
Vol.30
Vol.30
特集
浜松城における整備のあゆみと観光事業
浜松市 文化財課 主幹
浜松城外観 写真提供:浜松市(以下同)
はじめに
浜松城は、静岡県西部に広がる三方原台地東縁の段丘に築かれた平山城である。天竜川西岸の軍事拠点として、元亀元(1570)年、徳川家康によって築城され、その後も歴代城主によって拡張、改変が繰り返された。
浜松城の前身は15世紀に築かれた引馬城である。この頃の城域は、浜松城の中で「古城」とされた部分で、その中心には現在、東照宮が鎮座している。徳川家康が遠江に侵攻した後、引馬城が拡張され、浜松城と改められた。徳川家康の時代の浜松城は、高い石垣や瓦葺きの建物が見られない、いわゆる「土づくり」の城であったと考えられている。
天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすと、家康は関東に移封され、浜松城は豊臣恩顧の大名である堀尾吉晴が領有する。この時期になると、浜松城には多くの石垣が構築され、天守をはじめとする瓦葺きの建物が建てられたとみられる。さらに、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、堀尾氏は出雲に移り、浜松城には再び徳川譜代の大名が配置された。その後、江戸時代を通じて、浜松藩には5~6万石ほどの領地が与えられ、後に老中など幕閣を務める大名が数多く城主の座についた。浜松城を別名「出世城」と呼ぶのは、こうした歴代城主の経歴をもとにしたものである。
1875年の廃城令以後、城郭の多くは民間に払い下げられ、市街地化が進行した。本丸と天守曲輪の一帯のみ旧景観が残され、その主要部分が1959年に浜松市指定史跡とされ、保護策が講じられている。
浜松城跡の整備と観光との関わり
アジア太平洋戦争の敗戦(1945年)後、浜松城とその周辺には、公共施設が集約された。1948年、二の丸跡地には地元の小学校が移転し、1950年には市制40周年記念事業として「浜松こども博覧会」が開催された。こども博覧会は、戦後の復興を象徴するイベントとして企画され、科学博物館、電気通信館、発明館といった、子ども向けの展示館のほか、動物園が併設された(写真1)。動物園では、象の「浜子」が人気を集めた。象はタイから輸入されたもので、復興・平和のシンボルでもあった。復興記念でこども博を開催し、動物園を開園する動きは、同年秋に開催された「小田原こども文化博覧会」と酷似する。タイから象が輸入されたことも一致しており※1、城跡と動物園との相性の良さを伝えている。博覧会の会期中、浜松城の天守台にはベニヤ板に描かれた模擬天守が建てられ、展望台として活用されている。博覧会の跡地はそのまま浜松市動物園に引き継がれ、観光拠点となった。同時に浜松城公園が開設され、公園の一角には50mプールも整備された。こども博覧会の2年後、1952年には浜松市役所の庁舎が二の丸跡地に移転した。この時点で、城跡の中心部に、学校、行政庁舎、動物園、プールが複合する姿が整った。
写真1 1950年代の動物園
浜松城の天守台はもともと私有地であったが、後に観光会社が買収し、1953年には動物園との間にロープウェーが設置された(1956年市営化)。さらに、1957年には夏季国体の水泳大会が浜松で開催されることになり、市営プールが拡張された。国体も戦後復興のシンボル的行事であり、こども博覧会の開催とも通底する整備事業の経緯がうかがえる。国体が開催された1957年、市民の間で浜松城の天守を建設する機運が高まった。1958年に実現した復興天守の建設は、市民に復興事業の総仕上げを強く印象づけるものであった。復興天守の内部には郷土博物館が設けられ、歴史資料が展示された。
復興天守は、市民の寄付金によって建設費用を賄うものであったが、十分な資金が集まらず、天守台の3分の2ほどを用いた小規模なものとなっている。浜松城における天守に関わる史料は皆無であり、構造や外観に関する具体的な根拠はない。とはいえ、市民の悲願であった復興天守は、戦後復興のシンボルとして受け止められ、建設から50年以上が経過した現在においても城下町浜松を象徴する建物として親しまれている。
浜松城公園では、その後も1963年に体育館が、1971年に美術館が開館するなど、城跡の歴史とは直接関わらない公共施設の建設が続いた。この時期における浜松城公園の整備は、市民を対象とした文化・スポーツ・レクリエーションの拠点化を目指したものであり、市民生活の要請にこたえる施設に、観光的要素を加味させたものであったと評価できるだろう。
浜松城公園の景観は1978年のプール廃止と1983年の動物園移転を経て、様変わりを始める。2008年の体育館撤去も同じ動きとして整理できる。これらの施設の跡地には日本庭園や芝生広場、駐車場などが整備された。これらの動きは一般的な都市公園としての機能を高めることに主眼が置かれており、歴史的景観を顕在化させる配慮は薄かったといえる。天守台とその周辺も、復興天守が築かれた1958年から基本的に変わることがなかった。
一方、観光ガイドのサービスについては、1999年に「浜松観光ボランティアガイドの会」が組織され、浜松城での案内が始まった。ガイドの会は順調に運営が続き、2017年時点で125名の会員が登録され、さまざまな解説や案内活動を行っている。
近年の整備と観光事業
