Vol.32
Vol.32
伝統技術にもとづいた城郭石垣の整備
石川県金沢城調査研究所 名誉所長
新旧二様の石垣勾配「矩返(のりがえ)し勾配」。中央部は慶長後半から元和期の算木積み、向かって左側は慶長初期の角石重ね積み。 撮影:著者
はじめに
熊本地震以来、全国の城郭石垣遺構の安全性への関心が高い。伝統技術としての城郭石垣の成立は、先行する中世寺院の石垣から発展したものと考えられる※1。被災した熊本城には見事な反りをもつ武者返し勾配、正確には矩返し勾配の石垣がある。そしてこの技術は、徳川製大坂城をはじめ、全国の主要な城郭石垣に採用される。矩返し勾配は、中世寺院の石垣にルーツを求める城郭石垣が、継続して学んで得た成果だといえる。こうした石垣づくりに関わった人々が「穴太」であり、彼らが到達した技術こそ、「伝統技術としての城郭石垣」と理解できる。そのうえで、各地の城郭石垣が今かかえる修理と整備の課題について考えてみたい。
城郭石垣の修理と整備へ向けて
城郭石垣の整備は、昭和35(1960)年度から昭和50(1975)年度に実施された特別史跡安土城跡からはじまるといってよい。修理工事は、当時「穴太衆積み」技術・技能継承者13代の粟田万喜三氏(明治44〈1911〉年2月1日生まれ)が担当された。当時の主管は滋賀県文化財課であるが、修理は建築物の復旧手法をもって実施されたという※2。木造建造物は、部材の組み合わせを基本とする。マニュアル化が可能である。しかし、石垣の修理は、1本ごとに長さ・形状の異なる野面石や割石等を使う。結局、石垣修理に必要な設計の方針や工事の実施仕様など、基本方針の要領が得られぬまま、個人の技を優先させる「復元工事」となった。だから、安土城の文化財としての本格的な「修復工事」は、平成4(1992)年以降の事業になるといってよい。
このように、各地の石垣修理も、昭和40年代から50年代にかけて本格的に実施されるが、粟田氏が関わる但馬竹田城や丹波篠山城、紀伊和歌山城、淡路洲本城でも、石垣修理方針について、石積み技能者と文化財行政との間で意思疎通がはかられたのかどうか定かではない。本格的な「修復工事」は平成初期にかけてであろう。
一方、昭和63(1988)年から平成元(1989)年にかけての特別史跡名護屋城跡で実施された山里曲輪の石垣整備は、文化財石垣としての保存修理工事の方針を明確に出し、調査の基本事項を提示しながら行われた(写真1)※3。また、石垣修理の設計方針では、調査結果にもとづき築城時の石垣の範囲や勾配の設定など、工事仕様では、仕様書や工事表の作成、石垣修理の作業工程などと、本格的な修理と整備へむけた体制づくりがはじまる。石垣の本質的価値を問う伏線がここにはうかがえる。
写真1 肥前名護屋城 本丸隅角部(埋没していた最古の石垣)。完成した図3の算木積みと異なり、詰石や小石をもって角脇石の代用をする。 撮影:著者
中世の穴太から近世の穴太へ
すでに従来から紹介してきた近世の穴太に対し、中世の穴太の存在を、具体的に紹介されたのは中村博司氏※4である。『山科家礼記』は、長享2(1488)年に8代将軍・足利義政の居館である東山山荘(のちの特別史跡慈照寺・銀閣寺)の石蔵(石垣の意)を、穴太が築いたことを記した初見史料だとされる(写真2)。氏によれば、穴太は天台宗比叡山延暦寺の支配を受ける中世の技能集団で、山麓の穴太の地を本貫としたという。これはのち近世城郭石垣築成者(石積み技能者)の穴太の本貫地に先行するものであり、前述の技術・技能としての「穴太衆積み」が注目されるのである。
あらためて、粟田万喜三家が伝える近世穴太の技能「石が行きたいところに行かせてやる」を、その「家訓」に求めると※5、まず、丈夫な石垣を目指して、根石の据え方、築石同士の安定の図り方、勾配角度の決め方、上・下石材で石面の合わせ方、石尻への介石の入れ方、築石胴部の合わせ方、先尖りした石面に水縄の当て方など、こうした文意には、石垣の「積み方」というよりは石の「当たり」を重視した「据え方」がうかがえる(図1)。ここでいう「据え方」とは、隅角部にみる算木積みの有無や、築石部で観察できる横目地の「通り」の有無といった「積み方」を説くものではない。だから石材の規格化が次第に顕著となる、のちの元和、寛永期以降の特徴も語らないのである。
すでに検出された、中世(戦国期)穴太の東山山荘(のちに慈照寺となる)の大通水溝施設の石垣を観察する(写真3)※6。ほぼ垂直の勾配で、大小の野面石、割石をバランスよく二段に築く。その配石法は、「積み方」ではなく一石ごとの当たり、「据え方」を重視することがわかる(図2)。
