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Vol.28

Vol.28

特集2

「山・鉾・屋台行事」のユネスコ登録をめぐって

植木 行宣 / Yukinobu Ueki
全国山・鉾・屋台保存連合会 顧問

「山・鉾・屋台行事」は都市が成熟するなかで庶民が育てた無形の文化遺産である。その文化が世界で評価されたわけで、まずは、日夜保存伝承に心を砕いておられる関係者の皆様にお祝いを申し上げる。

 

「山・鉾・屋台行事」は社会、経済、文化を総合した“地域力”の表現であり、人を育て、人をつなぎ、住みよい地域社会を構築し維持する機能を持っている。とともに、行事だけでなく、主役となる有形の山・鉾・屋台にも大きな価値が秘められている。今回の登録は、祭りの原点を再認識し“地域力”を活性化していくきっかけになるであろう。また、そのように務めなければならぬ責務を負ったということである。

「山・鉾・屋台行事」の成り立ちと展開

「山・鉾・屋台行事」は京都の祇園祭にはじまる。疫病防除を願う下京町衆(市民)の祭事として、鎌倉時代の末頃から南北朝期にかけて成立した。風流拍子物ふりゅうはやしもの(趣向を凝らした笠鉾や仮装を中心に踊り囃すもの)(写真1)がその母胎であり、山鉾の基本的形態も15世紀初頭にほぼ完成をみた。この新しい山鉾の祭りはほどなく京都の象徴ともなって、山口祇園会(山口県山口市)をはじめとする主要な戦国大名の城下町の祭礼に移植された。

 

京都祇園祭(長刀鉾)や尾張津島天王祭の車楽船だんじりふね行事を彩る児の鞨鼓舞(写真2)は、中世における囃子の伝流にほかならないが、登録された33件のうち、中世に始まる「山・鉾・屋台行事」は、博多山笠行事を加えたわずか3件に過ぎない。その他は全て江戸時代に生まれ育ったものである。

pic28_02_01写真1 風流拍子物の代表的伝承 京都市・上野のやすらい花 撮影:著者

pic28_02_02写真2 京都祇園祭の山鉾行事(長刀鉾)の羯鼓稚児舞と前面の懸装 撮影:著者

江戸時代になると、城下町などの都市が全国一斉に広がっていった。それら地域の中心となる町々では、町の賑わいとしての練物ねりものの祭りが盛行した。城下町では多くが藩の主導ではじまったが、市民の成熟とともに町を挙げての祭りへと変化した。

 

練物は、パフォーマンスをともなう趣向を凝らした造り物や仮装のパレードであり、風流拍子物の近世版といってよい祭事である。江戸の天下祭(山王祭と神田祭)がその典型で、「附祭つけまつり」の名で江戸後期まで生き生きと行われた。それは市民の喜びの表現であり、時に奔放な姿を見せ、くりかえし禁じられた。その逸脱と奢侈禁制のはざまで、しだいに造形美を競う流れが強まり、練物を構成する出し物から笠鉾や屋台(囃子や歌舞伎の舞台)を選択的に育てていったのである。

 

山鉾の祭りはそうして地域的特色を誇る多様な「山・鉾・屋台行事」へと発展した。その典型的伝承が、関東に流布するいわゆる江戸型山車(川越氷川祭、佐原の山車行事)であり、名古屋圏に集中的に分布するからくり人形戯を特色とする名古屋型車山やま(亀崎潮干祭、犬山祭、大垣祭、知立祭、高山祭、古川祭の車山・屋台行事)である。

 

それらの祭りは、行事に没頭することでリフレッシュするという機能を全開させた。そこでそれらは、疫病防除の願いを秘めつつも、囃子や歌舞伎などを自ら演じて楽しみ、そして見せるものへと向かっていったのである※1

 

それを代表するのが、長浜曳山祭の曳山行事(写真3)、烏山の山あげ行事(写真4)、秩父祭の屋台行事における歌舞伎狂言、三層構造の犬山祭の車山やま行事のからくり人形戯(写真5)、練物の底抜け囃子屋台に特化した花輪祭の屋台行事などである。