浜松城の歴史的景観を取り戻す動きは、2009年3月に示された「浜松城公園歴史ゾーン整備基本構想」を契機として本格化した。この構想において、天守曲輪の正門である天守門の再建が検討され、2009年から2010年の間に発掘調査が進められた。発掘調査の成果や絵図面などの検討を経て、天守門が2014年に再建された。復興天守の建築以来、ほぼ半世紀ぶりに城郭に関わる建物が加わった※2。以後、浜松城における歴史景観を整備する事業は広がりをみせ、樹木の伐採が進み、城内の至るところで発掘調査が実施されるようになった。
浜松城での発掘調査は市民の関心が高く、現地説明会の参加者は数百名を数えることが常態である。発掘調査によって判明する新たな事実は、実際の史資料が少ない浜松城においては魅力創出に直結しており、調査に向けられる期待も大きい。浜松市文化財課が作成した浜松城を紹介したガイドブック(写真2)は、シリーズの中でも売り上げが群を抜いて多く、増刷を続けている※3。また、2015年には、発掘調査の成果を紹介する仮設の展示施設が期間限定で城内に建てられ、同時期に実施していた発掘調査の現場も常時開放した(写真3)。発掘調査の現場公開が観光誘客に繋がることを示した事業として位置づけられよう。
写真2 浜松城ガイドブック
写真3 発掘調査速報展示館の展示風景
2009年以降の歴史ゾーン整備事業とともに、活用事業も歴史的な要素が加えられ、活況を呈している。特に、2011年には、市制100年を記念して徳川家康を題材としたマスコットキャラクター(いわゆる「ゆるキャラ」)が誕生し、民間団体を中心として歴史を題材とした演劇の野外上演や、甲冑体験など、趣向を凝らした観光イベントが行われるようになった。2016年には大河ドラマの放映に合わせて女子キャラも登場し、賑わい創出に華を添えている(写真4)。
また、浜松城の前身である引馬城は、豊臣秀吉や徳川家康が関わる地として脚光を浴び、その歴史的経緯を伝えるための銅像が新たに建設された。浜松城や引馬城は、市の観光部局によって新たに「出世の聖地」として位置づけられるようになり、社殿風の構造物「開運さま」まで出現した(写真5)。こうした誘客のための仕掛けは、浜松城の本質的な価値を直接的に伝えるものではないが、来訪者に対して浜松城へ関心を引き寄せる仕掛けとして活用されており、現在も拡大傾向にある。2017年には、浜松城を空撮した画像等を仮想体験できるVRシステムも運用が始まったが、画像のコンテンツによってはキャラクターが登場するなどの融合も進んでいる。
写真4 ゆるキャラと天守門
写真5 開運さま
浜松城と観光、今後の展望
観光のあり方は時代と共に変化している。相対的に団体観光の比重は弱まり、個人旅行のあり方に注目が集まっている。浜松城についても、復興天守や再建された天守門など、中枢エリアが団体観光の受け皿として活用されているものの、個人旅行の多様な要請を満たすためには、不十分と言わざるを得ない。復興天守内には展示施設があるが、浜松城をめぐる豊富な歴史情報を効果的に伝えられていない。展示空間も手狭であることも課題である。今後、来訪者の知的欲求を満たしていくためには、展示ガイダンス機能を充実させることが必須であろう。
個人旅行の目的は多岐にわたるが、伝統工芸に触れるような体験をしたり、誰も知らない空間を探しその場に浸ったりといった非日常的な活動を重視する傾向がある。近年はその実体験をSNSなどで発信することも個人旅行における大事な要素となっている。こうした多様な要請に、現在の浜松城はどの程度、応えることができるだろうか。
天守とその周辺にとどまらず、対象空間を城内全域もしくは城下町全体に広く求めることが必要であろう。また、歴史的な要素だけでなく、芸術や食べ物、ゲームなど、多様なジャンルと複合させ、拡張性をもたせることも求められる。空間的な広がりについては、「古城」である引馬城をはじめ、城下町全体にも注目が集まりつつある。浜松の城下町は、戦時の空襲によって古い木造建築が灰燼に帰したものの、区画の多くは江戸時代から踏襲されており、現地をまわることで城下町の構造は十分に体感できる。城下町の景観を復元した地図※4は好評を博しており、さまざまな場面で利用されている。城下町に関わる情報提示は、現地における看板の整備にも繋がっており、今後さらなる活用の広がりが期待できる。一方、多様なジャンルとの複合事業は、芸術分野での発展に注目したい。城下町の中には、鴨江アートセンターや木下惠介記念館といった芸術に関わる施設があり、今後の事業展開に期待が寄せられている。
おわりに
史跡整備の基本である「真正性」の追求は浜松城においても避けられない。浜松城の場合、古写真や指図など、建物を復元するための史料が著しく不足していることは充分に認識しなくてはならない。一方、2009年以降、継続的に進められている発掘調査は、浜松城の地下に多くの歴史情報が埋もれていることを明らかにしてきた。公園用地にとどまらず、発掘調査の成果を歴史的な景観復元に繋げていくことが、都市の魅力創出に大きく寄与するものといえる。新たに明らかになった豊富な歴史情報をいかに伝えていくか、展示施設や案内看板の充実が大きな課題である。
今後、城跡景観の真正性を追求することによって、新たに創出されたさまざまな仕掛けは変容を余儀なくされると予想される。ゆるキャラや銅像、出世の聖地化など、間口を広げるための仕掛けが今後どのように変容、拡張を遂げていくのか、観光への価値観が転換しつつある時代相を示す事象として、注目していきたい。