コラム

HOME /  コラム /  新たな文化をつくり、未来の文化財をつくる―2011.3.11東日本大震災と宮城県女川町―

動向

新たな文化をつくり、未来の文化財をつくる―2011.3.11東日本大震災と宮城県女川町―

吾妻 俊典 / Toshinori AZUMA

国際文化財株式会社

写真1 女川駅前レンガみち周辺地区 撮影:筆者(以下同)

女川駅から湾に向かう遊歩道を軸に、テナント型商店街が並ぶ。赤褐色の煉瓦と青い海、緑の島々と白い雲に溶け込む「女川駅前レンガみち周辺地区」である。2018年6月に都市景観大賞都市空間部門の大賞(国土交通大臣賞)を、東日本大震災被災地として初めて受賞した。2018年度は町復興推進事業が最終年度になり、新しい門出を祝う受賞となった。2019年3月23日から24日に、このレンガ町周辺で「女川町復幸祭」最終回が開かれる。そこで、これまでの町の復興と文化財が辿った歩みについて振り返る。

写真2 新駅舎と再建した温泉施設Yupopo

写真3 レンガみちの商店街

1 震災と文化財

宮城県女川町は震災被害の大きな町の一つである。地震と津波は、町民の約1割にあたる836名(2018年10月20日現在の慰霊碑記載人数)の尊い命を奪った。倒壊水没による全壊家屋は66.3%、半壊や一部損壊を入れると実に89.2%となる惨憺な被害をもたらした。もともと平地が少なく、湾周辺を取り巻く狭いエリアに役所、商店、工場、民家が集中し、点在する各浜の集落も漁村の浜を取り巻く同じような姿であった。集落が海に面して広がる姿は津波で一変した。

復興では周囲の山裾を削り、町中心部全体を7mほど嵩上整地し、各浜の集落も高台へ移転した。浜と浜の連絡路も、街道を拡幅した道からトンネルや直線道で整備した真新しい道路で繋がった。復旧ではなく復興のコンセプトがよく伝わる。町全体が生まれ変わり、まさに千年に一度の災害がもたらした、千年に一度の復興事業となっている。

文化財はどうなったのだろう。18mを超える津波は、町の中心にありシンボルの一つであった5階建ての生涯学習センターの屋根まで及んだ。1階の展示ロビーにあった尾田峰貝塚の発掘調査資料、「陸前江ノ島のウミネコおよびウトウ繁殖地」の天然記念物指定書、町指定文化財の独國和尚愛蔵の硯、貴重な民俗芸能のVTRなど多くの町有財産が当然のごとく失われた。公民館倉庫の出島遺跡出土遺物や港に面した「マリンパル女川」の漁具展示の一部も海水に浸かった。多くの個人所有の指定文化財も津波に流され、一定の時間を経て指定解除の手続きをとらざるを得なかった。町教育委員会は2011年夏までに、埋蔵文化財包蔵地の全てをめぐり、現況、標柱破損の有無を記録している。土中の痕跡は、海水をかぶれど遺跡として残る。されど人が住まなくなった環境下、数年でその位置を確認することも難しくなった。これ以外にも、高村光太郎が時事新報の紀行文「三陸廻り」の仕事で、1931年8月に宿泊した旅館も姿を消した。震災は文化財の在り様も大きく変えた。

写真4 被災直後の女川湾(2011年夏、町立病院から)

写真5 被災した遺跡をパトロールする文化財保護委員の活動(2016年秋)

写真6 造成中の清水町(2016年秋。かつて中央の沢沿いに旅館、店、家が密集していた)

写真7 山腹に造られた宮ヶ崎の住宅地(2018年秋)

2 震災後の文化財

津波から1ケ月以上たつ2011年4月下旬、流された文化財のうち町指定有形文化財「横浦木村家文書(寛永18年頃~明治3年)」が茶箱一箱分、東の海岸に流れ着き、奇跡的に見つかった。この木村家の大肝煎文書に、仙台藩の御林という飢饉時の領民救済に関わるものが含まれていたことにはある種の因縁を感じるが、それはさておき、発見後の対応がすばらしい。NPO法人宮城歴史資料保全ネットワークが石巻古文書の会や奈良文化財研究所と協力し、塩抜き、真空凍結乾燥など古文書への専門的な保存処理を施した後、資料展示、町民向け講演会で、文書の価値を紹介している。講演は、天保の飢饉後たくましく生きる当地の女性を取り上げたこともあり、今なお難儀な生活を送る町民へのエールとなった。

 

津波によって女川三十三観音の最終番所「補陀閣」の前にあった藪がすっきりした。このことで新たに独國和尚の足跡を知る3碑が発見された。独國和尚関係資料として町指定文化財の追加指定を受けている。発掘調査も多くの知見をもたらした。内山遺跡では縄文時代中期末の複式炉を持つ竪穴建物跡、山崎遺跡では奈良時代の石組カマドをもつ竪穴建物跡を調査している。松葉板碑群では、13世紀末から14世紀代に海へ向かって建てられた板碑を11基発見している。これを契機に、詳しく当地の板碑群を調査する動きも出てきている。調査成果を現地で公開する説明会では、いずれも多くの町民の参加があった。復興に伴う開発が、町の歴史に光を当てる瞬間をつくり、少しづつ文化財の蓄積を町にもたらした。

写真8 新発見の独國和尚関連の石碑(2013年春)