pic28_02_03写真3 長浜曳山祭の曳山行事の曳山と子供歌舞伎 撮影:著者

pic28_02_04写真4 山あげで路上に展開した烏山の山あげ行事の野外劇場 撮影:著者

Unicode写真5 犬山祭の車山行事のからくり人形戯(乱杭渡り) 撮影:著者

さらに、城端神明宮祭の曳山行事や上野天神祭のダンジリ行事(写真6)は、各町それぞれが町印(山や鉾)と囃子屋台を一対で出すが、それこそは練物の基本構成を伝える行事の形態であって、江戸時代における「山・鉾・屋台行事」の成り立ちと広がりを雄弁に物語ってくれる。「山・鉾・屋台行事」はまさに、成長する市民が育て上げた近世都市文化に他ならないのである。しかしなお、そうした実態が周知されているわけではない。福原敏男氏との共著『山・鉾・屋台行事─祭りを飾る民俗造形』(共著、岩田書院、2016)は、その成り立ちと展開についてのコンパクトな通史である。この登録を機会に、「山・鉾・屋台行事」を見直すためにも一読をお願いしたい。

pic28_02_06写真6 一対の山鉾と囃子屋台(上野天神祭ダンジリ行事) 撮影:著者

pic28_02_06_02写真7 一対の山鉾と囃子屋台(城端神明宮祭の曳山行事) 撮影:著者

祭りを支える人・技・物の保護を

行事の主体となる有形の山・鉾・屋台は、人・技・物(原材料や道具)の連鎖の仕組みの頂きに咲く花である。だが、その仕組みは今や基礎から急速に壊れている。それらの仕事が生業として成り立たず、技術の習熟はもとより、後継者も得られなくなっているからである。このことは自助努力では対処できぬ構造的な問題であり、連鎖する仕組みが生業となりうる経済的基盤を拡充する以外に有効な手立てはない。

 

「山・鉾・屋台行事」の本質は、祭りの間だけ姿を現す京都祇園祭の山鉾が明示する。祭りに当たって組み立て、行事の終了とともに解体する習わしは、神は祭りに当たって顕れ、終われば去りゆく日本の祭りの原初の在りようを偲ばせる伝承である。それは、毎年作り変える造山つくりやま──博多祇園山笠、青柏祭の曳山、土崎神明社祭の曳山、角館祭のやま、八戸三社大祭の山車行事などに受け継がれているのだが、山鉾に依るものは、待ち望まれる神ではなかった。災厄、特に疫病となって顕現する祟る神霊であり、山鉾の巡行はそれを鎮め送って防除を願う行為の表示であった。そのため今も祇園祭の山鉾は、いかに観光客がつめかけようが整然たる巡行形態を保ち、決して変えようとはしないのである。「山・鉾・屋台行事」は、山や鉾なしには成立しないということである(図1)。

pic28_02_07図1 京都祇園祭の山鉾の車輪の構造・部材・運行用具 作図:松田元

「山・鉾・屋台行事」は、山・鉾・屋台という物がより良く伝承されなければ、行事の価値も失ってしまう。京都の祇園祭山鉾行事が立ち上げた山鉾保存修理モデル、すなわち現状を精査記録してベストな保存修理方針を策定し、懸装品(山鉾を飾る染織品)については、復元新調に加え現在最高の品を新調補充して原本の保存を図るシステムは、長浜曳山祭、上野天神祭、桑名石取り祭、犬山祭、城端神明宮祭などに広がっている(写真7)。しかし、少子高齢化、都市の空洞化の進展とともにコミュニティーの維持が時とともに難しくなっており、自己負担のお金が手当できぬ町も年ごとに多くなっている。

pic28_02_08写真8 京都祇園祭・後祭巡行の掉尾を飾る復活途上の大船鉾 撮影:著者

例えば上野天神祭ではわずか8戸になった町がある。行事の執行もままならず、一対の「印」や「ダンジリ」の修復にまで手の出しようもないのが現状である。

 

行事の伝承、有形の山・鉾・屋台の保全は、いうまでもなくそれを担う地域の主体性ぬきにはありえない。だが、前述のような事態が進むほどに、国の保護行政を抜本的に拡充し、地域と一体になって保存伝承を図るシステムの構築なしには、生き生きとした伝承は望めない。

 

今回登録された33件の行事は全て重要無形民俗文化財である。これらの山・鉾・屋台の保存修理事業は国の補助を受けられるが、現行の助成は、事業費の5割という定率補助にとどまる。しかも指定が年々増加してきたのに、それに見合う予算の手当が不十分であり、地域が練り上げた計画通りに事業が組めない事態に見舞われつつある。

 

山・鉾・屋台は、先人の技術技能を今に伝える宝庫である。本格的な保存修理事業はそこに凝縮する技術・技能を学べる唯一のチャンスであるが、そうした事業が組みにくくなっている。この現状では、技術の習熟もその伝承も期し難く、物の面から行事が崩れていくのは必至であろう。無形文化遺産保護システムの新たな構築と、その実効性を保証する補助施策が急務であるといわねばならない。

