
Vol.36
Vol.36
文化財保護法の改正と地域博物館―課題と展望―
萩博物館総括学芸員
旧萩城下町の眺望(提供:著者)/萩市街の東側に位置する田床山(標高373m)の頂上からは、阿武川河口の三角州上に形成された旧萩城下町を一望することができる。関ケ原の合戦に敗れた毛利輝元が居城を広島から萩に移したことに伴い城下町が整備され、約260年間、長州萩藩の藩都であった。
2018(平成30)年6月に成立し、翌年4月に施行された改正文化財保護法に関して、有識者の間ではさまざまに議論がなされてきた。大雑把にいえば、文化財を積極的に活用することによって地方自治体の観光・経済面の活性化を目論む国と、そればかりが強調されることによって文化財の保存面を不安視する自治体の文化財関係者らとの間で、せめぎあいになっているようである。こうした状況のもと、法改正の意義や評価については他の執筆者に委ねることにし、筆者は、文化財・歴史遺産を活かしたまちづくりに先進的に取り組んできた萩市の博物館を事例として、法改正が市町村立の博物館すなわち地域博物館に与える影響や、今後の課題と展望などについて考察したい。
地域博物館に求められること
現在わが国には約5,000もの博物館が存在するといわれる。しかし一口に「博物館」といっても、規模や内容は千差万別である。まず設置者の観点からみれば、公立博物館(国・都道府県・市町村)か私立博物館(法人・会社・個人など)か、という違いがある。次に収蔵品の観点からみれば、人文科学系博物館(歴史・民俗・美術など)、自然科学系博物館(生物・天文・地質・理工など)、その両方をあわせた総合博物館に区別される。さらに、人口や交通インフラなどを含む立地環境の違いもあるし、そこで働く学芸職員の人数と専門分野によっても、事情が異なってくる。筆者が勤務する萩博物館を例にとると、公立(市立)の総合博物館に分類されることになる。これに立地環境を加味すれば、萩市という地域に密着した博物館、すなわち地域博物館の典型と位置づけることができよう。なお萩博物館には2020(令和2)年4月現在、専任の学芸職員が5名おり、内訳は歴史2名、民俗1名、生物2名である。再任用や非常勤も含めれば、学芸職員の総数は9名になり、人口約46,000人の地方都市にしては恵まれているほうではないかと思われる。
ともあれ、地域博物館にとって一番大切なことは、地域住民に支持され、必要とされることではないだろうか。当たり前のことかもしれないが、地域博物館を永続させるためには、地域住民の生涯学習・文化活動拠点としての役割を担い続けることが肝要ではないかと考えるのだ。ところが、この当たり前のように思われることが、一筋縄では行かないのが現状である。その原因は、行政の一機関である地域博物館の評価が入館者数の多寡で決められがちであるところにある。特に、自治体の財政状況が悪化している昨今においては、入館者数が多ければ多いほど自治体の歳入増加に貢献していることになる。しかし、それがはたして真の意味での住民生活の向上につながるかといえば、そうとはいいきれない。入館者数がどれほど多くても、地域博物館の活動が住民の生活とかけ離れたところで展開されているようでは、住民の支持を得たり、地域社会における必要性を増したりすることにはつながらないからだ。地域博物館は本来、住民の幸福感や満足度を高めるために存在するはずのものであり、それにプラスされる形で観光・経済面への貢献をも果たせるならば、それこそまさに、鬼に金棒の地域博物館ということになるのだろう。
こうしてみてくると、今や地域博物館は、住民と行政の間に立ち、ありとあらゆる要望や課題に応答する万能型施設であることが求められている。先ほど、萩博物館の学芸職員総数は現在9名を数えることから恵まれているほうだと述べたが、上記の内容を全うするためには決して充分な陣容だといえないのである。
萩博物館の外観(提供:著者)/萩博物館は、かつて毛利氏一族(毛利一門)をはじめ、上級武士たちが屋敷を構えていた萩城三の丸内(現在の萩市堀内)に立地し、藩主が参勤交代で通った「御成道」に面する。右側の建物は、萩博物館の建設の際に復元された毛利一門の一家、大野毛利家の隅矢倉。
「改正文化財保護法」の活用
