インタビュー・人物
大地に眠る時の記憶を のちの世に伝える 5
国際文化財株式会社 埋蔵文化財調査士
土橋 尚起 / Naoki DOBASHI
発掘調査の目的は、その土地の歴史を「復元するための情報」を報告書に記録保存すること。
報告書は、次の考察・次の発見を生みだす、歴史的考察の根拠となる可能性を秘めた一冊。現場から歴史の証拠を拾い集め、それらのメッセージを解析し、報告書制作に取り組んだ調査員を訪ねました。
砂利と墓石と小学校
今回の調査は、京急青物横丁駅から徒歩5分、品川区立城南小学校と幼稚園の改築に伴うもの。学校は旧東海道に面しており、かつては江戸時代から続く妙国寺(現:天妙国寺)の寺域で、塔頭「修成院」の存在が、古い絵図などに記されているところです。
修成院の跡を見つけ、江戸時代に繁盛した南品川宿と門前町家の様相、当時の東海道の道筋の究明、さらには明治7年(1874年)開校と由緒ある城南小学校の古い時代の遺構の確認、などを目的に行われました。
結果、修成院の跡は、はっきりとは認められず、町家も後世の開発で壊されていましたが、品川区で初めてとなる江戸時代の砂利採取地の跡や、明治45年(1912年)に竣工した城南小学校の二代目校舎跡が明瞭に確認できました。
調査は昭和35年まで使われていた校舎の確認から始まったので、たくさんの文具、おはじきやビー玉、土管など、通常は「ゴミ」や「ガラクタ」とされるようなものもすべて回収しました。
江戸時代から昭和30年代までの大量の陶磁器や、遊び道具の「泥メンコ」、刻印の入った瓦や京都の焼き物、中国やヨーロッパから渡ってきた製品、それらをすべて回収し、並べることで、当時の時代背景と調査で出土した遺物を比べて整理。時代背景と合致するもの、しないものがあれば、それはなぜか・・・と、調べていきました。
集めてみるとわからないことがたくさんあったし、調べて見えてきたもの、わかったことがたくさんありました。
『度量衡変換表記載筒形碗』 「カネ尺で度るもの(かねじゃくではかるもの)/1メートル/三尺三寸」などと書かれています。
例えばこの『度量衡変換表記載筒形碗』。
周囲にメートル法と尺貫法の換算早見表が書かれていますが、メートル法が導入されたのは明治24年(1885年)。大正10年(1921年)に尺貫法は廃止され、昭和34年(1959年)に使用が禁止されるまでは公的使用を除き、併用されていました。赤文字で書かれた「東海尋常高等小学校」は、明治41年(1908年)に設立し、昭和13年(1938年)には「東海高等小学校」と名前が変わります。
これらのことから、二つの時間の流れが重なった期間が、この湯呑が配られた期間であったことが分かります。
きれいに洗浄して現れた輝きと「卍」、そしてこれが何かわかった時の喜びと、今回の出土物で最も思い出深いという『旗頭金具(ばんとうかなぐ)』。
また、近隣では採れない貝や、珍しい鉱石などが大量にまとまって出てきて、現場がお祭り騒ぎになったこともありました。授業に使う教材か、サンプルか、それとも先生の個人的なコレクションかとも思われました。
城南小学校の生徒が東海小学校に移った経緯などもあり、城南小学校で東海小学校の名前が入った遺物が出てくるのは納得です。貝や鉱石は、戦前の学校では土器など考古遺物を学生や教師が集めていた「学校標本」というものと比べてみると、そのような先生と生徒の関係が、かすかに垣間見えました。時代が近いため、当時の配置図や様々な記録と密に照らし合わせることができ、謎解き、というより、パズルのピースをはめ込んでいくように解析していきました。
品川区で初めて確認された江戸時代の砂利採取地については、一度に掘った穴は、深さが70cm~2m、径は2.2~2.9mほどで、掘った穴は埋め戻さずに放置し、次に掘った穴の砂が、風雨によって前の穴を埋めていることがわかりました。その年代は1700年代で、1800年代になると砂利採掘は行われていませんでした。
墓石については全部で160個の出土があり、そのうち97個は石垣の構築物として転用されていました。総重量は約3トン。すべて事務所に運びこみ、自然科学のエキスパートに石材を分析してもらい、墓石の形や、書いてあるものなどの詳細を記録しました。書かれていた年号は「慶安・貞享・元禄・宝永・正徳・享保・元文・延享・宝暦・明和」など、江戸時代のものでした。
次を生みだす報告書のために
現場は、いわば報告書のためのフィールドワーク。報告書は、それを手にした人誰もが、膨大なデータ解析と解析結果のフィードバックによって、次の仮説をたてられるもの、仮説形成に貢献できるものであることが理想です。それには多様なスタッフによる協業作業が不可欠。
現場で回収した遺物は、丁寧に洗浄・乾燥ののち、一つひとつに出土地点などの情報を書き込み、割れた破片をパズルのように、当時の姿に組み上げていきます。さらに、どの種類のものが何個出土したのかを一つひとつ観察のうえ、台帳に記録し、必要なものは実測図や写真を撮影して、報告書に掲載します。
今回の調査では、陶器や磁器の破片を中心に27,728点、8,679㎏の遺物が出土しました。先ほど紹介した砂利の採掘穴では、256点の陶器や磁器・瓦などが出土しています。採掘穴の遺物の年代はいずれも1700年代に限定されるため、この頃に採掘されたと考えました。遺構についても、この穴はゴミ穴、この穴は建物基礎の跡、などと詳細な分析・検討を行いました。
報告書の完成までには、設計図としての「章立て」(構成仕様)があります。ストーリーに沿って部品を並べていき、違っていたら直していく、という作業を繰り返し行い、最後に全体のまとめ(遺跡の評価)をします。
洗浄(現場)/ 撮影:土橋尚起
