歴史・民俗学
江戸のパワースポット巡り ①徳川将軍家ゆかりの寺社
今年は明治維新150年の節目にあたる。それは同時に、江戸が東京と改称して150年になることを意味する。現代日本の首都東京はその原型が江戸にあり、江戸を巨大な人口を抱える近世都市に発展させたのは、天正18年(1590)8月に入国し、慶長8年(1603)2月に幕府を開いて以来、代々この地を拠点に治めてきた徳川家にほかならない。
江戸の都市計画において、徳川将軍家ゆかりの寺社を京都にならって陰陽道(風水)による意識的に配置したという説がある。すなわち、天下祭で知られる山王権現(現日枝神社)と神田明神(現神田神社)、将軍家の菩提寺である寛永寺・増上寺がそれである。
山王権現(現 日枝神社)
江戸城の主人である歴代徳川将軍家の産土神(うぶすながみ)として知られるのが、山王権現である。その由緒は、文明10年(1478)、太田道灌が江戸城内に川越の無量寿寺(現喜多院・中院)境内の山王社を勧請したことに由来するといわれる。やがて徳川家康が入国すると、山王権現は江戸城内の紅葉山に祀られ、その後は江戸城拡張にともない、寛永期(1624~44)までに半蔵門外に移り、万治2年(1659)に永田馬場の現在地に遷座した。この地は溜池を眼下にのぞむ外堀沿いの高台に位置し、江戸城の裏鬼門にあたるため、江戸城鎮護の役割も担っていた。
「山王御祭礼番附」(筆者所蔵)
天下祭では、事前に見物用に祭礼番附が刊行された。氏子町は山車や、臨時の出し物である附祭などを趣向を凝らして出したが、なかでも山王祭の行列規模は江戸最大であった。
神田明神(現 神田神社)
一方、神田明神は天平2年(730)に武蔵国豊島郡芝崎村に大巳貴命(おおなむちのみこと)が祀られたことに由来する。その後天慶3年(940)に平将門が関東で反乱を起こし、討伐されると、やがてこの付近にその霊を祀る塚ができた。これが現在の将門塚(首塚)である。やがて将門も祭神に祀るようになった神田明神は、江戸城の拡張にともなって、まず慶長8年(1603)に駿河台に移され、さらに元和2年(1616)に現在地である神田川の北側高台の地に遷座した。神田明神は江戸城からみると艮(うしとら)の鬼門にあたることから、その守護神に位置付けられ、将軍家の信仰を集めた山王権現に対して、「江戸の総鎮守」とされたのである。
この2つの神社が天下祭と呼ばれたのは、祭礼当日には江戸城内の上覧所を行列が巡行し、将軍以下老中・若年寄・側衆などがその様子をしばしば見物したことにある。山王祭は6月15日、神田祭は9月15日に行われ、延宝9年(1681)からは双方隔年交代となった。山王祭の上覧を初めて行ったのは3代家光のときであり、家光は家康・秀忠とは異なり、江戸城で誕生していることからもわかるように、山王権現を産土神とする強い意思がその背景にあったようである。同社は江戸時代、天台宗寛永寺末寺の勧理院が別当寺となっていて、神仏習合の状態にあり、祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)を主祭神とし、相殿として一の宮は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、二の宮は足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、三の宮は伊弉冉尊(いざなみのみこと)が祀られており、それゆえ祭礼の際には神輿が一の宮から三の宮の3基出されている。
なお、明治維新後は神仏分離を経て日枝神社と改称し、明治元年(1868)11月、准勅祭社に指定され、同5年に東京府の府社となる。その後も社格は上昇し、同15年に官幣中社、大正元年(1912)には官幣大社となっている。
これに対して、神田明神の祭神は大己貴命と平将門で、祭礼には神輿が2基出された。祭礼の上覧は山王より遅く、5代綱吉の元禄元年(1688)に初めてなされた。これは当初舘林藩主だった綱吉が神田橋門内に上屋敷(神田御殿)を構えていたため、産土神としての意識があったと考えられる。同社は維新後、神田神社と改称し、明治元年11月に准勅祭神社とされ、次いで同5年5月に東京府の府社となり、祭神については同7年8月に平将門を別祠に移し、代わりに大洗磯前(いそさき)神社の少彦名命(すくなひこなのみこと)を分霊した。これは天皇家にとっての逆臣である平将門を祀ることにたいする配慮であったといわれる。なお、現在平将門は祭神に復帰し、祭礼では3基の鳳輦が出されている。