文化庁のホームページで「文化財保護法及び地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律の概要」を確認すると、その趣旨は「過疎化・少子高齢化などを背景に、文化財の滅失や散逸等の防止が緊急の課題であり、未指定を含めた文化財をまちづくりに活かしつつ、地域社会総がかりで、その継承に取組んでいくことが必要。このため、地域における文化財の計画的な保存・活用の促進や、地方文化財保護行政の推進力の強化を図る」※1とされている。「過疎化・少子高齢化」は、今や全国でこれを意識していない自治体を見つけることが困難なほどのハイペースで進行している。現に萩市では2015(平成27)年に50,816人だった人口が2019(令和元)年に46,691人へと、この4年間で約4,000人も減っている。人口減に歯止めがきかない現状において、旧長州萩藩毛利家36万9千石の城下町であった萩市のように、豊富な文化財に恵まれた地方都市でカンフル剤として期待されているのが、インバウンド(訪日旅行客)を含む交流人口の増大であることは論をまたない。
そうした観点から法改正の要点を確認すると、(1)地域における文化財の総合的な保存・活用、(2)個々の文化財の確実な継承に向けた保存活用制度の見直し、(3)地方における文化財保護行政に係る制度の見直し、といった新しい制度は、うまく機能させられれば地域博物館の活動にとってもプラスになると期待できる。せっかく作られた仕組みを画餅で終わらせないように努めたい。
実はまちづくりの観点から見た場合、萩市はかなり先進的に取り組んできた自治体である。それは、昭和30年代の高度成長の影響で全国的に、歴史的な町並みや集落が失われたこととも関係しており、萩市は1972(昭和47)年に萩市歴史的景観保存条例を制定し、市内7地区を歴史的景観保存地区に指定した。1976(昭和51)年には萩市伝統的建造物群保存地区保存条例を制定し、堀内地区・平安古地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
その後も2004(平成16)年の萩まちじゅう博物館構想策定、2005(平成17)年の景観行政団体への認定、2007(平成19)年の萩市景観計画の策定、2009(平成21)年の萩市歴史的風致維持向上計画の策定などが続いた。これらによって萩市は、旧城下町の景観保存と維持に努めてきた。なかでも、萩まちじゅう博物館構想によって、同年に開館した萩博物館をその推進の中核施設に位置付けたことは特筆される。この構想で、萩博物館はまちづくりに貢献することを求められるようになり、官民協働で博物館を運営するためにNPO萩まちじゅう博物館も立ち上げられた。こうした萩市の取り組みは、法改正によってより有効に機能するように思われる。要は、自治体による主体的で独創的なまちづくりを支援するための仕組みとして、積極的に「改正文化財保護法」を活用すれば良いのではないかと考えるのだ。
旧周布家長屋門(提供:著者)/周布家は長州萩藩の上級武士で、萩城三の丸内に屋敷を構えていた。この長屋門は江戸時代中期の建築で、平屋建て本瓦葺き。萩市指定文化財。萩市堀内地区には、上級武家屋敷の遺構が非常に良好な状態で保存されており、重要な景観構成要素となっている。
地域博物館のまちづくりへの貢献
現在、萩博物館は萩市役所観光政策部に属している。同部には、観光課、まちじゅう博物館推進課、文化財保護課(同課内に世界文化遺産室を付設)、萩・明倫学舎推進課、ジオパーク推進課も属している。萩博物館は1959(昭和34)年設立の萩市郷土博物館の後継施設として2004(平成16)年に開館したのであるが、それに合わせて事実上、教育委員会から市長部局に所管替えされたという経緯がある。2005(平成17)年3月施行の萩市教育委員会事務の補助執行に関する規則は、萩市教育委員会の権限に属する事務の一部を市長の事務を補助する職員に補助執行させるとし、具体的には、文化財の保護に関する事務、博物館の管理運営に関する事務などが挙げられているのである。ただし当初、萩博物館は萩市の総合政策部に属し、その後、2009(平成21)年度に文化・スポーツ振興部、2011(平成23)年度に歴史まちづくり部、2015(平成27)年度に所属部なし、2016(平成28)年度にまちじゅう博物館推進部、2018(平成30)年度に観光政策部と、萩市の機構改革・行政施策と密接に絡んでめまぐるしい変遷をたどっている。このように、博物館のポジションが一定していないのは全国的に見て珍しい例かもしれないが、その時々で、行政が博物館に何を期待するかが微妙に揺れ動くからだと思われる。
ともあれ、現在も萩まちじゅう博物館構想は、萩市の基本ビジョンの3つの柱の一つとして行政施策の基幹にあることはゆるぎない(他に、ひとづくり構想、地域産業振興構想)。そうしたなかで、萩博物館が真の地域博物館として永続していくためにはどうすればよいのであろうか。それは先ほども述べたとおり、地域住民の生涯学習・文化活動拠点としての機能を果たしつつ、経済・観光面を中心とする行政課題解決や地域振興にも貢献しうる万能型施設として活動し続けていくこと以外になかろう(萩まちじゅう博物館構想推進イメージ図を参照)。