文献と遺構が符合する事例として、近世の穴太がもつ技能の用例を「家訓」から、また、中世の穴太が関わる東山山荘(慈照寺)の事例を紹介した。時代をまたいで技術継承された穴太の「伝統技術」のなかに、石積みの原点「据え方」がみえてきた。職能集団や個人が修得した「技能」、技能(ひと)を支える先人の知恵や経験、それを生かす仕組み(道具や使い方)である「技術」は両輪となって、比叡山延暦寺やその山麓部を拠点に、各地に展開された可能性が高い。
図1 大天守台構築にさいして「万丈(まんじょう)」を建てる。櫓台石垣の外側四壁に「万丈」という柱を建て、それぞれ四隅に水糸を張り、石垣の完成まで動かさない。初期の勾配を決める柱である。(『江府天守(殿守)台修築日記』より)※金沢市立玉川図書館蔵
図2 東山山荘石垣の隅角部と築石部の特徴 作図:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所作成原図に著者が一部加筆
図3 徳川大坂城南外堀高石垣。出角(隅角部)、算木積み(寛永期)。 作図:著者
図4 ノリ返し勾配の図(熊本型)。 出典:北垣 聰一郎『石垣普請』法政大学出版部 1987、石川県金沢城調査研究所編『よみがえる金沢城〈2〉』(木越隆三氏の解説文)北国新聞社 2009
写真2 東山山荘(後の特別史跡慈照寺)石垣(築石部)2段積み。大小ある自然石の築石の配置を考えて詰石をていねいに安定するように入れる。提供:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所
写真3 東山山荘(後の特別史跡慈照寺)の大通水施設の石垣。築石列の背後に裏栗石層がある。築石のひとつひとつが安定するよう配石される。提供:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所
石垣の本質的価値を考える
「石据え」を基本とする構成要素には、石材の粗から精への変遷があり、隅角部における角石の「重ね積み」から、角石と角脇石による「算木積み」へ、築石部での胴部から、石面での合わせ方へ、水縄を使った「垂直勾配」から、傾斜角の「矩勾配」への転換を通して、構造的な変遷がうかがえる。かつて私は、城郭石垣のもつ本質的価値を問う要素として、時代性、地域性、伝統技術、強度(安全性)について、言及したことがある※7。
その後、文化財としての修復工事への関心は高まり、平成15(2003)年には文化財行政担当者や文化庁による全国城郭等石垣整備研究会(以下、「研究会」)が、平成20(2008)年には、文化財石垣保存技術協議会(以下、「協議会」)が設立された。「研究会」は文化財行政担当者、「協議会」は石積み技能者が中心で、それぞれ技術関係者、研究者らも加わった。
翌(平成21)年「協議会」は「選定保存技術」の保持団体にも選ばれた。それは技能棟梁によるたゆみない研鑽や技能者の育成、さらには技術の公開に対して、国からの高い評価が与えられたことを意味する。
また「研究会」では、平成26(2014)年に『石垣整備のてびき』(以下、「てびき」とする)を刊行した。「てびき」では、石垣の本質的価値を評価する属性・指標として、先に紹介した地域性、時代性、(伝統)技術に加え、形態・意匠と精神性の2項目が追加される。これらは文化財としての近世城郭石垣の、本質的価値の評価に不可欠である。
近世城郭の石垣修理とは、幕藩体制下での「その石垣が機能している時代幅、時期幅のなかで実施する」(下限は幕末期)と理解されている。なぜなら、幕藩期の城郭石垣とは、中世以来の、時代をまたいで技術伝承された価値の反映であり、だから藩政期の城郭石垣は、「狭義の本質的価値」を具現したものといえる。
災害復旧工事と本質的価値について
文化財としての城郭石垣の価値の評価に大きな影響を与えたのが、阪神・淡路大震災、続く東日本大震災と熊本地震である。「てびき」では、こうした地震(自然災害)の経験を通して、石垣の本質的価値のあらたな概念規定を行っている。これは、被災経験のない地域での史跡の整備ではなく、被災地域における「災害復旧事業」としての城郭石垣の修理のあり方である。この場合の整備とは、基本的には被災する前の状態に戻すべきである。だから「被災前の本質的価値」を評価するための五つの属性・指標に、さらに時間をかけた丁寧な文化財調査が必要であろう。
