であった。
前述の文化財保存会を中心とする地元住民は、世界遺産の先進地である白川郷に自ら視察調査に出かけ、また軌を一にして、世界遺産登録に伴う諸課題に向き合うため設けられた県市行政と市民によるワークショップ「石見銀山協働会議」での議論経過を踏まえ、大森への入りこみの瞬間風速をそれまでの夏祭りなどのイベントから帰納させて、同時滞在の人数を約2千人と設定した。
この2千人を基に、自家用車に4名弱が乗車し、バスには40名程乗車して来訪することを考え、乗用車を400台、バス約10台の駐車場が必要と考えた。
既存の駐車場に併せ、センター前にバス駐車場と乗用車駐車場を準備し、パーク&ライドの出発点とした。
2)遺跡内の移動
前記の形でセンターかその近くの駐車場にたどり着いた来訪者はその大半がまず、観光坑道「龍源寺間歩」へ向かう。
駐車場から往復7kmの全行程を歩くことも可能であり、世界遺産登録の前後には後述する路線バスに乗れない、あるいは駐車場に停めず、歩く来訪者もあったが、受け入れ側の準備としては駐車した後に、路線バスへの乗り換えを考え、路線バスの増便や臨時便の運行で対応しようと考えた。
登録の直後までは観光坑道「龍源寺間歩」の近くへ、10年ほど前に延長した路線バス(中型)が走っており、登録に伴う乗客の急増に対応するため、臨時便による運行を行ったが、あまりの世界遺産観光の過熱によりバスが停留所を「満員通過」するなどの事態も発生した。
こうした臨時便やバスの増便連続運行によって、バス路線上の住民を中心に交通安全上の問題が提起され、さらに騒音や振動など問題が次々起き、坑道へ向かう路線バスは2010年10月、民間バス事業者の理解を得て廃止された。
従って、現在、センターの大駐車場から町並みへは、いくつかの路線バスのみが、遺産への交通手段として運行されている。
3)遺跡内への車両進入制限
町並みに住む住民が大型車の進入規制の中にも居住しているため、自家用車は「観光車両は入らないで下さい」と自主規制看板を掲げ、さらに道路幅が狭くなるところからは車止めバーと進入禁止表示を付け、離合困難箇所への車両進入を防止した。
また、観光車両以外で、進入が必要な住民は「大森町民です」、住民生活に関わる業務車両などは「関係者です」、などの表示を車のフロントガラスに表示して区別し、歩く観光来訪者に理解を得ることとした。
現在は「観光客は歩く」ことが常態化し、また一時の混雑は連休時など以外解消されたこともあって、住民の車両を咎める者もほとんどなく、一方で観光車両の侵入もほとんどなくなった。もちろん休日など、混雑時には交通整理要員を配置し、日常的には地元雇用の交通整理要員「お助け隊」を置いて交通整理と誘導を行っている。
また、十数年前にボランティアとして発足した「石見銀山ガイドの会」は来訪者の増加に対応すべく、有料ガイドとして人数を確保し、研修によるスキルアップも行い、現在は有料ガイドに合わせて無料のガイドを組み合わせて実施中である。
観光客の急増 提供:大田市教育委員会
観光車両の侵入を防止する看板と、遊歩道の案内看板 提供:大田市教育委員会
3.登録から8年
(1)鉱山と陣屋町/大森
観光の面で概観すると、世界遺産の話などまったくなかったおよそ30年前は、年間10万人と言われていたが、2003年の世界遺産暫定リスト入りから漸増し、登録前年に40万人、登録の翌月、2007年7月からの1年目は93万人となった。登録2年目となる2009年6月までは67万人、3年目には50万人台が見込まれるなど、来訪者数は急増し、現在はおよそ50万人と安定している。
現在の来訪者動向としては、見学意図、見学先、楽しみ方が服装や滞在時間に反映し、ゆったりと歩く態勢で遺跡を見学する方も多く、「大久保間歩」(遺跡内最大の坑道)の限定ガイドツアーは料金(3,800円/2時間半)に種々意見はあったが満足度は高い。
来訪者急増時に瞬間的な不足を指摘され、仮設を行ったトイレ・休憩場所など便益施設は実態に合わせ整い、同じく不足を指摘された食事・喫茶・物販施設も10数店舗でき、住民の申し合わせなどが効を奏し、外部資本を選択し、露店も住民の手により規制した。
一方で世界遺産熱が冷めるとともに外部資本の店舗は撤退し、地元に根付いた事業者は継続し、また、世界遺産の町で勤めたい、暮らしたい、店を開きたいなど若者の声に応えて移住、定住に取り組む地元企業やNPOによって若者や出生者が増加に転じている。
これらのまちづくりは、「おだやかさと賑わいの両立」に向け、住民憲章とその付属申し合わせなど地域ルールを自ら定めた成果である。
石見銀山 大森町住民憲章
未来に引き継ぎます。
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歴史と遺跡、そして自然を守ります。
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安心して暮らせる住みよいまちにします。
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おだやかさと賑わいを両立させます。
「大久保間歩」の内部 提供:大田市教育委員会
(2)温泉津
