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Vol.30

Vol.30

特集

特別史跡 大野城跡


太宰府市

pic30_03_01大石垣 写真提供:太宰府市(以下同)

史跡の概要

古代大宰府の中枢であった大宰府政庁跡を訪れ、南門跡から正殿を望むとき、広々とした景色の背景の真ん中に大野城跡がそびえるように目に飛び込んでくる。

 

古代山城である大野城は、『日本書紀』天智天皇4(665)年秋八月条に「 達率憶礼福留たちそちおくらいふくる達率四比福夫たちそちしひふくふを筑紫國に遣し大野及び椽、二城を築かしむ」とあり、朝鮮半島にあった百済滅亡を受けて行われた白村江の戦いの翌々年に、百済の遺臣たちの指導により築造されたことが知られる。

 

城のある四王寺山(大城山)は最高所では標高410メートルであるが、山の形状は縁が高く北に開く馬蹄形を呈し、縁に沿って一部が二重になる高さ約8メートルの土塁を築いている。谷を包むように城壁が巡る方式のもので土塁は北側と南側の一部で二重になり、谷部では自然石を用いた石塁に移行しており、外周の総延長は約8キロメートルとなる。土塁の9カ所では門の跡が見つかっている。そのうち北側にある2カ所の門は、門の外側が削ぎ落ちた崖になったような「懸門けんもん」という形式を採用し、平時には板橋のようなものを架け、有事には容易に侵入できない構造を持っており、博多湾側に向くこの二つの門は実戦を想定したものであったと考えられる。土塁に内包される尾根や傾斜面には、7群、総数70棟余の礎石建物が形成されている。このように山に依拠し城壁、門、建物を構成要素とする要害は古代の朝鮮半島において多くの類例を持つ上、『日本書紀』に明記された遺跡であり、日本での朝鮮半島系の古代山城の典型例として価値の高い史跡である。

 

また、『類聚三代格るいじゅうさんだいきゃく』宝亀5(774)年三月三日太政官符によれば、新羅の呪詛に対抗して大野城内に四天王像4躯を施入して護国法である最勝王教を転読することとなり、大野城は国家を鎮護する国境に置かれた山岳寺院としての性格を帯びることとなった。山内には堂跡と坊舎跡と思われる段造成群、経塚などがある。

 

遺跡の存在はすでに貝原益軒が編纂した『筑前国続風土記』(1709年)古城古戦場の章に明記されており、江戸時代には認知されていたことが知られる。昭和6(1931)年に福岡県による調査成果が公表され、翌昭和7年7月23日に「大野城跡並びに四王寺跡」の名称で国の史跡に指定された。その後、昭和28年3月31日に「大野城跡附四王寺跡」の名称で国の特別史跡となり、昭和51年12月22日の大規模な追加指定時に「大野城跡」となった。その後、追加指定を繰り返し、現在は福岡県太宰府市、大野城市、宇美町にまたがる指定面積7,509,278平方メートルの大規模遺跡として管理されている。

 

大野城の南裾には九州を統括した官衙かんが大宰府(特別史跡大宰府跡)があり、その6キロメートルほど南には基肄城きいじょう(特別史跡基肄城跡)がある。北西裾には山続きで水城(特別史跡水城跡)が長さ1.2キロメートルの土築の城壁となり福岡平野と筑後平野をつなぐ太宰府地狭帯の北側を塞いでいる。この地狭帯の南側の口にあたる基肄城南東裾では水城と類似した構造を持つ関屋土塁があったが、近年、筑紫野市前畑遺跡で古代の特徴を持つ土塁が丘陵上で発見され、北に大野城をいただく構図で全周約50キロメートル規模の「大宰府羅城」とされる、都市大宰府の外郭が構えられた蓋然性が高いことが指摘されている。この形状は滅亡した百済の最後の首都であった泗泚さびと同様であり、大野城や基肄城のみならず羅城プラン全体が百済式の都城の系譜をひくものとして注目され、そのことは大宰府そのものが東アジアの時代の潮流の中で生まれたことを物語っている。

pic30_03_02大野城跡マップ 図提供:太宰府市

大野城跡・さいふまいり・景観と歴史まちづくり

大野城跡は、筑紫万葉歌壇にも詠まれた山で、万葉集巻五・799の山上憶良が詠んだ「大野山霧立ち渡る わが嘆く息嘯おきその風に 霧立ちわたる」の原風景を、今も政庁跡から見ることができる。これら市内にある万葉世界を感じることができる景観とともに、筑紫万葉歌壇を伝える活動が太宰府市民遺産に認定されている。

pic30_03_03万葉集と原風景

また、江戸後期に隆盛する太宰府天満宮詣である「さいふまいり」の際の遊山の地の一つとして、「大城山」「大野山」「四王院城」などの呼称とともに多くの紀行文等に残されているのも大野城跡である。

 

江戸時代に記された『俳諧青幣白幣はいかいあおぬさしろぬさ』抄には、「四王院城の山右にそばだち」と記されており、大野城に奈良時代後期に建立された四王院を兼ねた呼称がつけられていることが読み取れる。同抄では、文道の神・菅原道真を祀る太宰府天満宮へ参り、宰府宿に投宿しつつ周辺の史跡・名勝を巡っている。この「さいふまいり」は現在も継続され、市域の16%を超える史跡地を「遊山」する人々の姿が見受けられる。大野城跡も含め史跡を保護継承してきたのは、地域の人々の力によるところが大きく、築城以来1350年の長きにわたり地域に住まう人々によって継承されてきた姿は、その時間の長さを物語るかのように威容を誇っている。

 

これら「さいふまいり」、そして史跡を保護継承してきた人々の活動を太宰府市の維持向上すべき歴史的風致として位置づけ、平成22年より「太宰府市歴史的風致維持向上計画」に基づき、大野城跡の環境整備に着手している。これまでに、昨今の豪雨による登山道崩壊地の整備、ユニバーサルデザイン化が立ち遅れたサインについて4カ国語標記に変更するといった活動を行った。史跡本体は文化庁事業として、大野城跡を巡るための環境整備は国土交通省事業として展開し、太宰府市では、前者を文化財課が、後者を都市計画課が担当し、相互の連携事業として実施している。

pic30_03_04大野城跡散策路(整備前)

pic30_03_05大野城跡散策路(整備後)

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