写真9 整備が進む御前浜の防潮堤と周辺(2018年秋)

3 出発そして絆

女川町には新しい出発がふさわしい。JR女川駅南の両陛下行幸啓記念碑に皇后御歌「春風も沿いて走らむ この朝(あした) 女川駅を 始発車いでぬ」が彫られている。

毎年3月下旬に「女川復幸祭」が開かれる。ここ数年は冒頭で紹介した女川駅前レンガみち周辺地区を会場とし、2018年で7回目を向かえた。復幸の字義に込められた願いを受け、ステージでの演出、独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)の復興事業の進捗と計画、各種出店等が設けられる。各種の新しい取り組みと共に、他地域との結びつきが生まれている。2017年の6回目の祭りでは、遠く北海道の岩見沢市内の高校のボランティア部と生徒会「遊んで、学んで 復興支援プログラム×高校生プロジェクトin岩見沢」が岩見沢特産品の販売を行うとともに、慰霊碑に手を合わせ、町民から震災被害と復興の話を聞く機会となった。震災を契機に新たな絆が生まれた一例である。この復幸祭は2019年3月23日、24日に開催予定の8回目が最後となる。これもまた、新たな始まりである。

町の伝統芸能「獅子振り(獅子舞)」も、町内の有志からなる女川獅子振り復興協議会が結成され、公益財団法人文化保護・芸術研究所助成財団、公益法人日本財団、宮城県地域文化遺産復興プロジェクト実行委員会、アメリカン・エキスプレス・インターナショナルに働きかけ、道具を揃えることで復活させたものである。2018年も7月29日(日)に駅前で獅子振り披露会が開かれ、町内13地区の参加があった。

 

被災から6年目にして家が完成し、引っ越すことができた70代後半の男性は、いざ仮設住宅を離れると「その場の仲間が、なんというか恋しくなるもんだね」という。町ではハード部分の建設が進んだ。「今後ソフト面、生きがいつくりの援助、コミュニティーつくり、生涯学習の展開などを通し、人と人の絆を繋ぐ事業が大切になる」と文化財行政に精通した町職員が指摘する。

 

復幸祭を前後する時期に女川湾海頭供養法会がしめやかに行われる。町の宗派を異にする仏教団体が3回忌を契機に結成し、鎮魂する場を提供したものだ。2018年10月に完成した新町役場から海側に目を向けると、建立されたばかりの犠牲者の芳名が刻まれた「東日本大震災の慰霊碑」目に入る。復興事業の前進と鎮魂は表裏で切り離すことができない。これもまた人と人を繋ぐ営みである。人との絆を再確認させたのは、この震災と復興の功業の一つである。

写真10 女川復幸祭2018のステージ

写真11 岩見沢の高校生ボランティアチーム(復幸祭2017)

写真12 女川グッズと観光協会のみなさん(復幸祭2017) 

写真13 震災慰霊碑に花を手向ける人(2018年秋、新庁舎前)

4 災害と復興も町の歴史の一つである

女川町民の友人と語らうと必ず津波の話になる。あの時どう逃げた、水がどこまで来た、亡くなった誰々にはお世話になった。酒の場ともなれば、さらに話が尽きない。

1960年5月のチリ地震津波を高校生で経験した男性の「ここまで逃げれば安心というのがあった、これがよくなかった」との反省の弁を聞いた。町のいたるところに、この津波到達の目印があり、これを遡る昭和三陸地震の「昭和八年三月三日大震嘯災(しょうさい)記念」碑には「地震があったら津波の用心」と書かれ、町内に少なくとも9碑(鷲神、崎山、高白、竹浦、御前、大原、尾浦、野々浜、出島)が建てられていた。注意喚起が万全でも、絶対に安全ということはないという教訓でもある。

今回の震災を伝え記録する学会の催しや刊行物は、一つ一つを取り上げるには余りにも多い。この働きかけもまた歴史の語り部として、長く共有されることになるだろう。

須田善明女川町長は「文化財がなくなってしまいましたが、これから文化財もつくっていきます」と力強く語る。町づくりと共に未来の文化財も創られて行く。我々自身が歴史の一コマを生きている証である。

写真14 野々浜の昭和8年大震嘯災記念碑、裏に天皇皇后両陛下からの救恤金(きゅうじゅつきん)の由緒も記載(2011年冬撮影)

写真15 復興への意気込みを語る須田町長(復幸祭2017にて) 

参考資料
女川町観光協会 http://www.onagawa.org/experience/ 
田中則和「女川町・松葉板碑群の現況と予察」『東北学院大学論集 歴史と文化』第57号、51~94頁、2018年3月
『宮城の災害考古学』刊行特別委員会編『大地からの伝言―宮城の災害考古学―』宮城県考古学会、2016年5月
宮城県被災文化財等保全連絡会議『宮城県被災文化財保全連絡会議活動報告書』2017年2月

吾妻 俊典あづま としのり国際文化財株式会社

宮城県仙台市生まれ。東北学院大学文学研究科修士課程修了。修士(文学)。宮城県女川町町政功労賞(教育文化)受賞(2007年)。2013年より国際文化財株式会社に所属。専門は日本の古墳時代から中世。共著共編『宮城県の歴史散歩』(山川出版社)。論文「多賀城とその周辺におけるロクロ土師器の普及開始年代」『宮城考古学』第6号など。発掘調査報告書『亀岡遺跡Ⅱ』宮城県多賀城跡調査研究所など。