主に銀山への物資調達の港であった温泉津は、温泉のついた港として江戸~大正まで賑わった。その後、鉄道や陸上輸送の発達に伴いまず海運が衰退し、次に昭和30年代ころまでをピークとする温泉観光の衰退に伴い町の活力が失われる一方、温泉と港の風情が良く残り、銀山との関わりの中で2004年に重要伝統的建造物群保存地区となり、町並み保存が進んでいる。
世界遺産登録の前後には温泉旅館への宿泊者も急増し賑わったが、一過性のブームは収まり、まちづくりと温泉への誘客を目指すヘルスツーリズムや石見神楽の定期上演、温泉津焼きの再興など、NPOや旅館組合などさまざまな実施主体により持続的な取り組みが行われ、下水道整備と洪水対策を含む防災事業も進みつつある。修復された家屋に移住、開店する若者の姿も少しずつ見えてきた。
温泉津地区 提供:大田市教育委員会
温泉津の温泉街 提供:大田市教育委員会
(3)街道・港の集落・山城跡
街道は道標など基礎的な整備は終え、街道沿いの集落やガイドなど有志によって街道を歩くイベントなどが不定期に行われ、街道沿いには集落景観の優れた場所もあり、銀山に関連付けた取り組みもある。
港の集落は、鞆ケ浦に伝統的な建物を改修したガイダンスのサテライト施設を設けたのみであり、2集落の維持を何とかしなければならない状態にある。
山城跡の内、矢滝城跡は地域の手によって登山道の維持がなされているが、他は山吹城跡を除くと見学できるところまで至っていない。
(4)安全対策
来訪者の急増によって、思いもかけない転落事故なども少ないものの起きており、交通安全施設(ガードパイプや注意喚起表示)を景観に配慮しつつ設置している。
また、最近の短時間豪雨や地質上の特性から、道路・町並みへの落石が発生しており、さまざまな公共事業を組み合わせながら継続的に落石対策事業を実施中であり、自主防災組織結成の準備も行われている。
(5)石見銀山協働会議
世界遺産登録を前にどう備え、どう活用していくか、行政と住民のおよそ200名でワークショップを行い、石見銀山行動計画をまとめた。保全、活用、情報発信など、現在もその計画に沿って取り組みが進められている。このワークショップはNPO「石見銀山協働会議」となって活動を継続中。
(6)石見銀山基金
行政事業だけに頼らず、かつ民間活動を支援しようと基金を設け、民間と行政の折半と制度設計をして、3億8千万円ほどができ、税法上の優遇策を設けるために市基金としているが、助成先や助成基準などはNPOや市民参加で案を追認している。文化財修理の所有者負担分について高率助成をし、修理に資している。
(7)学習
世界遺産の価値を長く、広く伝えようと、まず小中学校での石見銀山学習を始め、現地学習の費用(バス代)は石見銀山基金で全額を賄う仕組みとした。市内のほぼ全小中学校で年1回銀山の現地学習を行い、校区内の文化財などとの関連を調べる学校も出てきている。世界遺産学習全国サミットでの発表や地域での発表も行われており、修学旅行で訪れる広島の世界遺産との比較学習なども取り組まれている。
現在、小中学校での授業実践を踏まえ、副読本の刊行作業が進んでいる。
「石見銀山協働会議」のワークショップの様子。民間と行政が協働して石見銀山の保全・活用を目指す。 提供:大田市教育委員会
石見銀山世界遺産センターにおける現地体験学習の様子 提供:大田市教育委員会
4.成果と課題
(1)成果
① | 世界遺産登録を目指すことによって、500ヘクタールを超える範囲が国指定(選定)の文化財となった。登録前には、鉱山には鉱業権があるなど文化財への指定は困難であったが、世界遺産登録を目指すことでその課題は解決に向かった。 |
② | 街道、港の集落、山城など、単体では価値付けや指定同意が得にくい文化財の指定や修復が可能となった。 |
③ | 世界遺産への登録を目指すことで、周囲の道路整備、上水道、電線類の地中化が叶った。 |
④ | 来訪者が急増したことによって駐車場整備もなされ、一方で住民と行政の協議・話し合いも進んで、まちづくりのきっかけが出来た。 |
⑤ | 「石見銀山スタイルの観光」は当初、観光客の急増でなかなか理解が進まなかったが徐々に理解され、歩く(服装、靴)、自転車に乗る、ガイドしてもらうなど定着した。 |
⑥ | 来訪者も登録後に減少したとはいえ登録前からすると倍以上であり、かつ滞在時間も伸び、飲食店、貸自転車など地元事業者も増え、休日などには賑わいがあり、雇用の場もできた。 |
⑦ | 地域に残る若者やUターン者、Iターン者、地域活動サークルや銀山全体に係るNPOも結成され、活動が続いている。 |
(2)世界遺産としての成果と課題
① | 来訪者の急増はその後、予測されたとはいえ漸減し、今は50万人/年ほどで「もう少し多いほうが良い」という事業者を主とする意見と、「このぐらいでちょうど良い」という意見、「大森、温泉津以外ではまったく少ない」などさまざまな意見がある。 |
② | 登録5周年で行った、世界遺産登録の到達点を踏まえた「保全と活用」の持続可能な取り組み、観光キャンペーンなどを10周年に向けどう展開するか。 |
③ | 世界遺産と国立公園のある大田市、わが里の元気はどうやったら再生・維持できるのか。 |
本稿は兵庫県立考古博物館、猪名川町教育委員会が2015年11月15日に開催した「国史跡指定記念シンポジウム「多田銀銅山−−遺跡の価値を活かしたまちづくり・ひとづくり−−」に発表した際の原稿・資料を基に一部加筆したものである。