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古代マヤのゲーム「パトリ」②

五木田 まきは / Makiha GOKITA

東京文化財研究所 アソシエイトフェロー

パトリとはどのようなゲームだったのか

広範囲・長期間にわたる資料があるものの、パトリの起源や歴史的変遷、そして古代社会における機能や目的・使用方法などについては未だ定説がありません。古代マヤの人々が行っていたパトリとはいったいどのようなゲームだったのでしょうか。ここでヒントとなるのが、メソアメリカの人々が書き記した絵文書や征服期前後にスペイン人によって記された見聞録などのエスノヒストリー史料、そして先住民族の生活や慣習を観察した民族誌資料です。

 

例えば16世紀のフランシスコ会士Bernardino de Sahagúnが記したHistoria Universal de las Cosas de Nueva España(ヌエバ・エスパーニャ綜覧)には、成人男性が行うパトリと呼ばれるチェッカーのようなさいころ遊びの記述があります1)。十字や方形のコースが描かれたマットを使用し、4つ或いは3つの大きな豆を十字に向かって放るといったもので、暇つぶしとして行っていたと記されています。また別の書物には、この遊びは一種の賭け事であり、あまりに熱中して身を落とす者もいることが著者の嘆きとともに記されています2)

 

民族誌では、1914年から17年にかけてメキシコ人考古・歴史学者Alfonso Casoがメキシコで行った調査の中で、プエブラにおいてpetol、トトナカにおいてはlizla呼ばれるゲームを報告しています。このゲームはアシ或いは大きな豆をさいころとして使用し、マス目で区切られた卍のような形状のコースで行われていると記しています。また、半分割ったアシの茎にそれぞれ異なった印をつけ、その出方の組み合わせで数が決めるさいころの目の算出方法や、プレイヤーは2人或いは2チームに分かれ、それぞれコースの異なる端から駒を進めるといったゲームのルールについても詳細に記録されています。

古代のゲームで遊ぶ

こうした資料に基づいたパトリに関する展示が、ホンジュラスのコパンルイナス市にある博物館で行われています。コパンルイナス市はコパン遺跡訪問の拠点として発展した街で、市街地はコパン遺跡から1キロメートルほどに位置します(写真1)。街の中心は市役所や教会が周囲に並ぶ中央広場で、週末になると周囲の道路には飲食店や土産物の屋台で賑わう市民の憩いの場です(写真2,3,4)。

写真1 中央広場:市役所や教会が周囲に並ぶコパンルイナス市の中心地(撮影:筆者)

写真2 週末の中央広場の様子。バーベキューなどの屋台が立ち並ぶ(撮影:筆者)

写真3 週末になると現れる民芸品の土産物屋台(撮影:筆者)

写真4 土産物類:マヤ文字を模ったペンダントや黒曜石のアクセサリーなど、マヤ文明をモチーフにした作品も多い(撮影:筆者)

2015年に開館したコパンデジタル博物館は同市で最も新しい博物館であり、日本企業のヴァーチャルリアリティ(VR)技術によるコパン遺跡のVR映像が見られるほか、19世紀から20世紀の街の発展の様子も写真や公文書によって知ることができます(写真5)。

写真5 コパンデジタル博物館:中央広場に面した小学校を改修して開館した(撮影:筆者)

パトリ展示はこの博物館の開館第1号の企画展示として企画されました。考古学から歴史、民族誌的な解説を展開すると同時に、パトリボード、さいころ、駒を再現し、実際に手に取って遊べるようにしつらえています(写真6、7)。ここでは、マヤ地域で最も出土例の多い田の字状の図像をコースとし、民族誌で記録されたさいころの目の算出方法とコースの進め方を援用しました。

写真6 パトリ展示室:解説パネルのほか、ゲームを再現した高低2つの台が配置されている(撮影:筆者)

写真7 再現されたパトリ盤(撮影:筆者)

プレイヤーは二手に分かれ、それぞれ同数の駒を持ちます。さいころに見立てた4つの豆の両面には、様々な図案が記されています。駒を進める数は、豆を投げて出た図案の組み合わせで決まります。駒はまずは十字の部分を中央に向かって進みその後左から外枠に出ます。外枠に出ると相手の駒と同じマスの上で鉢合わせることがありますが、その場合は後から来た駒が先にいた相手の駒を押しのけてしまいます。追い出された駒はスタートに戻ってやり直しとなります。外枠を1周回り終えたらまた中に戻り、十字の中央がゴールとなります。手持ちの駒をすべて先にゴールさせた方が勝ちといったルールです。

 

やや複雑なルールですが、地元コパンの人々はある説明をするだけでほぼ理解します。それは、「No te enojesのようなルールです」というものです。これはインドのパチシというゲームを元にドイツで発売されたボードゲームで、コパンでも親しまれています。No te enojes とはスペイン語で「怒らないでね」といった意味で、同じマスに別プレイヤーの駒がいる際に押しのけてしまうというルールに由来します。

 

興味深いことに、19世紀にイギリスの人類学者Edward Burnett Tylorが行った研究において、彼はメソアメリカのパトリはインドのパチシが起源であると述べています3)。この説は後に否定されていますが、非常によく似たゲームがインドとメソアメリカで生まれたこと、そして現在パトリを復元する際にパチシ由来のゲームが一役買っていることに不思議な縁を感じずにはいられません。古代マヤの人々も現代の私達と同じようにさいころの目や駒の行方に一喜一憂していたのでしょうか。


(1)    Bernardino de Sahagún, Historia general de las cosas de Nueva España, Tomo 2. Fomento Cultural Banamex, México, 1829, pp. 292, 317.
(2)    Diego Durán, Ritos y fiestas de los antiguos mexicanos, Editorial Innovación, México, 1980, p. 238.
(3)    E. B. Tylor, “On the Game of Patolli in Ancient Mexico, and its Probably Asiatic Origin.” The Journal of the Anthropological Institute of Great Britain and Ireland Vol.8, 1879, pp. 116-131.

五木田 まきはごきた まきは東京文化財研究所 アソシエイトフェロー

1985年東京都生まれ。金沢大学大学院人間社会環境研究科博士前期課程修了。同後期課程在籍中。2017年より現職。専門は文化資源学、博物館学。2013年よりホンジュラス共和国コパンルイナス市において、文化遺産保全に向けた博物館活動と地域コミュニティ関与の在り方について研究を続けている。