かつて、理想的な地域博物館の姿を追求した伊藤寿朗氏は、博物館を次のように第三世代までに分類した※2。第一世代は国宝など稀少資料の保存を中心とした古典的な博物館、第二世代は1960年代以降に見られる資料の公開を前提とする博物館、第三世代は1980年代以降に見られる市民が積極的に参加し体験する博物館という具合になる。伊藤氏が目指した第三世代の博物館では、利用者が、博物館から受動的に知識を得る段階から、博物館に能動的にかかわる段階に移行する点を重視する。具体的には、自然系の博物館であればフィールドワーク(野外調査)、歴史・民俗系の博物館であれば古文書や民具の整理など、博物館の根幹をなす調査・研究の段階から市民が積極的にかかわるところに比重を置く。伊藤氏は、大阪市立自然史博物館や平塚市博物館(神奈川県)などをその先駆的事例とする。
しかし筆者は、現在の地域博物館は第三世代の博物館を通り越して、第四世代の博物館へと脱皮を求められているとの思いが強い。それは、人口減対策をはじめとする行政課題が山のように積み重なっているからにほかならない。博物館は時代を映す鏡の一つともいえるが、今ほど地域博物館への期待が大きい時代は、かつてなかったのではないだろうか。そう考えるとき、萩市における萩まちじゅう博物館構想は、持続的な地域社会をつくりあげるための切り札になりうると確信する。このことは、構想の策定にあたり中心的役割を担った西山徳明氏が、萩まちじゅう博物館構想について「市域全体を屋根のない博物館と見なして、市民と行政が一体となった博物館活動を展開し、有形・無形の遺産を再発見、ありのままに現地で展示し分かりやすく解説しながら、同時にそれらを根拠にした新たな文化活動の創造や地域の景観づくりをめざそうとする壮大な取り組みである」※3と説明していることからも大きくうなずける。
萩反射炉(提供:著者)/萩反射炉は、1856(安政3)年に鉄製大砲鋳造を目指して試作されたが、実用には至らなかった。萩市内の恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾とともに、世界遺産「明治日本の産業革命遺産―製鉄・製鋼、造船、石炭産業―」の構成資産となっている。
このように、先般の文化財保護法改正以前から、萩市は萩まちじゅう博物館構想にのっとって住民参加型のまちづくりに取り組んできたところだが、現実にはまだ発展途上である。最近の例では、2015(平成27)年に「明治日本の産業革命遺産―製鉄・製鋼、造船、石炭産業―」が世界文化遺産に登録され、それに萩市からは5つの構成資産が選ばれた。だが、せっかく世界遺産という称号を勝ち得たものの、十分に活用できているとはいいがたい※4。そのためには、一にも二にも住民の積極的な関与が必要だ。世界遺産を守り育てることは、行政だけでなく住民の力なくしては決してなしえないからである。今後の課題は、地域住民が萩博物館や萩・明倫学舎などで世界遺産をはじめとする文化財を積極的に活用していくためのスキルを磨き、一人でも多くの方が現場での案内や解説などを実践できるようになるまでの支援体制づくりであろう。私ども学芸職員は、住民が主体となって世界遺産の保存と活用を図るためのお手伝いをする立場でありたいと願うものである。
最後に付け加えると、萩博物館は本年3月、常設展示の一部リニューアルを完成させたばかりである。新常設展示には、来館者が実際にフィールドを観察しに行きたくなるような仕掛けを施し、なかでも「人と自然の展示室」と命名された展示室には、地域博物館らしい展示が実現した。そのコンセプトは、長州萩藩の兵学者吉田松陰の「地を離れて人なく、人を離れて事なし、故(ゆえ)に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を観よ」※5という言葉にヒントを得たものである。その意味するところは、「土地を離れて人間の存在はなく、人間を抜きにして物事が起きることはない。したがって、人間社会の暮らしやできごとを論じたいのであれば、まずはその地域の様子を詳しく観察しなさい」という具合になろう。自然環境の成り立ちと人間の営み・文化とが密接に絡みあっていることを的確に言い表した言葉で、人と自然の展示室は、萩市の特徴ある大地、海や陸の豊かな自然、長い歴史の一端など、萩という地域を深く掘り下げた展示に仕上がった。ぜひ多くの方々に、萩博物館をスタート地点として、魅力的な萩まちじゅう博物館を体感していただきたい。