各地域、都市の中核に位置する近世城郭遺構をみると、近代、明治期以降に整備した、城郭時代以外の新しい価値をふくむ「城跡」がある。こうした城跡には、それを利用するための公的な施設が生まれ、人々の集まる都市公園として発展する場合もある。都市公園となった城郭公園の石垣には、安全性が求められ、最近では耐震化が強く求められるようになった。
このような環境下で「てびき」では石垣を、非解体を原則に、よりよい現状保存を図る「歴史の証拠」として、また、本物の石垣を後世に残すため、多様な補強対策を取り安全性を高める「安定した構造体」として定義した。この新しい定義の実現に取り組まれるのは北野博司氏※8である。もっとも、その保全と調整の解決へむけては、坂井秀弥氏もいわれるように、困難な課題や宿題も多い※9。
こうしたなかで、廃藩置県以降の近代における「城跡」を、近世城郭と同様のスタンスで、本質的価値の吟味がなされてよいのかどうかである。そのなかで、明治・大正・昭和期にわたり、旧陸軍が関与した段階の石垣をめぐる課題がいま浮上している。
旧陸軍と関わりのある城郭石垣
特別史跡姫路城跡の大手門内堀に架かる現在の桜門は、平成19(2007)年の復元橋である。旧土橋の桜門橋は、明治初期に旧陸軍が、左右の石垣の基礎に河川普請に使う、伝統的な「枠木」工法をもって構築している(写真4)※10。また、明治9(1876)年には、大手の桐の門「櫓跡根敷石垣」が崩れ、陸軍から修理伺いが提出された。このころ、大手門の枡形虎口は修理をふくめ撤去されたのであろう。城内の北勢隠門櫓台石垣は、大正3(1914)年に通路拡幅工事で軍隊が虎口を撤去した。旧石垣と解体整備後の石垣の記録は未整理である。
同様の事例は、国史跡弘前城跡石垣にもある。現在進行形であるが、本丸石垣と西側の天守台が解体途上にある。天守台にあった江戸期の天守は、すでに曳家されてない。関心を集めているのは、天守台の天端をふくむ2段分の石垣は切石による組み直しが認められ、明治期から大正期にかけての陸軍の関与を示す史料もある点である。
私が注目するのは、慶長期段階の石垣(推定)や、明治41(1908)年段階の石垣をふくむ、貴重な明治期の写真14枚を紹介する史跡弘前城の場合である※11。これらを実体視化することで、各時代の修改築の特徴がうかがえる。近世城郭として機能した石垣遺構と、近代の「城跡」に関わる課題の一端が語れるのではないかと期待している。
写真4 姫路城大手旧土橋の枠木と石垣。旧陸軍時代の土橋の両端部には石垣が構築され、その基底部には方形の「枠木(わくぎ)」を設け、栗石が詰められていた。 提供:姫路市教育委員会
文化財石垣と地盤工学
伝統技術としての城郭石垣の修理からは、各時代の先人たちの知恵と経験、技量を学べる機会である。だから修理とは、石垣の全てを一気に解体するというのではなく、はらんだ石垣の一部を直しながら使い続けることを指すといっても過言ではない。
このような歴史的価値をもつ文化財としての城郭石垣を、長期にわたり保存し活用するためには、構造物としての安定性の維持がまず求められる。加えて真正性の保持には、工学的手法をもって、評価判定しようというのが、こうした地盤工学研究者※12の立場である。そうしたなかで、城郭石垣の勾配調査から、その安定性についての個別研究が、地盤工学関係者を中心に、1990年代後半以降、数々の成果を挙げている※13。
文化財としての城郭石垣の本質的価値を探るうえで、歴史学、考古学、そして地盤工学との密接な連携は、これまでにまして必要なことは申すまでもない※14。
まとめ
最近、石垣の耐震化の必要性を説く意見が多い。石垣は崩れないものではなく、いずれ崩れるものと江戸時代の人は考えていたようだ。崩れたら伝統技術をもって直すこと、これを繰り返したのが江戸時代であった。また、どうすれば安定した石垣になるのか。伝統技術とは、知っておかねばならぬこと、してはいけないこと、しなければならないことを自問自答する中で学ぶ。前掲の「協議会」会員の石積み技能者は、いまも作業の繰り返しをいとわない。
中世の延暦寺に淵源をもつ伝統技術の基本は、石垣の「据え方」(「穴太衆積み」)を示すもので、それは近世城郭石垣にも共通して使われた。「本質的な価値」の基本は、この「据え方」であろう。近世城郭石垣の修理に際して、「幕藩期を通して機能している時代幅、時期幅に限定する」のはそのためで、今日的な課題が付加される近代、なかでも明治以降の「城跡」は、近世城郭の本質的価値とは異にした一定の線引きが必要ではないか。それに伴う明治以降の旧陸軍が関わる修理・整備の問題等は、今後の大きな検討課題の一つだろう。