歌川広重「東都名所 神田明神」
神田明神は湯島に続く台地上にあり、境内から東側を望むと、神田や日本橋、さらには江戸湾を見渡すことができた。急な男坂上に設けられた見晴らし茶屋は、しばしばお見合いの場としても用いられた。
寛永寺
ところで、徳川家の菩提寺は天台宗の寛永寺と、浄土宗の増上寺とに分かれている。寛永寺は寛永2年(1625)、幕府の宗教顧問を務めた天海によって江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された天台宗寺院で、京都御所の鬼門を封じるべく建てられた比叡山延暦寺に倣い、山号を東叡山としている。また、眼下の不忍池は琵琶湖に見立てられ、竹生島に対応する中の島に弁財天(弁才天)を祀っている。ここには同寺の貫首であり、天台宗の事実上の頂点に位置付く輪王寺宮の住居があり、歴代将軍のうち、4代家綱(厳有院)・5代綱吉(常憲院)・8代吉宗(有徳院)・10代家治(浚明院)・11代家斉(文恭院)・13代家定(温恭院)の墓所(霊廟)がある(なお、隣接する谷中墓地には15代慶喜の墓がある)。
なお、初代家康を祀る日光東照宮に隣接する輪王寺には3代家光を祀った大猷院霊廟があり、同寺の門跡を兼務していたのが輪王寺宮だった。こうした経緯から、江戸における天台宗の影響力は非常に大きく、末寺の浅草寺が多くの民衆を引き付ける寺院として発展したほか、文化9年(1812)には輪王寺宮が幕府に働きかけて、中断していた御免富(富くじ)の再開を末寺の谷中感応寺・湯島天神(別当喜見院)・目黒不動(瀧泉寺)で実現させる(これを「江戸の三富」という)など、江戸の文化発展のメカニズムを知るうえでも欠かせない存在なのである。
歌川広重「東都名所 上野東叡山全図」
寛永寺は上野山内に広大な境内を有していたが、江戸屈指の桜の名所でも知られ、春には花見客で賑わった。
増上寺
一方の増上寺は古い由緒を持ち、豊島郡貝塚村にあった真言宗の光明寺を起源とし、これを明徳4年(1393)に酉誉(ゆうよ)聖聡(しょうそう)が浄土宗に改宗して増上寺と改めたといわれる。そして12世住職源誉存応のとき、徳川家の菩提寺に取り立てられ、慶長3年(1598)に芝に移転した。以後徳川家の強力な後援を得て、2代秀忠(台徳院)・6代家宣(文昭院)・7代家継(有章院)・9代家重(惇信院)・12代家慶(慎徳院)・14代家茂(昭徳院)の墓所がある。当初将軍家の菩提寺に定められたのは増上寺のみであったが、その背景には超誉存牛(1469~1550)の存在があった。すなわち、存牛は家康の高祖父松平長親の弟にあたり、聖聡の孫弟子として知恩院25世門主となっているのである。
歌川広重「東都名所 芝増上寺」
左に描かれているのが現在国の重要文化財に指定されている山門(三解脱門)で、元和8年(1622)に幕府によって再建され、楼上には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。江戸時代は正月・7月の各16日、彼岸の中日、2月15日、4月8日に庶民が楼上に上ることができ、当時から芝周辺のシンボルだった。
徳川将軍家が別格視したこれら4つの寺社は、まさに江戸最強のパワースポット呼んでもよい影響力を誇っていた。江戸城にとって、寛永寺と神田明神が鬼門に、増上寺と山王権現が裏鬼門に当たる。これが天海の陰陽思想に基づく緻密な都市計画によるものだったという言説がみられるほどに、将軍家や幕府と深い結びつきがあったわけである。なお、寛永寺・増上寺はともに明治維新後は寺域を大幅に縮小しているが、将軍家の菩提寺であったことから、大名家による石灯籠の奉納が代々なされた。現在各地に散在している灯籠のなかには、往時の徳川家の権威のほどをうかがえるものが少なくない。また、江戸時代は氏子町による山車や附祭が主体だった山王祭・神田祭の行列構成は、大正から戦前にかけて氏子町会による神輿を中心とした祭礼にかたちを変えながら、現在でも隔年で祭礼が行われているのである。
将軍家ゆかりのこれらの寺社は、明治維新後150年のときを超えて、現在も江戸東京の守り神として多くの人々に親しまれている。