 

2003年の無形文化遺産保護条約(正式名称:無形文化遺産の保護に関する条約、2006年発効)は、国内の無形文化遺産を特定し、目録を作成することを求め、ユネスコにおいて「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(代表一覧表)」を作成することなどを定めた。ただし、保護制度の定めはない。保護については結果的に各国にゆだねることになっているのである。そこへ「和食」が登録され、以後、“活用”の声のみが高くなり、何をどう保護すべきか、肝心の保護の足下を固める施策がおろそかになる傾向が強まっている。まことに危惧すべき事態であり、このまま推移するなら、登録の意義も名ばかりのものとなろう。

 

今回登録の勧告内容で、「4.以前代表一覧表に記載されていた案件を国レベルで拡張し、再提出したこと」(無形文化遺産のグループ化)と、それと連動する「5.環境への影響に注目し、案件に関係する自然資源の継続的使用を保証する策を強調したこと」という2点が賞賛された※2。自然に生かされてきた伝統的な暮らしの文化の現代的意義が重視され評価されたのである。

 

しかし、33件の登録のみで自然資源の確保、結果としての環境保全を達成できないことは自明であろう。その達成を図るためには、多様性を押さえ、可能な限り多くのものを指定して、その全てを無形文化遺産登録へ進めること、人・技・物にわたる総合的な保護の仕組みの保護措置を講じることが肝要である。文化財保護法による保護制度と連動する仕組みを今こそ大きく進めねばならないのである。まずはその第一歩として、5割の定率補助制を見直し、コミュニティーの負担能力に応じた高額助成を実現し、補助事業を拡大して、最小限であろうが、人・技・物の連鎖の構造を維持し伝承できる条件を整えなければならないのである。

奈良会議における重要な合意と日本の責務

無形文化遺産保護条約を受けて、2004年10月、奈良で4日間にわたる国際会議が開催された※3。「有形文化遺産と無形文化遺産の保護─統合的アプローチをめざして」がその主題で、大和宣言がまとめられたが、無形文化遺産をめぐる議論が中心であった。そこで合意を得たのが次の3点である。

 

1. 有形・無形の文化遺産は相互に支えあっており、その統合的把握と保護が不可欠であること。
2. 無形文化遺産の評価はそれぞれの文化的文脈においてなされるべきであること。
3. 有形文化遺産に適用されるオーセンティシティ(Authenticity・真正性=その価値を裏付けるものの一つで、デザインや材料等が当初の価値を維持しているか否かを問う考え方)は、無形文化遺産の認識・保護においては適切でないこと。

 

つまりは、連鎖する人・技・物の仕組みを総合的に押さえねば、無形文化遺産の保護は全うできない。文化の多様性を尊重し、一つの価値基準(主として西欧近代の)をもって処してはならないということである。

 

この理念を共有したのが奈良会議の重要な成果であった。無形文化遺産の「傑作宣言」(能楽、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎、雅楽)から、「代表一覧表」記載(登録制)への転換は、まさしくその理念に則した制度にほかならない※4

 

2009から2011年までの当初の登録は、重要無形民俗文化財の全てを日本の代表一覧表に記載するものとして、それを指定順に申請する方針によるものであった。そして以後もその予定であった。ところがユネスコは、登録件数を絞る方向に進み、現在の毎年50件を上限とするに至ったのである。

登録制とは、文化の多様性を尊重し、それぞれの評価に基づいて、より多くの無形文化遺産の保護を図る仕組みである。登録の稀少化は無形文化遺産保護条約の理念にもとる措置であり、グループ化を賞賛した前述の勧告内容とも齟齬する姿勢といわねばならない。

 

欧米以外の先進国のなかで、日本は近代化に100年余の時間的猶予を持ち得た希有の国である。前近代の伝統的文化を現代につなぐ可能性を保持したということであるが、そこで重要な役割を果たしてきたのが文化財保護法である。なかでも無形の文化的所産(重要無形文化財、重要無形民俗文化財、選定保存技術)の保護の仕組みは、世界に類のない先進的な取り組みであって、日本はその実績に基づく知見を累積している。

 

急激な近代化の波の中にある発展途上国にとって、その日本の経験と知見は大きな示唆を含むと考える。日本はその知見を無形文化遺産の保護に活かす義務があろう。国際社会において謙譲は美徳ではない。保護の理念と仕組みを積極的に世界に発信し、無形文化遺産の保護に資する責務を負っているのである。その努力を怠らないよう最後にお願いしておきたい。

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