接合/ 撮影:土橋尚起
実測(大甕)/ 撮影:土橋尚起
実測(墓石)/ 撮影:土橋尚起
報告書刊行前の校正作業
発掘現場は、ある程度の仮説をたてて調査をはじめますが、必ずしも予想通りのものが出るわけではありません。掘るにつれ、どんどん状況が変化するので、その変化に柔軟に対応していかなくてはなりません。違いがあればその理由を推定できるように、さまざまな角度でデータをとる必要があります。
たとえば出土した遺物は「埋めた」のか「埋まった」のか。何かしら、必ずそこに至る理由があるはずなんです。それが何か、背後にある原因を探り、合理的説明ができるような仮説をつくり、次のフィールドワークにつなげる。それを繰り返していくことで、その地域の環境復元の精度があがっていくと思います。
現場で収集したデータを元に、描いたストーリーがその通りか、違うのかを詳しく解析するのが整理作業。
新たな発見を伴うこともあり、考古学の論文を書くための基礎資料にもなりえます。それが有益な情報であり、多くの人々の研究によって成果が出れば、地域の歴史復元や活性化につながります。報告書の役割はそうしたものでなければならないと思っています。
あんな爺ちゃんになりたい。
子どものころは石を拾うのが好きでした。それも素材にこだわるわけでなく、道端でちょっときれいな模様をした石とか、きれいだなって思ったものをなんとなく拾い集めていました(笑)。
転機は高校2年の時。テレビで江上波夫(注1)さんがモンゴルで行っていた調査を追った番組を見て。モンゴルも素敵だったし、江上さんも情熱的で、キラキラしていて、とても魅力的だったんです。あぁ、自分もこんな爺ちゃんになりたいなぁ、と思いました。
その後、考古学を学ぶようになりましたが、なかなか専攻の対象となるものを見つけられませんでした。海外での調査にあこがれていたので、世界中で通用するものを探しましたが、土器も石器もしっくりこない。
そんな中、アルバイト先の国立歴史民俗博物館で「門上コレクション」の図録化のため、実測図を書く仕事に携わり(吉岡康暢・門上秀叡『琉球出土陶磁社会史研究』真陽社,2011)、青磁(中国陶磁器)の美しさと楽しさに出会いました。青磁はアメリカ以外、世界中から出ています。おぉこれだ!と思いました。
日本には中世に盛んに輸入された「龍泉窯青磁(りゅうせんようせいじ)」を専攻しました。都内の遺跡調査でも龍泉窯としばしば出会いますが、そんな時はやっぱりうれしいです。
好きを仕事にすること
江戸時代にオランダからやってきたジンボトル。資料から首のある四角柱状だったことがわかっています。
どんなモノも、どの時代のモノも、その姿かたちに意味があったり、メッセージを持っていたりします。それを調べ、いろいろなことがわかっていくことはとても楽しいことです。次々と好奇心が湧き出てきますが、あくまで主体は地域と遺跡。
自分の主観や思い込みから生まれる好奇心は、とるべきデータをとれなかったり、正しい評価の障害になってしまいます。
これはなんだ?なぜ?どうして?と、やわらかい目でものを見て、「それが存在した時代」を復元できるための調査を考える。決められた期限の中で、やわらかい頭でどんどん考え、どんどんデータを取っていく。それを正しく解析し、そこから見えてくる仮説にともなって、次の発掘調査の在り方も柔軟に対応していくのが肝要です。
報告書を書く段階になって、ここをもっと調べておけばよかった!と後悔したこともたくさんあります。それを減らすのは知識と経験を積むことです。今回の妙国寺北遺跡では、たくさんのモノたちと対峙して、とても面白かった。事務所で墓石に囲まれて一晩過ごしたこともありましたが、怖い目にあうこともなかったですし(笑)。
好きなことを仕事にできるのは幸せですが、同じ仕事内容でも、関係者との価値観の違いや、友好的なコミュニケーションがとれなかったり、やるべきことができないなどの環境だったら、ものすごく苦しい。
孤軍奮闘してもできることは限られてしまうから、現場の進捗も、満足のいく報告書の作成も難しくなります。報告書は、様々な人の手助け、アドバイスがいただけるほど充実したものになります。
東京都は横のつながりがとても良く、たくさんの方からアドバイスをいただくことができました。なかでも「江戸遺跡研究会」の方々との出会いは、知識の扉がぐっと開いたようでした!アドバイスをいただいて、勉強していくうちにいろんなことがわかっていく時の面白さ!知識欲も好奇心も、のびのびと発揮でき、結果的に、自分も少し成長できたな、と思っています。
この仕事は知識を深め、経験を積むほど、できることが増えていくし、楽しくなっていく。興味の持ち方、活かし方でいろいろな働き方ができるのが魅力です。
いつか、海外での調査に行きたいです。人類発祥の地、エチオピアも魅力だし、グレートジンバブエというアフリカの遺跡では、青磁が沢山出土しているようです。アフリカ大陸で遺跡の仕事ができたら、どんなに楽しいだろうか、と夢見て過ごしています。
(取材・撮影 / 宮嶋尚子)
(注1)江上波夫(1906-2002)考古学者。東京大学名誉教授。昭和初頭よりユーラシア大陸全域で複数回の調査を行った。オリエント考古学の確立に貢献。日本オリエント学会会長、日本モンゴル親善協会会長、ならシルクロード博学識委員長ほか多数。
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※報告書「妙国寺北遺跡-品川区立城南小学校校舎改築に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」は、国会図書館・都立中央図書館・東京各区の郷土資料館などで閲覧できます。